「治す」ことと「治る」こと | ひろせカウンセリング若手ブログ

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吃音自助グループ廣瀬カウンセリング東京教室の、若手メンバーによるブログです。

どうもこんばんは。最近は更新が滞っていました。

あまりこれといって特別に書くことが無いのですが、最近ぼんやりと感じていることについて書いてみたいと思います。

吃音の人はよく、自分の吃音を治そうとします。それでどうなるかというと、まず治らない。

これはどういうことかというと、吃音という何か対象のようなものを設定して、治そうとしているからです。

世の中には、そういうことができる場合とできない場合があります。

例えば、道端に生えている草を、私が伸ばせるかというと、これは無理です。絶対に伸びません。

水をやったり、肥料を与えることで、伸びるのを助けることはできますが、伸ばすことそのものはできない。

力づくで引っ張ったりしてみても、ただ草が抜けるだけで、伸びることはありません。

これは人間にも当てはまります。

子供の頃とか成長期に、背を伸ばしたいと思って牛乳をたくさん飲んだ、という話がよくありますが、そういうことをしても、伸びない人は伸びない。

その一方で、伸びる人は何もしてないのに伸びる。私も中学生の頃は夜更かししたりして、よほど発育には好ましくない環境でしたが、勝手に伸びて身長180cmになりました。

こんなふうに、世の中には人間が意識で操作できるものと、できないものがあります。

吃音もそうで、意識と離れたところで吃音の症状は出てきます。だから、これを意識によって抑え込もうとしても難しいことが多い。

吃音が治っていく過程にしても同じで、リアルタイムで「あー今治ってる」と分かる訳ではなく、いつのまにか改善していたとか、周囲から指摘されて気付いたというのがよくあります。

これは成長期の身長の伸びと似ていて、たまに一年に20cm伸びたといった話がありますが、その場合でも毎日の生活での変化はごくわずかなので、「あー今背が伸びてる」というような感覚になることはない。

こんなふうに、吃音は意識で動かせるものとは違う次元にあるものなのです。にも関わらず、なぜ意識を使って吃らないようにしようとしたり、治そうとしてしまうのか。

その背景には、言葉を発するという行為が、歩いたり、立ったりといったことと同じようにできるはずだ、という考え方があります。

私達はふだん、自分の意思で身体をコントロールして生活しているので、それと同じように言葉を発する動作も操作できるはずだと思ってしまう。

しかし、人間の身体の動きでも、意識とリンクしていない動きはたくさんあります。例えば、あくびなどがそうですね。あれは意識的にしようとしてもできない。勝手に出てくるものです。

くしゃみをする、熱いものに触れて反射的に手を引くことや、寒い時に震えてくる、鳥肌がたつといったこともそうです。

吃音の症状も、実はそっちのグループに近い。

だから、吃っている最中に、それを止めようとしてもなかなかできない。そもそもコントロールできないものをコントロールしようとしているので、何とかしようとすればするほどどうにもならなくなる。

吃音が治っていく過程も、「治す」というよりも「治る」といったほうが近い。本人の意識とは別のところで治っていくものです。

また喩え話をすると、膝を擦りむいたりした時にできる「かさぶた」は、放っておくと「治る」のであって、「治す」ことはできない。例えば、一週間かけて治る傷が一晩で完治したといったことは、何かすごい奇跡でも起こらないかぎり有り得ません。

これは改めてみるとすごいことです。かさぶたが一週間かかって治っても誰も不思議には思いませんが、一晩で治ったりしたら大事です。超常現象だとかご利益だとかになってしまう。

吃音も同じで、意識によってコントロールして治そうとしているところに、根本的な間違いがあるように思います。端的にいうと、吃音はそういうものではない。

ではどうすればいいかというと、「感覚」ということが大事になってきます。

教室のテキストでは「内臓感覚的刺激」、ロジャーズの原著では「内臓的感覚」、ジェンドリンのフォーカシングでは「フェルトセンス」と表現されている、いま自分はどういう感じがしているか、というところに目を向けていく必要があります。

(ちなみに、小林秀雄の「なんともいえない感じ」や、芭蕉の「ものの見えたる光」や、古文で出てくる「もののあはれ」は、これを芸術の方面から表現しようとしたものといえます。)

それらを、「こう感じないといけない」とか「何も感じることがないのはダメだ」といった義務的な要素を介在させずに、ただ単に感じることによって、意識によってがんじがらめになった人格や吃音の症状に変化が生じます。

「自分はほんとうはこうだったんだ」とか「もしかしたらこうかもしれない」というのが出てきます。

その過程を表現すると、「治す」というよりも「治る」といったほうが近いものです。

長くなりましたのでこのあたりで終わりますが、基本的には「感じる」ことを行っていくだけで、心理的にも症状的にも吃音は改善されると思っています。