はじめての人にこそわかりやすく③「際の美」 | 自然派茶道教室「星窓」

自然派茶道教室「星窓」

自然派茶道教室「星窓」主宰。
西麻布茶室


子どもの頃から、水に入るのは好きじゃなかったけれど、波の寄せては返す、独特のリズムに全身を委ねているのは好きだった。

今にして考えてみると、それは波打ち際に惹かれ、何かと何かの境界線のようなものに心を奪われやすい少年だったのかもしれない

明確な夜とか、朝ではなく、夕闇朝靄が好きだった。太陽の光が、夜の闇へと吸い込まれていくか、いかないかの境目、逆も同じで、溶け合っていく「間」に、今よりは少なくとも、ずっとちゃんと神秘を感じていた。

土俵際で踏ん張る力士に、声を枯らした。
車窓から、ただひたすらに飽きもせず、線路際を眺めていた。
地球儀を回しながら、大陸の海岸線の際を指でなぞっては、何かと似ていると例えてばかりいた。
パパイヤの実と皮のギリギリを、最後までかじりつこうと必死だった。

そんな子どもだったからか、いつからか
人生は、この如くにつきまとう「際」を、どう扱うか、どう捉えるかに深く左右されている気がして生きてきた。

際は、何かと何かが、ぶつかりあったり、せめぎあったり、溶け合おうとしたりしようとしているという、実はものすごい壮絶なエネルギーの発火地点なんじゃないか。

際は、本当に面白いし、凄みがあって、同時にとてもとても、美しい!!

つい先日も、一日集中稽古の休憩時間に、ふとこんな会話になった。
「先生、人間の細胞も日々生まれ変わっていますからね」
「そうだよね、そうすると、きっと細胞は日々生きようか、もうやめちゃおうかって、でも生きよう!!っていう方を選んでくれているんじゃないかね」
「それって、私たちは日々、瀬戸際を生きてるんですね」

そう、たぶん、日々の一瞬、一瞬はこの「際」の連続なんだ。

際は、生と死のエネルギーがぶつかりあったり、生と生がせめぎあったりして、とてつもない時間の長さのなかで、生きることを選んできた証みたいものかもしれない。。

茶道のお稽古でも、風炉の灰形というのがあって、かなり回数をお稽古しなければ、自由自在には作れないと言われるものがある。これなんかも、まさに「際」がとても大事で、ここを疎かにしないかで、出来上がりの印象が全然違ってきてしまう。

際どいところこそ、大事に、丁寧に、動かす身体や想いに集中できるか、それの繰り返しが、お稽古の最大の目的と言ってもいいほど、灰と五徳の際、灰と瓦の際、灰と風炉の内側の際、、、

ここを綺麗に保てるか、、

汚れてしまったとしても、ティッシュペーパーは使えない。繊細な動きで処理するには、茶道の世界では鳥などの小羽根を使うようにしている。

とても、繊細な動きだけれど、とても「際」が美しい状態で仕上げることができる。

このあたりのことは、という道具にお茶を入れていく方法でも、同じことが求められる。

疎かにしたか、どうか。
如実に、見る人が見たら、一発でバレてしまうところなのだ(笑)

茶道の世界でも、やはり「際」は、極めて重要な要素だと思う。

それは、人間関係でも人生でも同じなんだろう。
別れ際、死に際が、ちゃんとしていれば、後悔や変な凝りは生まれない。

「際」を疎かにしてはいけない。

心の内側にある際が、切り立ち、際立っていればいるほど、潔く、保たれているほど
風光明媚で、豊かな自然界の姿と同じように

その人自身も、また同じように美しい佇まいになっていくのではないだろうか。