中川一政について | ひろせカウンセリング若手ブログ

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吃音自助グループ廣瀬カウンセリング東京教室の、若手メンバーによるブログです。

こんばんは。先週土曜日に11月教室がありました。

 

その後の懇親会で中華屋さんに行ったのですが、同じテーブルに美大出身のkikiさんや現役生のSさんがいて、美術の話で少し盛り上がりました。

 

そのなかで、中川一政のことを少しお話しました。この人のことを、私は下記の対談で初めて知ったのですが、すごくいいセンスをしています。

 

中川一政 ✕ 野口晴哉 : 勘を育てる――教育における「機」「度」「間」

 

整体師の野口晴哉との対談で、「気」とか「勘」といったワードが飛びかっており、科学的な観点からすると万人にお勧めできる内容ではないのですが、全編にわたって2人のセンスがほとばしっており、カウンセリングの参考になる箇所がいくつもあります。

 

主だったところを抜き出すと…

中川: 先生っていうのはね、僕は岡倉天心なんかのやり方がいいんじゃないかと思うんです。あのう、美術院のね、研究所っていうのは広いんですよ。そこへ来て、横山大観だとか、下村観山だとか、偉い人たちがみんな並んで、出品制作を描くんです。毎朝、岡倉天心が廻ってくるんです。岡倉天心は、絵描きじゃないですからね、絵描きの細かいことが判らない訳です。ただ廻って来て、一言なんか言う。それで、平安朝のお姫さまを描いていた人がいたんです。そこへ来て毎日、「まだ、鈴虫の音がきこえませんね」って言うんだって。絵描きのほうがいい加減考えちゃうんです。そのやり方が僕はいいんじゃないかと思うんです。

野口:そうですね。それは一番いいです。

中川:普通、自発心を妨げるような教え方をするでしょう。それを自発心を出すような教え方をしているというのはいいんじゃないか。結局、教えないのが一番いいんですよ。教えるってことはただ目に見えるだけのことで、本当のことは教えられないですからね。こういうふうに描いたとしても、これは先生の描き方なんですよ。その人の描き方というのはないんです。

中川:初めにちゃんとした純粋な勘を持っている人が、勘を鈍らせられるということはあるんでしょうか。

野口:こうしなければならない、こうしてはならない、こうしては笑われる、こうしたら褒められるというのは、みんな勘を鈍くします。

野口:春夏秋冬の駒ヶ岳……春夏秋冬を離れた駒ヶ岳が欲しいですね。ずっと通して同じもの、変わらない駒ヶ岳。

中川:ああいうふうな山を描いていても、山と自分とがこう一緒になっちゃう……普通の絵描きが描くと、山は山、自分は自分と分かれちゃっている。僕なんかのやり方だと、山と一緒になっちゃうんですよね。

カウンセリングには、ここで書かれている「勘」が必要です。感性といってもいいでしょう、どんなに知識があっても、勘(感性)がなければどうにもならない。

 

勘が働いていると、今この瞬間にこれを言えば相手に通じる(相手が変わる)というのが咄嗟に分かることがあります。私にもそういう瞬間がめったに無いですが、ごくまれにあります。そういう時は劇的なことが起こることが多いですね。

 

以前に、教室が終わった後に、えぬさんが言友会の会場使用料をまとめて封筒に入れる作業をしていたことがありました。お金を入れて、いざ封をするとなった瞬間に、私がおもむろにセロハンテープを差し出したところ、「さすがですね」と褒めていただきました。

 

「テープを取ってください」と言われてから取るとか、テープを探している姿を見て自分も探すとか、そういうのではダメなんです。

 

相手をよく見ていれば、いまそこで何を欲しているのかが、聞かなくても、直観的に分かるはずなんです。これがすごく高いレベルでできるのが、優れたカウンセラーです。

 

また廣瀬先生を持ち上げて終わってしまうのですが、廣瀬先生はそれが極めて高いレベルで自然にできた人でした。一種の芸術、傑物の域に達していました。廣瀬先生が教室に来られていたときは、その身動き、話しぶりに、「たいしたものだな」と感嘆しながら見ていたものです。

 

観察していると、自然な感じで雑談をしつつ、教室に来ている人に満遍なく声をかけていくんです。私としばらく話して、「今月こいつは大丈夫だ」と分かると、自然な感じで次の人にいきます。そうやって、全員のケアをしているわけです。しかもそれは、病院の診察のようなそれと分かるものではなく、あくまでも雑談とか自然な声掛けとして進んでいきます。悩んでいる人や落ち込んでいる人がいると、じっくり聞くモードに入ります。それはもうカウセリングになっているんです。

 

私もそれに少しは近づいて終わりたいものですが、果たしてできるかどうか。。