下記太字部分は昭和五十六年のトルコ風呂専門誌ヨリ。当時のトルコ通ライター栗原利之氏による金津園沿革を引用。
旧赤線からトルコ風呂へと転業した岐阜・金津園も、五十三年ごろから新しい形のトルコ風呂がオープンし始めて、岐阜に注目されるようになった。
当時、岐阜は組合の統一料金で、入浴料三千五百円と決まっていた。かっぽう着姿のオバちゃんが店先に立って呼び込みをしている姿は、さながら現代版、赤線といった感じで、神戸・福原も同じスタイルだった。
五十四年に初めて岐阜に入浴料一万円のトルコ風呂がオープンして以来、急激に一万円トルコが増え続け、そして金津園の土地も高騰し、坪三百五十万円という高値がついた。
・・・・・・・昭和の金津園地図を眺めていると、昭和三十年代後半~四十年代前半までは屋号に「トルコ」を冠する店舗が僅かだったのですが、四十年代後半から五十年代にかけて一気に「トルコ」と冠した店舗が誕生することに気付かされます。栗原氏の文にもある通り、トルコ風呂黎明期の金津園は古式然とした赤線スタイルが健在だったようであります。それでも、昭和三十年代にいち早くトルコ風呂へ転業を果たした旧赤線業者は、先見の明があったと言えましょう。
※下記地図は何れも昭和三十八年度の住宅明細図ヨリ
赤線時代の屋号をそのまま用いている「いろは」。昭和三十年代後半には既に「トルコ」と名乗りを上げております。
「いろは」現在の姿。屋号も受け継いでおります。店舗を良く見ると妓楼をリフォームしたような形跡がみられます。
「入舟」とありますが、こちらも赤線時代から存続している店舗と思われます。
グーグルストリートビューより、現在の姿。
金津園レトロ物件愛好家諸氏に人気の高い「ふじもと」。旧赤線街と税務署が隣接しております。金津園は赤線時代から相当な税収を見込まれていた区域だったのでしょう。
赤線時代から変わらぬ姿で金津園に佇む「ふじもと」。
同じく好事家諸氏の間で人気の高い「喫茶むらやま」の位置を確認。赤線時代から昭和四十年代までは「竹馬」という屋号だった模様。
この日もむらやまさんにお邪魔し、美味しい珈琲とお菓子を頂きました。出勤前に寛ぐ金津園住人氏から四方山話を拝聴す。