はじめての人にこそわかりやすく②「礼の哲学」 | 自然派茶道教室「星窓」

自然派茶道教室「星窓」

自然派茶道教室「星窓」主宰。
西麻布茶室


今回は5回にわたり、少しだけ「礼」を感じてみたい。
礼儀正しい人の姿を見ると、見たこちらまでが気持ちのいい気分になる。

されど、「礼の文化」は近代の軍服の負の側面を増長させたことで、あまり口うるさく奨励されなくなったのではないだろうか。

実は、礼と規律(軍の)は隣近所にあれど、その根本においては全く違う。何が違うかというと、形式的であるか、心情的であるかが大きく異なる!!

立派な形であっても、中身がスカスカとはよくあることだ。

日本の文化を考える上で、よく言われるのが「礼にはじまり、礼に終わる」

この言葉は1907年7月『武徳誌』に内藤高治が発表した論文「剣道初歩」にあるというが、そもそも、こうした考え方のはじまりは、「武」の方で生まれた。

長きに渡る戦場での無数の屍の中から、「礼の哲学」は萌芽した。

その「礼」が、いまは「軍」の側面や国家の影で抵抗感を余儀なくされているのは皮肉だけれど。

愛国主義のための、礼ではない。礼は真心から出て、真心へと伝わるもので、強制されるべきことではない。


ちなみに
最初に礼を説いたのは、儒家の者たちで理論的にまとめたのは荀子だったという。

礼は、国の拡大と共に、やがて儀礼になっていった。

以下は、四礼という。

婚姻之礼- その由来は人に「男女の情、妬忌の別」があるため。
郷飲之礼 - その由来は人に「交接長幼の序」があるため。
喪祭之礼 - その由来は人に「哀死思遠の情」があるため。
朝觀之礼 - その由来は人に「尊尊敬上の心」があるため。


上記を見てもわかる通り、「礼」には何よりもが大きく関わっていて、不可分だと古来の人々は捉えていた。

これを、簡単な流れでまとめれば
大陸での儒教の礼は、仏教と結びつき、日本へと流れ、日本の神々や日本人の世界観と結びつき、先祖供養や盆暮れ、日々の作法やしきたりの側面を強めていった、ひとつの要素に過ぎなかった。

これらの流れが、茶道の世界にも「武」と共に、及んでいく。

センスを前に置き合いて、「礼」をする。
剣の稽古の前に、互いに礼をする。礼の心を持っていることを確かめる作業だ。

こうした弓馬における礼儀作法を、
小笠原家が伝え続けてきた。

それが、江戸の戦乱なき安定期になると、家族や隣人とどう付き合うべきかに、人々の意識は向かう。

狭い国土の肩寄せ合の生活において
「礼」を含めた古の儒教は、将軍家の奨励を受けることになる。

ここで、少し茶道史について触れておかないといけない。

茶道は、室町時代に芽生えをみせ、安土桃山で大成していった。人物だと、村田珠光を祖とし、千利休を大成者とする考え方がある。

ここには、もっぱら「仏教」のちからが大いに働いた。とりわけ、茶道は「禅」の隆盛と不可分だった。
もちろん、当時、キリシタン大名もいたために、禅だけではない。踏み込んで示唆しておけば、商人の皮算用も国の単位と共に大きくなっていた。
こちらは、「堺を取り上げる時に」と思う。


つまり、茶道史において「礼の哲学」は、武道のなかにこそあれ、茶道では強調されてこなかった。まして、江戸の安定期に「禅」の小難しい話しに耳を傾けるより、日々の暮らしの些細な問題を解決する方が大事で、もっと気楽に楽しみたい人々が、江戸中には溢れていた。

不易流行とは言うが、この時代の要請を受けて、ちまたではサロンが流行り、茶道ではなく新しいスタイルの、煎茶が急速に広まっていった。

日本で初の「IPPUKUプロジェクトの祖」であり、煎茶スタイルの祖。


そんな中で
茶道は、細々と続けられていく。

ここで、茶道の世界は、大きなターニングポイントを迎えることになる。
そして、このあたりの「方法論」が、時を越えて明治の近代革命の方便として、うまく機能していくことになる。

そこで、相当な危機感を抱いた人々は多かった。立場も考え方も違うけれど、押さえておきたいのは5人。

大老井伊直弼、高橋箒庵、裏千家11代玄々斎、田中仙樵、岡倉天心

この5人については、今後取り上げていくことになる。


礼は、明治の「武」の崩壊と共に、うまく「形式化」され、軍服と国家忠誠へと礼は利用されていく。

受け皿である「武」のなくなった茶道は、この「礼」だけを取りだしうまく、婦女教育に舵を切ることと、道具趣味という商人的皮算用の範疇の中で、生き残っていく道を見つけ、今日に至っていると筆者はみている。

そして、そのあたり「形式と心」というバランスを上手く取り上げたのが、最後の流派とも言われる
大日本茶道学会を創始した

田中仙樵(たなかせんしょう)である。

流派の形式にこだわるのではなく、各宗匠の求めた精神性への探求こそが、道だと説いた。



この明治以降の流れにおいて、現在の茶道は、かろうじて形式の中に

礼という哲学を残したのである。

「武」の無数の屍の声が生み落とした、「礼」を、
「武」の終わりと共に、

茶道は、「形式」のなかに
この「武と礼」が託した大事な人間文化遺産を残しているのだと筆者は考えている。


[はじめての人にこそわかりやすくシリーズ]
星窓稽古案内版
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