標高283m・比高200mの水槻中平ヶ谷城(八頭町見槻中)は、城郭大系には、その名は記されていない…
船岡町誌には、詳しい説明は無いものの「見槻中城」という名で記載されている
立地としては、隆平城や福井小袋谷城と同じ山系であり、尾根続き…
恐らくは隆平城の出城の一つであろう
しかし船岡町誌には…
『新編八頭郡誌』には、延元三年(1338)、征夷大将軍足利尊氏より、半柵城主伊田太郎左衛門は、西御門・隼・見槻・西谷の地を安堵された…とあり、伊田氏の出城の可能性も否定出来ない…
そもそも船岡町誌及び、その他の八頭郡の各町誌では、隆平城の波多野氏と、半柵城の伊田氏の関係については記されておらず、友好的だったのか敵対的だったのかも不明だ
南西麓から直登
薮を切り開きつつ、ひたすら登る
縄張図とは違うが、第三郭は帯曲輪状に第二郭及び主郭を囲む…
主郭を囲む帯曲輪状の第二郭
主郭
東に下りると、土橋の架かった堀切
この堀切は明瞭だが、縄張図では堀切が二重のはずが、1ヶ所しか見当たらず
東の曲輪には、やたら広い削平地も…
東端部には物見台でもあったのか、やや高くなっていた
水槻中平ヶ谷城遠望
軌跡ログ
旧八頭郡船岡町の城
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