静岡県磐田市見付(旧見付遊廓・通称:田んぼ) | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

静岡県磐田市の遊廓跡を再訪す。







前回は、現在中泉歴史公園となっている旧中泉遊廓を訪問、此度は中泉とは別に開設されていた「見付遊廓」へ。




至極乱暴な紹介で恐縮であるが、見付宿に点在していた飯盛旅籠が風紀上の問題から、大正八年に遊廓を移転統合(警察の介入、後押しが相当強かった模様)。先般静岡県のRAA施設に関して駄文をしたためた通り、敗戦後は進駐軍向け慰安施設、赤線と言う遊里変遷を歩んでいる。




RAA関連で参考に中泉の地図を紐解いてみると、妓楼の屋号がそのまま記載されている。こちらは昭和三十二年の住宅地図ヨリ。「駿遠倶楽部」の名称が何処かに残ってはいないかと期待したのであるが、残念乍記載は無し。




また、売春防止法施行から十余年経った昭和四十四年の住宅地図にも同様に遊廓時代の屋号が記載されていた。







扨、見付の遊廓であるが、約三十年前に地元郷土史研究家諸氏が発行した磐田市の郷土資料「磐南文化第十一号」には「見付遊廓考」が掲載されている。三十年前には妓楼や検梅院の遺構が残っていたようで、貴重な写真を拝見出来る。また数年前にこの地を訪れた遊里歩きの先輩氏のサイトには、妓楼裏門を撮影したもの(「見付遊廓考」掲載写真と同様の門)が掲載されていたが、実際に現地に赴いてみるとその裏門は既に取り壊されていた。




見付遊廓該当箇所を昭和三十二年の住宅地図ヨリ。見付遊廓は周囲を田んぼに囲まれていたことから、「田んぼ」と言う呼び名で親しまれていたのであるが、昭和三十年代当時周囲には既に田んぼは無く、住宅地と商店、工場が立ち並んでいたのを地図から窺える。「見付遊廓考」によると比較的早い時期に遊里としての役目を終え、旧妓楼は病院や町の名士の所有物へと生まれ変わっていることが記されている。




「見付遊廓考」に掲載されている田んぼに囲まれた妓楼配置図。山千楼、音羽楼、蓬莱楼、大栄楼の四店が並ぶ。昭和五年発行の全国遊廓案内に蓬莱楼の名は記載されていないが、後になって浜松から移転して来たそうだ。件の裏門や三十年前まで残っていた妓楼遺構は大栄楼のもの。





下記は平成二十二年に静岡県遊廓研究家の第一人者たる八木富美夫氏によって撮影された見付遊廓跡。大栄楼の裏門が残っているのが分かる。




此方は平成二十八年三月十日、八木氏と同一個所大栄楼跡を小生が撮影。既に裏門は取り壊されている。




旧検梅や大通り跡方向を撮影。遺構は何も残っていないようだ。勿論、田んぼも残っていない。








最後に「見付遊廓考」へ記された敗戦後の見付遊廓の様子を引用する。





終戦と同時に磐田へも河原町の旧部隊跡へ米軍が進駐、見付遊廓は中泉遊廓共ども進駐軍の慰安所と指定され、一般人は禁止された。進駐軍撤退後、公娼制度の廃止に伴い従前の娼妓は、小料理店に転向した業主の下で酌婦としてそのまま残る者や、自活の途を求めた者もあったし、故郷へ帰る者も一部あった。その後、業者はそれぞれ別の途を歩み、酌婦となった娼妓もそれぞれ自活の道を開いていった。