200勝の意味 堀内 恒夫 | ほぼ日刊ベースボール

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堀内 恒夫





記録の多寡に価値をつけるとなると、たいがいの場合、私情が挟まる。古くはロジャー・マリスの61本塁打記録に対するメディア、ファンの対応。もちろんベーブ・ルースの60本は古き良きアメリカの誇りであり、誇りを失う怖さがマリスを認めない風潮へと傾いたのかもしれない。

このように記録への思いは時として歪んだ理解を生み出す。しかし同じ名球会会員すら、正味のところでその203勝の価値の高さを大いに認められた投手がいる。堀内恒夫である。



堀内の全盛期はそのまま巨人のV9と重なる。

甲府市立甲府商業高等学校から1965年ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。1年目から一軍に定着し、新人記録である開幕13連勝を含む16勝をあげ、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞、新人王のタイトルを獲得。以後1978年まで13年連続2桁勝利を挙げ、V9時代のエースとして活躍した。1年目は背番号21であったが、2年目よりエースナンバー18を背負う。



つまり1年目から巨人のエースとなったということは、どのカードでも常に相手の最高の投手がぶつけられる。常時エース対決。その戦いを勝ち抜いて重ねた203勝。数字こそ200勝をギリギリ超えたものではあるが、その価値は計り知れないものがあるというのが名球会会員の同じような見解である。



守備・打撃にも定評があり、守備ではダイヤモンドグラブ賞を創設年の1972年から7年連続で獲得。「世界の盗塁王」福本豊をして「全く癖が見抜けなかった」と言わしめた数少ない投手である。



打撃では1試合3本塁打を1度(ちなみに3打席連続。投手で唯一)、通算21本塁打を記録している。V9時代を含め、12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。1980年6月2日の対ヤクルト戦で200勝を達成。しかし、1981年藤田元司が監督に就任すると、江川卓、西本聖、定岡正二の台頭により登板が急激に減り、1982年に投手コーチ兼任となる。1983年限りで引退。引退試合で最終回の話は有名である。ベンチで堀内のために「最後の打席を回そう」という声が上がった。まず駒田が本塁打。その後、吉村禎章らがヒットでつなぎ、本当に堀内に打席を回してしまう。そして続く堀内は意気に感じたのだろう、なんとその現役最終打席、本塁打を放っている。



入団してからしばらくの間、門限破りの常習犯として知られていて、「鬼軍曹」と恐れられていた武宮敏明寮長(当時)の目を逃れるため風呂場の窓から入ったとか、待ち構えていた王貞治に涙を流しながら殴られた。これにより、堀内は改心したとも言われている。ちなみに「悪太郎」とあだ名されていた。



解説者・コーチ時代は明晰な解説で定評があったが、監督としては不遇であった。



体は小さいながらもまさに野球選手の塊。打撃のいい投手の系譜は西本、桑田、斎藤雅樹と引き継がれたが、現在その系譜を継ぐ投手がなく、寂しいところである。次代のエースの登場が待望される。