有年山城(赤穂市東有年・有年楢原)
別名:八幡山城・大鷹山城
この城は八幡山城、大鷹山城、有年山城と名を変えて資料に現れる。城主も富田右京から本郷掃部守直頼とかわる。富田氏は赤松御年寄衆の一人で、右京もまたその家臣であった。右京は始め鍋子城に居た。鍋子城はまた大鷹山城とも呼ばれていた。富田右京は鍋子城に三年居城した後、五、六町川上の八幡山城に移った。以来この八幡山城が大鷹山城と呼ばれるようになったようである。現在では誰もが大鷹山と呼んでいる。天文年間(1532~1555)富田右京は有年山城(八幡山城)で浦上宗景と戦って敗れた。天文十二年置塩城主赤松晴政は播磨にある浦上宗景の砦数ヶ所を攻撃したので、浦上宗景は本城の備前天神山城を出て播磨に兵を進め、所々に放火しながら赤松の砦二ヶ所を陥れて備前へ引き上げたと云われている(『龍野市史』巻一)。この播磨における落城砦二ヶ所の一つが、この大鷹山城であったようである。本郷氏が多可郡へ移った後この城へ入った城主の名は明らかでない。天正七年(1579)の那波家文書の中の資料によると、有年の辺りは岡豊前守の所領になっている。岡豊前守は鍋子城に居たと記されているから、大鷹山城は廃城となっていたのかも知れない。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)