駒山城(赤穂郡上郡町井上・大持)
別名:小聖寺山城・生駒山城
『播磨古城記』には「城主赤松律師則祐妙善居之」とある。則祐は円心の三男で、十六歳の時から叡山に登り護良親王(天台座主)に仕えていたが、後に大塔宮の令旨を奉じて播磨に帰り、まず父円心を説得し、円心の名において播磨の豪族や寺社の宗徒に令旨を伝達してその奮起を促した。『太平記』によると、この時円心は苔縄山に城を構えたところ国中の兵が馳せ集まり一千余騎になったという。この時則祐は播磨にいたとしても、とても播磨に城を築く暇はなかったと思われる。この城を則祐が初めて築いたとすれば建武以降の事になろう。『赤松家播備作城記』には「駒山小聖寺山城赤穂郡安室庄井ノ上村 安室五郎義長(赤松氏)天文年中初築之居城」とある。しかし赤松の拠点である白旗城のある赤松渓谷の入口を扼している駒山に天文年中まで城を築かなかった事は考えられないところである。おそらく嘉吉の変(1441)後廃城になっていたところへ安室五郎義長が再築城したのではなかろうか。義長は当初は大聖寺山城の城主であったが、天文年間(1532~1555)小聖寺山城に移ったという。同書によると義長の子安室新五郎が後を継いだが幼いために長臣の長船越中守がこの城を守る事になったとある。長船越中守は『赤松幕下集士禄』にも備前国長船城主として記載されている赤松の重臣の一人である。『播磨鑑』によると「天正五年(1577)同所竹万村住人小田氏・吉田氏・内海氏・片島氏ら四人の侍が駒山城を攻めたが落城せず。ここに苔縄村浪人高見治郎が協力し、火を放って遂に落城させた。この時城主長船越中守はそのまま羽柴秀吉に所属する事になった」と書かれている。天正五年といえば羽柴軍が赤松政範の籠る上月城を攻めていた時である。駒山城もこれより先に秀吉に所属する軍勢に攻められて落城したのではなかろうか。秀吉に降伏した長船越中守はその後赤穂・佐用両郡を支配した宇喜多氏に所属して、ちくま、山の里、だいもち、赤松、こけなわ、大えだ、くらい、上郡其外赤穂郡の残在所の支配者となっており、さらに慶長五年(1600)の宇喜多家分限帳によると長船吉兵衛の所領は2万4084石となっている。引き続き駒山城に居たのであろう。慶長五年関ヶ原合戦において宇喜多家は西軍に属したため滅亡、長船越中守も主家と運命を共にした。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)