呪詛は祈りに変えられる | 【うずめカフェ】ikukoのブログ。身口意そろえて味わう人生を。

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11月は巡禮記で希望者さんだけの
 「岡山・呪詛をしばきに行くツアーがあります。

たった2日間のあいだに 
がっつり呪詛ほどきに必要な場を巡禮する
なかなか濃いツアーなのですが 

自分には変えられないと思って諦めている
 「呪詛」をしばいて、神仏の力を借りながら
祈りに変えることの視点
お伝えできたらと思っています。



それは可能だし、
 実は祈りと呪詛は同じエネルギーなので 
かけられている、かけてしまっている呪詛が
 多いと感じている人は 

とても大きな祈りに変えて育てられる
チャンスが自分にあることに、 
気がついてもらうお参りツアーです。
 (※11/10.11デス。行きたい人はメッセくださいね。)




 懸命に今、生きている
あなたの人生を眺めてみて、
思い通りにいくこともいかないこともあるけど
【なかなか愛おしい人生だな】と思えますか。


あなたは、どんなときも
あなたの1番の理解者でいますか。

何を成しても成さなくても、
自慢なんて一つもできなくても、

今日まで、生きてることに
【なかなか、すごいじゃないか】と思えますか。
 




祈りは暮らしの集大成。
また逆に暮らしの集大成が祈りです。

毎日が自分への応援と共感と理解と労いに溢れ、
【この自分を生きていることが素晴らしいな】
という祈りに満ちていくと、

もう暮らしの中でそれが当たり前になったころ

それは自然と周りの人たちを
必ず幸せにしてゆきます。
周りの人たちを必ず豊かにしてゆきます。

ご先祖さまからも未来の自分からも
応援が入りやすくなります。


魂同士、今世を共に活きようと
そばにいる人たちは、

少なくとも、あなたが生きるそばで応援しよう、理解しよう、共に育とう、共に楽しもう
と寄り添ってくれる人たち。


人は魂レベルでそう思える人とは
簡単には離れずに、
えぐいところも見せ合いながらでも
一緒にいられるようになっています。


逆にどんなにいいところで付き合っても
縁遠く薄くなってしまうこともあるよね。


今そんな人たちが周りにいなくて孤独で苦しい!
という人も

自分への応援と共感と理解と労いの形で、それを動きの祈りにしていくと、ちゃんとつながっていくことができます。
つながっていたものを感じて観ることができるようになります。





一方、暮らしが祈りではなく、
無意識に呪詛で満ちていると、

【誰か】のパターンをなぞって生き続けていなければならなくなる。 

【誰か】の教えを、言葉を、常に次々と探していないと不安になる。

【誰か】ありき、の人生を生き続けることを自分に強いてしまう。


または、逆に出ると、

【誰か】の人生に反発して生き続けることで自分のアイデンティティを保ってしまう。

【誰か】の教えや言葉を攻撃し続けることで、リベンジに生き続けてしまう。

【誰か】に傾倒する人たちを馬鹿にすることでプライドを保ってしまう。


もちろんこれは一例です。
いい悪いを決めつけるものでもありません。
いろんな形で出てきますが
どれも本人がしんどいのが共通項です。


そして、
みんな多かれ少なかれ呪詛と祈りを織り交ぜて
チャレンジを生み出しながら生きてたりします。 




人生の、基準と理解と夢を
明け渡してしまう【誰か】とは、何でしょうか。


幼い頃に刷り込んでしまった
もはや実態の無いわからないものだったり、

父母への思いが膨れ上がった影像だったり、

「こうだ」と強く教えられたことに
幼い自分が反発できなかったことへの理不尽や
未練や罪悪感だったり、するかもしれません。




そして、多くは、下記のようなたくさんの
自分にかけ続けている【呪詛】と言う名の
思い込み、親からパターン学習した価値判断の基準、刷り込みです。


例えばね。。。

「傷つけ合ってでも感情をぶつけ合うことが愛することだ。ぶつけ合わないのは愛していないからだ」


「何でも与えてもらうことが愛されることだ」

「人に愛されなければ生きている価値がない」

「人はいつか離れていく。自分はいつ裏切られても蔑まれてもおかしくない孤独な罪人だ。周りに人がいるのはどこかにメリットがあるからだ」


「家系の背負ってきたものはとても強固だ」

「私はどうせ幸せになってはいけない。」

「幸せになっていいなんて親は教えてくれなかったのだから、幸せになってやるもんか。きちんと教えなかった親を簡単には許さない。」


「あの親から生まれた私は愛されるはずがない」

「あんな教えを強要されてきたのだから、仕返しにあいつらの嘘を暴いて生きてやる」

「父は強く母は優しくあるはずなのに、うちの家系は違う。父は頼りなく母は傲慢で、私はこの人たちのせいで男を蔑み女としての喜びが何かわからなくなっている。」


「豊かになることで足を洗える。豊かになることは、失われたものを埋めることだ」


こんな感じの思い込み、
自分にかけた呪詛たちです。

他にもたくさんあると思います。

これらの呪詛たちは決して悪いものじゃない、
それしかないと決めつけて動けないことが
苦しいだけです。




これらを、発見できたら
【犯人】いた!と責めるんじゃなくて、
 ただ見つめる。

それを存続させてた自分の創造力、
エネルギーの方に意識を向けてみます。


神仏に祈って呪詛をしばきにいくのは、神様に【変えてもらう】ことではありません。 

呪詛も祈りも同じ創造力でできている。
ストーリーをここらで転換させてみようか、
という意気込みがあれば、誰もができること。

それを祈り成すという行動でやっていくんです。 




呪詛を「なんでやねん!」としばくのは、 

あなたが いい時も悪い時もある 
その自分の人生を何度も愛せるため。 


自分の1番の理解者でい続けるため。

 懸命に生きる自分を「偉いね、すごいね」って
ずっと応援し続けるため。 


そのベース(暮らし)から、
周りにいてくれる人たちと一緒に
人生の感動を分かち合うため。


豊かさを、何かを一方的に埋めるための
有限のものにせずに、
無限にある材料からあなただけの形にして
循環させるため。 

 


大切な誰かと、喧嘩したり喜び合ったりして
尊敬し合い、愛し合い、許し合うなかで
共に活きて 
魂史上初めての幸せの形をやってみるため。


自分が握りしめていた形を明け渡すため。

創造力を使いたい方に使いたいだけ使うため。




 呪詛が反転した祈りは必ずセットで存在するので
呪詛が多いほど、たくさんの祈りが存在し
豊かさも作れるってことです。

どんどん「大丈夫」と「自由」が増える。
と決めて、動いて行きましょう!


巡禮記の先達チームも各お参り遠足・ツアーで
応援に回りながら一緒に祈り成していきます^_^