幻の小土産山城を求めて② 倉吉市 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

以前に幻の小土産山城を求めて①にて発見出来なかった小土産山城を求め、再び倉吉市へ…

北条の郷小田村の山なり。今は略して里山と称す。文字も斯く改めしにや、今に土産山と言えば知る人稀なり。小土産山と称する事如何なる故にや聞かず、此の山の南の畝を木崩れのうねという。当城は天正の頃、尾高の城主杉原播磨守盛重が二男叉次郎景盛悪逆の事ありしによって、吉川元長より、香川兵部大輔、粟屋彦右衛門を代官として、人数指し向け、景盛を追討あり然るに元長心に思う様羽 衣石の南條必ず尾高へ加勢する事あらん、又 、景盛味方の人数寄ると聞くならば、居城を捨て羽衣石へ走り、南條を頼むべきか、兎角 此の山に砦を築く沙汰せしむならば、景盛に 油断させ羽衣石の頼りを断ちて利あるべしとの下知に随い、香川、粟屋此の山に来たり、 人夫を督促し、城普請を始める。此の畝の喬木を悉く伐り麓の川に崩したり、此の事を古老伝えて字とし木崩れの畝と称するとなり。 今も洪水の後は、此の川より松粕檜椎等の朽 木川底より浮き出づるとかや。以て、小土産山の城普請は天正十年の初夏の頃なるべし。 景盛攻めは岩倉の以前なり。岩倉滅却は其年 の五月なり。或る奮記に出雲勢尾高の城主杉 原景盛を攻めて人馬の労を休めて後、岩倉の 城を取り巻きしよし述べたり。 陰徳太平記にも、小土産山の城普請に人夫を督促する事を載せたり、又景盛攻めの事は尾高の城の所へ誌す。 (※伯耆民談記より)

天正十年(1582)の夏、吉川元長の命により南条氏の押さえとして築城されたという。『伯耆民談記』は、北條の郷小田村の山、略して里山を所在地とする。現在の倉吉市小田であるが、小田地内に城館の遺構は今までのとこ ろ確認されていない。付近の丘陵にも城跡に 関連する遺構もなく、穴窪・下古川の水田に城ノ内の字が認められる程度である。所在地不明としておく。 (※倉吉市史より)

ちなみに小土産山は「さっとやま」、「ざっとやま」などと読む…
今回は、赤太字部分の記載に着目し、位置を割出してみたひらめき電球
しかし穴窪は茶臼山城に近く、城ノ内と言うならそちらの城ノ内であるのでは…
と言う事で、下古川へ…
条件を満たす、「南に川のある丘陵」へと入る…

細長い丘陵頂部は、広い削平地となっている…

細長い丘陵頂部の中央付近、「く」の字に曲がった辺りに櫓台のような土盛があるが、中央が窪んでおり、古墳かも知れない…

毛利氏の手によるなら、斜面に畝状竪堀群がある可能性を考慮し、東斜面を彷徨走る人
帯曲輪のような削平地が数段見られ、山麓に近い辺りには細長い削平地…

竪堀!?それとも単なる崩落の跡…!?
このようなものが3ヶ所…

再び登り直す…
中央の櫓台か古墳のような所から西へは、広い削平地となっているが、激しい薮で、進むのに一苦労あせる

西端まで行ったが、特に何も無く引き返す…
北東側へ行くと、土塁と空堀!?

山道の跡かも知れないが、この土塁のようなものは延々と伸びていた…

北側にも曲輪のような削平地が連なっており、此処が小土産山城…と言うには、やや遺構が乏しい気もする…

小土産山城(?)遠望カメラ

実地踏査を元に作成した概略図…
遺構と思った部分が強調されているので、実際にはもう少し城らしくない(笑)

軌跡ログあし


どなたか、幻の小土産山城に関しての情報をお持ちの方の連絡、お待ちしておりますm(_ _)m