大聖寺山城(赤穂郡上郡町船坂字西芳醇寺/八保甲)
別名:安室城
この城の築城者並びにその後の城主については、史料によって異なっている。最も古いとするものは『赤松家播備作城記』で、それによると「赤松出羽守満貞 初築之居城也。応永年中、采地者赤穂十二箇所、備前和気郡也」とある。満貞は『赤松系図』には「満則」とあるが、法名が両者同一の「椿齢」であるところから、この両者は同一人物と思われる。それによると「越前守大蔵少輔赤松次郎出羽守。赤穂郡安室庄大聖寺城并備前三石城主也。采地赤穂郡十二ヶ所、備前和気郡也。永享三年没。五十八才」とある。円心三代目の孫とすれば応永年間(1394~1428)は彼の熟年期にあたる。『播磨鑑』には「安室五郎義長の居城で、赤穂郡十三ヶ所備前和気郡を合わせて領し、永享三年五月二日卒す」とある。すなわち『播磨鑑』の記載を信ずるなら赤松満貞(満則)と安室五郎義長もまた同一人物ということになる。安室家は円心の子則祐が安室五郎則祐と称したに始まり、五代の後裔が後に置塩城主となった義村で、義長はその養子である。義長は天文年中(1533~1554)に大聖寺山城から小聖寺山城に移ったとされている。小聖寺山城とは駒山城の事で、義長の後大聖寺山城は同大炊助が相続したが天正年間(1573~1592)落城したとある。
(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)