見せない極意 | 自然派茶道教室「星窓」

自然派茶道教室「星窓」

自然派茶道教室「星窓」主宰。
西麻布茶室

見せない極意

茶道所作稽古の中で、時たま手捌きのことで「手の内を見せない」と教わる。たとえば、柄杓を取る右手の内側は、お客さんに見せないように扱う。どうして、手の内を見せないのかというと、陰陽でいうところの、内側は「陰」で、外側は「陽」となる考えがあるように思う。

極力、この「陰」をお客さんには見せずに手捌きは進行させたいのだ。このベースには茶室の設計構造が密接に関係している。
陰陽五行論に基づいて作られた茶室においては、正客は、真西を向いて東に座る。

西を向くのは、極楽浄土があるからだと思われる。亭主が真北を向くのは、そこに見えざる力が働くと考えたからに、違いない。

せっかく極楽浄土に向かって座った正客に対して、手の内側を見せるということは、「陰」を見せることになる。西は秋で、少陰のために、陰が重ならない方がいいというバランスではないだろうか。

こういう辺りのことを、よく考えるのだが、千利休という人に至っては、遥かに深淵な世界を見ていたのだろうと痛感することがある。

それは利休が作った茶室の中でも〈幻の茶室〉と言われ、利休自身がもっとも愛したと伝えられる大坂屋敷の茶室「深三畳台目」は、なんと“点前座自体を隠す”という大胆な意匠が取り入れられているのだ。

点前をする亭主の向かって右側は袖壁と柱によって覆われ、亭主の所作はもちろん水指など置き合わせの道具も、お客様から一切見えない!!

徹底して見せないのだ。

これこそ、利休が求めた侘び茶の極致とも言えるようなもの。還暦を迎えて、さらなる高みを目指した時、もはや「見られることも」「見せることも」拒み、気配さえも消そうとしたのだ。

茶の席においてお客様が中心であることをより際立たせるため、点前や道具さえ目立たないよう配慮したのだろう。

確実に、この茶室は天下人の秀吉を招く事を前提としてつくられたといわれている。
どこまでもお客さまを尊重する工夫として考えられた「見せない」演出には、考えさせられることが多いように思うのは、僕だけだろうか。

豊洲の問題や、憲法改正草案、TPPという国民に「見せない」ように隠蔽し、密室で決定していく政治の手法とは違い、あるけれども、感じるけれども、見えないという、お客さまの立場に立った究極のおもてなしなのだ。

それを円熟の千利休が、すでにやっていることが恐ろしい人物だと心底、思う。

以前、萩本欽一さんが愛弟子の関根勤さんに言った言葉も少なからず近いものがあった。
「君は、100万円持っていたら、全部見せようとする。それは、おもてなしじゃない。100万円あったら、見せるのは5万円でいい」と。

実に心理的な効果を知り尽くした、萩本欽一さんの言霊だろうと思う。全力でやる、全身全霊で事に当たるけれども、「見せるのは5%で充分」という感覚は、そのまま、茶の湯の世界に脈々と流れてきた侘びの美意識に生きている。

小豆のなかのわずかな塩分、着物の内側の見せない意匠、無言のなかの仕草、、

立派になれば成る程、むやみやたらに発するものではないのだろうと思う。淡々と、粛々と、丁寧にいまと向き合い、最善を尽くす。

それは、なぜか。発することも大事だけれど、手の内で今は見せずに、ただただ「時」を待つことも大事なのだと思う。その待つ時は、内側の「発酵」を静かに促し、やがて究極の一滴を滴らせる。

千利休には、謎の30年が存在する。事を発さずに静かに発酵を促し続けただろう、時がある。

見せない極意、、

とりとめもない話しだが、この現代社会の片隅で、そっと静かに頷く自分がいる。