歪 | 坂本龍~今夜は泡風呂ぐ~

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作品を作ると言うのは、
何かを表現すると言うのは、
アートと言うのは、
極端な話、誰かを傷付ける事だと思う。


逆説的に言えば、
誰かを傷つける作品でないと
その作品は何も意味をなし得ない
とまで言える。


傷つく、と言うのは言葉だけ掬うと
ネガティブな要素がとても多い。
生きていく上で出来る限り、
傷つきたくはない。



けれど、上記に書いたような、
作品及び『表現』となるとどうだろう。



物心のついた頃から今の今まで、
沢山の作品に触れてきた。
そして、鮮明に残っている
音楽、映画、絵画、漫画や映画、
それらは全て『素晴らしい』と言った
ポジティブな理由だけではなく
『心に傷がついた』という側面も持っている。


僕が愛してやまない、
アジアンカンフージェネレーションを初めて
聴いた時、銀杏BOYZを初めて聴いた時、
なにかこう、えもいわれぬ衝動が走った。

鮮明に残っている漫画や映画は、どこか
グロテスクだったり、
救いのないものだったりする。



ではそれは何故か、というと
それらの作品はとても歪だったからだ。


歪なものは、傷がつく。
物理的にそうであるように、
精神的なものでも漏れなくそうだ。


そういう風に出来ている。


例えば、誰もが不快感を覚えない作品を
作ろう!という回路で
物事を表現しようとすると、
まず角を取る作業から始まる。
そして、歪とは真反対の、
丸いものが出来上がる。

確かにそれは、誰も不快感を覚えないし、
傷も付かない。けれど、その一方で
誰の記憶にも残らない。


表現におけるジレンマだ。


かと言って、その逆を狙って
歪すぎるものを作れば、
それは人々に傷をつけ過ぎてしまう。

それが今で言う炎上というやつだ。


丸い表現は傷つける事はない。
けれどそれはつまらないし、
誰にも刺さらない。

けれど歪過ぎるものは
ひとたび格好の餌食だ。


このブログにしてもそうだ。


日常の出来事をつらつらと書いたとて、
誰の琴線にも触れないし
傷も付かない。まぁブログごときで
傷をつける必要性は無いのだが。


じゃあ、少しでも皆を笑わせたい!
興味を持って欲しい!と息巻いて、
スパイスとして語気を強めたりすると、
それはそれでリスクがある。


そしてここからが本題。



僕はアーティストとして、
経験則として気付いたことがある。


2、3年前は明らかにスランプだった。
自分の曲が誰からも評価されなかったのは
丸いものを作っていたのだ。

もちろん例外はあれど、
アーティストは初期の作品の方が
評価されている場合が多い。

それは何故かと言うと、
技術面や知識面に置いてもまだ未熟で
能動的な要素が多く、歪だからだ。


そして、段々とそれをリカバーする
技術や知識が増えて
表現を丸くする事が出来る。

厄介な事に
表現を丸く出来るという事は、
上達した証でもあるので
これが1番のジレンマなのだ。


そして僕自身、過去の作品を振り返ると
曲を作り始めた頃は
右も左も分からず、ただ衝動を歌にした。
それはそれは歪なものだ。


2、3年前に作った曲はどうだろうか。
何かこう、作る事や表現する事に
小慣れてしまって、それに甘えてしまって、
誰かを傷つける覚悟が足りていないのだ。




誰かを傷つけてしまう事を
恐れずにいたい。




そして、
その恐れは今年になってから捨てた。



歪なものをもう一度作ろうと、
音楽理論を学び、勉強した。


それで今の自分がいる。


今年に入ってから作った自分の曲は、
俯瞰的に見て歪だな、と思う。


ヒモ男の歌や
身体目当ての歌、
そう言った歌で
傷ついてしまった人もいるかもれない。
いや、きっといるはずだ。


けれど、この世界に作品を
残すというのは、そう言う事なんだよな。


覚悟を決めて、頑張ろう。



そして皆も、果敢に
歪なものに触れていって欲しい。


その傷は生涯、自分にとって
財産になると思う。




歪過ぎるものはダメだけどね。