八橋城(琴浦町八橋)
この城山は山陰線の開通により分断されたが八橋城跡である。中世、行松氏の居城で大江城とも号した。また、立石城とも呼ばれた。
大永四年(1524)ここを攻略した尼子経久は城番として吉田左京亮を置いて伯耆支配の拠点とした。その後、尼子氏を滅ぼした毛利氏は杉原盛重に城を守らせた。天正年間に入り織田氏と対立するようになると、八橋城は山陰での毛利勢の中心拠点として重視され、城の整備が進められた。「伯耆民談記」によれば東に大手を構え、本丸と二の丸があり、周囲に堀を巡らせていた。豊臣治下では南条氏が領有したが、関ヶ原の合戦後の徳川治下で一時期、中村氏、市橋氏が封ぜられた。
元和三年(1617)池田光政が鳥取藩主になった時、一藩一城制で廃城となる。寛永九年(1632)池田光仲入国後、津田氏が八橋を領有し、以後明治維新まで陣屋を置いて治めた。
津田氏の菩提寺体玄寺(南西200m)の西丘陵上に津田家の墓所がある。雄大な墓碑十一基が往時を偲ばせている。
(※現地説明文より)
二の丸下には石垣が残存する
三の丸…というか腰曲輪
二の丸
二の丸に鎮座する稲荷社
後世の改変なのか、二の丸には土塁…!?
本丸
八橋城遠望
東伯郡琴浦町の城