焼津弁天地区 | お散歩日記

お散歩日記

路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

焼津市の旧売笑地帯「弁天地区」を訪問す。

 

同地区は以前も拙ブログにて取り上げ、その後幾度も足を運んでいる。だが焼津の遊里に関しては、情報も乏しく、文献を目にする機会も少ない。

 

 

 

 

 

 

 

此度、何故敢えて焼津弁天地区を取り上げるに至ったかと言うと、去る十月五日に古書を取り扱うことになったカストリ書房http://kastoribookstore.blogspot.jp/にて入手した一冊「梶山季之著 赤線深く静かに潜航す(昭和四十九年十二月三十日発行)」に焼津弁天地区に於ける「線後」の様子が記されていたからである。(梶山による旧赤線地帯のルポは昭和三十四年に発表されている)

 

 

 

 

昭和三十年代、所謂「トップ屋」としてマスコミにその名を轟かせた梶山は、売防法施行後、法の網を潜り抜け復活の蠢動を呈し始めた各地の旧赤線地帯を取材。

 

本著では静岡県の旧赤線地区に特化し、浜松(ステッキガール)、熱海(パンマ・保健売春)、焼津(飲食売春)を赤線廃止後の新たな売春地図に加え、センセーショナルな内容が綴られている。

 

「赤線の私生児・飲食売春」と見出しが付けられた焼津弁天地区のルポには、当地を「弁天地区花街」とし、赤線時代の様子も記されている。

 

焼津には二十三軒の業者が存在し、最盛期には百五十名以上の女を抱えていたが、それでも間に合わないほどの繁盛ぶりだった。大がかりな漁港を持つ焼津では、遠洋漁業に出かける前の荒くれ男が五、六名集まって団体で押しかけて来たと言う。

 

だが、梶山が売防法後に弁天地区を訪れた際には、二十三軒の内、十四軒が旅館に転業し、二軒がカフェーに、残りの七軒は店を閉め情勢を窺っていた。

 

 

 

現在の旧弁天地区。旧廓内の公園には防災の為に津波タワーが設置。弁天地区を俯瞰出来る。

 

 

 

 

 

 

梶山によると、どうやら弁天地区は売防法後には女を世話する生業をすっぱりと辞めてしまっていたらしい。長い遠洋漁業から戻って来た水夫が、女を求めて弁天地区へ血走った目でやって来たのを追い払う光景が旅館先で度々展開されていた。

 

 

文中に、荒くれ水夫と時には喧嘩へ発展したと言う「G館の主人」の談が載っているが、G館とは現存する「銀水楼」であろうか。

 

 

 

 

 

嘗て弁天地区で働いていた女たちは、売防法後、一旦は帰郷するものの、百姓など稼ぎにならぬと直ぐに古巣たる焼津へ戻ってくる。女に飢えた水夫の性の捌け口との需要と供給が上手くマッチングする。当然、新たな売笑地帯が誕生することになる。見出しに掲げられた「飲食売春」だ。

 

 

旧弁天地区からほど近い焼津港。嘗ては夜ともなれば、港付近の道路にびっしりと小さな屋台で埋め尽くされていた。各々の屋台には弁天地区で働いていた女を五人程抱えていた。所謂自由恋愛の体裁を取っていたらしい。

 

 

 

 

 

交渉が成立すると、女将から「突撃一番」の入った小袋を渡され、女と「散歩」へ出掛ける。この頃の弁天地区は警察の取り締まりが厳しかった様子で、弁天地区の転業旅館は使用しないのが暗黙のルールだった。

 

「せめて、アベックで泊まりに来て呉れればと思うんですがね。一週間も十日も泊り客のないことはザラですよ」と赤字を憂うる弁天地区旅館主人の言葉で焼津ルポは結ばれている。