標高100m・比高90mの蛇山城(鳥取市福部町箭渓)
蛇山城は矢谷村にあり、国侍塩見氏在城せり。塩見源太と称するは当家の主人にて代々塩見谷の領主たり。塩見の奥を左近村というは妙希世塩見左近と言う人の住居地なるを以て名付く。凡そ谷の詰りを迫と言う。当処のサコは其にあらず、左近の字を用うるは其故と言えり。神南合戦は文和年中(北朝年号・1354~55)なれば其以前より領主にて旧き家柄とみえたり。塩見と号するは住古より此谷の惣名なれば其領知せる地名を呼て氏とせしならん。天正の争乱(織田信長・豊臣秀吉の天下統一のころ、いわゆる戦国時代)に当城浮沈の沙汰も無ければ其より以前の落去なるにや、御当家江戸定府の臣、塩見幸左衛門は其後孫なるゆえ、されども其事績明に伝わらず。城は東表にて本丸・二丸・三丸の跡段々二あり、山下も余程の構にて坪の内、家中屋敷なぞと言う田圃あり、長臣の構は西土居にあり、戸ノ倉千軒と言うは昔の名残りと言う。城の後西側の山下に城主の葬処と言う処あり、五輪の碑十一基(大2、小9)安す、又左近村にも数多あれば、数世相続せしものとみえたり。
神南の合戦において山名勢の一勇将として参戦奮闘した蛇山城主塩見源太頼重を始め、その頃の福部の地は二上山城に居城した山名一族に忠勤を励み、その勢力下にあった。
(※福部村誌より)
蛇山城は矢谷村にあり、国侍塩見氏在城せり。塩見源太と称するは当家の主人にて代々塩見谷の領主たり。塩見の奥を左近村というは妙希世塩見左近と言う人の住居地なるを以て名付く。凡そ谷の詰りを迫と言う。当処のサコは其にあらず、左近の字を用うるは其故と言えり。神南合戦は文和年中(北朝年号・1354~55)なれば其以前より領主にて旧き家柄とみえたり。塩見と号するは住古より此谷の惣名なれば其領知せる地名を呼て氏とせしならん。天正の争乱(織田信長・豊臣秀吉の天下統一のころ、いわゆる戦国時代)に当城浮沈の沙汰も無ければ其より以前の落去なるにや、御当家江戸定府の臣、塩見幸左衛門は其後孫なるゆえ、されども其事績明に伝わらず。城は東表にて本丸・二丸・三丸の跡段々二あり、山下も余程の構にて坪の内、家中屋敷なぞと言う田圃あり、長臣の構は西土居にあり、戸ノ倉千軒と言うは昔の名残りと言う。城の後西側の山下に城主の葬処と言う処あり、五輪の碑十一基(大2、小9)安す、又左近村にも数多あれば、数世相続せしものとみえたり。
神南の合戦において山名勢の一勇将として参戦奮闘した蛇山城主塩見源太頼重を始め、その頃の福部の地は二上山城に居城した山名一族に忠勤を励み、その勢力下にあった。
(※福部村誌より)