外構城 旧西伯郡西伯町 | 山城攻略日記

山城攻略日記

北海道から沖縄まで、日本全国の有名所の城を旅し…
現在は地元・鳥取を中心とした城巡りの日々(^-^)/

標高約90m・比高約35mの外構城(南部町能竹小字戸構)

伯耆志鴨部村の条に「村の北、上る事一丁余の山なり、北方に空湟の形あり、頂の平地、方二十三間、梢下りて西方に方十五間ばかりの地あり、昔の法性寺城是なり。永禄七年、毛利氏の草創にて、同年その将三村修理亮家親-備中成羽の人-日野郡不動ヶ岳より転じて唐城に入る。九月家親、尼子方の吉田源四郎と基部下谷上孫兵衛、福山肥後守らが籠もれる八橋城を攻め破る、吉田以下走りて富田城に入る。同八年十月福山肥後守・平野又右衛門きて当城下に火を放つ。家親出て戦わず、平野はその術を察して引退きしに、福山血気に任せて相働き日暮に至って引返す所を家親大勢を卒してこれを追う。福山返し合わせて戦えば、三村方闇夜に乗じて、案内の地に拠りて前後左右より散々にうちてかかる。福山進退を失いてただ敵兵の声を頼りに走り寄って戦いけるが、遂に討死にしたりけり。猶子の福山藤三郎首を切って泥中に埋めて、その身も自害せり。旦日首を求むれども見えず。その腕を切て他の首と共に吉川氏の出雲洗合の陣に送りけり、(陰徳太平記にもある)同年、家親、毛利に請いて備中に帰る。これは北方平均今は遠きにあらざれば南方の宇喜多氏を討たんが為なり。此後当城の説なし、一旦の砦なれば、いくばくならずして廃せしなるべし。今戸構(トガマエ)と呼ぶ地あり、これかの軍書に外構(トガマエ)とあるに同じ。
(※西伯町誌より)

西麓より直登、城の縄張りが不明なので、まず最高所の主郭へ

主郭の南西以外を取り囲み、東へ伸びる第二郭

第二郭の東端の北東下の北東三郭

北東三郭と北東四郭の間には堀切

北東四郭

北東四郭と北東五郭の間にも堀切

北東五郭

さらにその先にも堀切

北東六郭

そしてまた堀切

北東四郭~北東六郭の南東側には帯曲輪

盛り土状の曲輪、その間に浅い堀切、その横に帯曲輪…この地形は、古墳群のようにも見える…

北東七郭

さらに堀切

北東八郭

北東九郭


第二郭まで戻り、第二郭の東端の南東下に連なる曲輪群へ…
南東四郭~南東六郭



南東六郭には井戸跡のような窪み

南東尾根の曲輪群の南西下には通路のような帯曲輪

南東七郭~南東八郭


南東八郭の下には五輪塔が

そして、その五輪塔付近には四条の堅堀





方向を転じ、北西三郭~北西八郭







再び方向を変え、南西三郭~南西九郭








外構城遠望

実地踏査を元に作成した概略図

軌跡ログ



旧西伯郡西伯町の城