【追悼】沖本八重美さん「強く、やさしく、美しく、されども弱く」 | 福島原発事故★自主避難者として生きる

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福島原発事故の原因や汚染の現状、放射能や放射線の健康被害や影響。避難は必要か?など福島原発事故を判断する材料になる資料を集めました。

「つなごう命の会ー沖縄と被災地をむすぶ会」の代表、沖本八重美さんと電話で最後にお話ししたのはお亡くなりになる1週間ほど前でした。


自宅の自室でぼーっとしていたところ携帯電話のベルが鳴りました。


「パズー君、今電話大丈夫?」


「あっ、お久しぶりです。全然大丈夫ですよ」


「そういえば悪かったね、沖縄で流通する食品の件で話したときは…」


私は思わず吹き出して笑ってしまいました。と、いうのは1年以上前、初めて沖本八重美さんとお会いした際に、沖縄で今、流通している食品は放射能汚染があるのか?ないのか?で二人の間で議論になったことがありました、でも、その件はもうとっくにカタがついており、その後何度もお会いしていますが、二人の間にその話題が出ることはなかったんです。というか、沖本八重美さんも私も、さっぱりした性格でその場では言いたいことをお互いに言うのですが、それ故に感情的なわだかまりなどさっぱり残らないのです。


なので1年以上前の私はすっかり忘れていたことが、ひょいと話題に出て笑ってしまったのです。


私は笑いながら言いました。


「そんなの、全然気にしてないですよ。沖本さんも私も、引きずるほうじゃ、ないじゃないですか」


それから避難者の集会が週末にあるとの内容の話が沖本さんからあり、私は今回の参加は厳しいという旨を伝えました。


その後、沖縄県の避難者の間で甲状腺から嚢胞が見つかる人達が異常に多い件について私が「統計的あるいは疫学的資料って現段階で把握している所ってないですかね?」と質問し、沖本さんから「私もわからない」旨の回答がありました。


最後に私は「今回の参加は厳しいですが、別件で何かあればおっしゃっていただければいつでも馳せ参じますので」と伝え、電話を切りました。


電話の向こうにいたのはいつもの沖本さんでした。



その電話から約1週間後の2013年1月27日の日曜日、私は疲れていて午後まで寝ていました。


午後2~3時頃起きたところ、携帯に何人かの沖縄の避難者からの着信が午前中にあった履歴が残っていました。寝起きで電話すると頭が働かないので1時間ほど水を飲んだりぼーっとしてから電話しました。


そして沖本さんが夫である矢ヶ崎克馬教授と二人で、友人の祝会に出席する為熊本に行き、沖本さんはスピーチをされた数分後に心不全で倒れられ、そして帰らぬ人になったという旨話しを聞きました。


避難者はみな私も含めて混乱していました、そして信じれませんでした。沖本八重美さんは、活動的で強い人というイメージがすべての避難者にはあって、沖本八重美さんが召されるなど誰もまったく考えていなかったからです。


沖本さんの遺体が今日、飛行機で那覇空港に到着すると聞き、私は車に飛び乗り、沖本さんのご自宅へ向かいました。


運転をしながら窓の外をふと見ると、いつもは波立っている東シナ海がやけに静かで、平らで、遠くまで見渡せました、沖縄にとって欠かさべからざる存在の沖本八重美さんがなくなったことを海まで悲しんでいるように思えました。


辺りがすっかり暗くなった午後8時過ぎ、ご自宅にご遺体が到着し、その場に集まった男性たちで棺を部屋に運びました。


沖本さんの収められた棺は、重く、まだ、やっぱり沖本さんは、これからも活動すべき人で、なくなるべきじゃないと改めて感じました。


棺の一部が開けられて、沖本さんのお顔を拝見できました。生前と全く同じで、美しいままの沖本八重美さんがそこにはおられました。


半年くらい前でしょうか、沖本さんと年齢の話になり沖本さんから私はいくつだと思う?と聞かれ「えっ、50代前半でしょう?」と答える私に「65だよ」さらりと答え、私は「えーっ、沖本さんいったい何を食べてるんですか?かすみ(仙人の主食)ですか」などと茶化したことを思いだします。


生前と全く同じで、美しいままの沖本八重美さん、だから、沖本さんが亡くなったという現実を、お顔を拝見しても避難者は誰も受け入れることができませんでした。



那覇空港に沖本さんの車が置いたままだという話になり、他の避難者の方と一緒にとりに行きました。ひとけのない広い駐車場でナンバープレートを頼りに車を探しました。沖縄でも1月ですから夜は冷え込んでつま先がだんだん寒くなります。


10分くらい探して、車が見つかり、エンジンをかけました。サイドブレーキの位置がわからず5分くらい室内灯の切れた車内で、携帯電話の明かりを頼りにサイドブレーキを探しました。


その間、沖本さんがつけていったラジオは鳴り続けました。


駐車場を出て車を走らせてしばらくすると給油が必要なことを知らせるランプがつき始めました。もう夜遅い為、やっているスタンドも少なく、那覇空港周辺の土地勘もあまりない私は、あせりました。


あせりつつ、きっと沖本八重美さんの頭のなかには、熊本から那覇に帰ったらどこのガソリンスタンドで給油して…と計画があったんだろうな。給油だけじゃない、他にも避難者のことからその他、関わっていたたくさんの計画が沖本さんの頭のなかにはあったんだろうな、と思うとすごく淋しくなってきました。


当然ですが、沖本八重美さんという存在はこの世界に唯一無二であり、沖本八重美さんの計画は、沖本さんにしか実行できない。


沖本八重美さんという壮大な交響曲が途中で不意に演奏がパッタリ止まってしまったのですから、この喪失感があるのが当然なんだろう。


ガソリンは何とか持ち、無事に車をご自宅まで届けることができました。



沖本八重美さんとの思い出を振り返ると申し訳なかったとの思いでいっぱいになります。お電話いただくとついでによく私は「避難者の○×さんが先週風邪をひきました」や「○△さんは今週学校行事で忙しいそうですよ」などと遠回しに、オーバーワークになっている人の名前をあげ無理させないでねということをお伝えしてきました。


沖本八重美さんは、いつも全力投球で、元気で、強くて、パワフルでしたから、気付けませんでした。本当は一番無理をしてオーバーワークになっていたのは沖本さんだったんだね、きっと。


気付けなかった。



告別式の日、会場に入りきれない人々が式場の外にまであふれました。夫である琉球大学の矢ヶ崎克馬教授が、沖本さんの最期のスピーチの結びの言葉が「がんばろう!」だったとお話しされていました。その言葉通り、参列者はみな、悲しみ、そしてこれからがんばる!という決意を表明していて、ああ、沖本さんらしいなと思いました。がんばろう!ってすごく沖本さんらしい言葉。二点間の最短距離は、直線である。猪突猛進。いつも強く堂々としていて。正義のためなら、誰が相手でも決してひるまない。


強く堂々と、でも実はすごくやさしいんだよね。常に弱い人の味方でしたね。苦しんでいる人や悲しんでいる人をほっておけないタチで、言葉だけの気休めじゃなく、実際に行動して避難者を助けて下さっていましたね。泣いている避難者と共に涙を流して下さったこともありましたよね。


沖本八重美さんは、強く、やさしく、美しく、されど自らの意志で弱い人の味方でした。