尼子山城(赤穂市高野)
城主は尼子将監義久と云われている。尼子氏の播磨進攻は天文七年(1538)に始まり、城山城を本拠とした尼子詮久は次々播磨の諸城を陥れていった。尼子山城もこの時攻め落とされて尼子氏が入城したのかも知れない。しかし尼子氏の占拠以前の城主の名は明らかではない。『赤松播備作城記』には「尼子山城 赤穂郡坂越庄高野村 尼子将監守之。天文年中討死。戸田氏守之。天正中落城。」とある。しかし、尼子将監義久は永禄五年(1562)出雲富田城よ城主として毛利軍に包囲されて戦っているところからみて、尼子山城が落城したと云われている永禄六年に義久は尼子山城に居なかった事は確かである。天正六年(1578)上月城で討死した尼子勝久は尼子の支族であるところからみて、この尼子山城に居た城主もその系統の尼子氏であったかも知れない。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)