今年に入って、幾つものブログと出会いました。
マリア様と縁のある人のブログを読んでいて、教会のメダイという物を知りました。
そのうち、私もメダイがほしくなって、ネットで検索して買いました。
2つも買ってちゃいました。
今もお気に入りです
しばらくの間、マリア様のグッズを検索しまくっている中、ふとサイババのことを思いだしました。
サイババグッズを検索してみたら、キーホルダーやステッカーなどがありました。
ビブーティ(聖灰)は見つかりませんでしたが、サイババの写真が印刷された丸い缶か何かに入ったものが、品切れとなっていました。
ビブーティといえば昔、社員旅行で行った先にあったアジアン雑貨店で、ステッカーと一緒に買った覚えがあります。
引っ越しを何度か繰り返していて、どこにあるか不明。
と思ったら、すぐに見つかりました。
でもこれ、サイババが物質化したものか真偽のほどは定かじゃありません。
ってか、疑わしいですね(-_-;
私が最初にサイババを知ったのは、90年代にテレビ番組の最後のほうで、少しだけ紹介されていたのを見た時のことでした。
アシュラムで大勢の人たちの前でペンダントか何かを物質化していました。
この時はさすがに信じてはいませんでした。
後日見た番組で、インドのビブーティハウスと呼ばれている孤児院が出てきました。
飾ってあるサイババの写真に、いつもビブーティが出ていて、ペンダントヘッドからはアムリタが出続けていました。
それと、日本の小学校低学年くらいの女の子の話が紹介されていました。
女の子はある日、サイババが夢に出てきたのをきっかけに、家族でインドのサイババのアシュラムを訪ねます。
そして日本に帰ってから、瞑想中に手にビブーティが出ていたそうで、そのときのビブーティも紙に包んだものを出して見せていました。
インドで買った写真からも、ビブーティやアムリタが出ていました。
子どもが実際に取材を受けて話しているのを見て、私はこの話に興味を持ちました。
私はその当時、書店に平積みされていた青山圭秀さんの「真実のサイババ」を買って読み、それ以前に出ていた「理性のゆらぎ」「アガスティアの葉」なども読みました。
そして、インドに行ってみたいと思っていましたが、一緒に行ってくれる人はいないし、その当時、サイババツアーというものがあったなんて知りませんでした。
国内なら一人でどこにでもいきますが、英語も話せず、日本と大きく事情の違う国に、一人で行く勇気はありませんでした。
そもそも、サイババのアシュラムには、「私が呼ばなければ、誰ひとり私の元に来ることはできない」と、サイババが言ったそうなので、呼ばれてなかったということですね
サイババブームが続く中、ビブーティやペンダントなどを手から出すトリックを見破るというか、インチキであるという証拠写真の載った本が出版されたことがありました。
書店で見たことがあるのですが、どこが決定的な写真なのかよくわからず。
最近もサイババの画像をネットで検索していたら、手からビブーティがはみ出している写真などを見ました。
でも、あまりにもあからさまなんです。
ビブーティって、キメの細かい粉状なんで、手からはみ出るほど持ってこぼさないもんでしょうか。
塊状で持っていて、手を回した後、砕いて少しずつ人の手に渡すにしても、そんな一瞬でサラサラな状態にして人に渡せるものなんでしょうか
手からはみ出るほど隠し持っているのが、写真でわかるくらいなのに、帰依者には何十年もばれずにすみますかね?
アシュラムにはそれこそサイババのところに集まった帰依者があらゆる角度から片時も目を離さずに見守っているのです。
特に、目の前で物質化を見ている人などは、下に座っている状態なので、下の角度からよく見えると思います。
そんなわけでトリック説は信じませんでした。
ところが、その後性的わいせつ行為を働いていたなどという話が出てきました。
このとき、当時の私は本気でそれを信じたわけではないと思うのですが、なぜかなんとなくもういいか、などという気になったようです。
そして、それからずいぶん経った今年、サイババを思い出した私。
なんで亡くなって3年も経ってまたハマりなおしたんでしょうね。
ネットでインドのサイババのアシュラムを訪ねた人のブログをたくさん読みました。
インド国内で、また帰ってから金粉が手や顔に現れたという話、インドで買ったサイババの写真からビブーティやアムリタが出てきたという話がたくさんありました。
現地でのサイババと接してきた人々の、たくさんの体験談からしても、サイババがそんな薄っぺらいインチキ聖物などであるとはとても思えませんでした。
インドに行った人たちは、サイババがわいせつ行為を働くなど考えられないと口々に言っていました。
何であれ、サイババの施してきた慈善事業で、多くの人が救われているという事実は大きいと思います。
いずれも私自身の体験ではありませんし、この記事は信じてない人に信じてもらうために書いているわけでもありません。
信じるも信じないも人それぞれでいいと思います。