上杉謙信について | ジャワ・パンナコッタの雑記帳

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2011年2月から約2年間、イギリスのリーズで派遣研究員として勉強したました。
イギリス生活のことや、旅行で訪れて撮りためた写真などを少しずつアップしていこうと思ってます。

はみ唐さんの記事をよみながらちょっと考えたこと。

長尾景虎の関東管領就任や度重なる関東遠征は、防衛戦争の意味が強かったのではないか?

長尾景虎が関東管領就任と初の関東への大規模侵攻を果たす1560年以前の状況をはじめに抑えておくと、

長尾景虎は1552年に上杉憲正を支援しする形で上野や武蔵北部を一時的に奪還させているが、1559年には上野国は再びほぼ完全に北条の勢力下に組み込まれている。しかもその間、1554年には武田、今川、北条の3国同盟が成立している。

つまり、この事態は、北信を争う武田との間のパワーバランスは大きく崩れたことを意味し、放っておくと越後は武田と北条連合軍による信州と上野の2方面からの攻勢にさらされることになる。
この事態を打破するためにはどうすべきか?それは、関東において再び騒乱状態を引き起こし、上野まで伸びた北条の勢力を大きく後退させること。これが、1560年の長尾景虎の関東侵攻の戦略的な目的だったのではないか?

本当は、景虎からすると、上杉憲正あたりを傀儡として、関東における反北条勢力の核となし、北条に対する拮抗した勢力として存続させられればそれでよかった。事実、1552年の段階では、景虎もそれをしようとしていた。それ以上、踏み込んだ形で関東に関わるつもりはなかったのだろう。が、憲正はその器ではなかった。代わりの人物も見つからなかった。しかし、同時に思う。越後に根拠地を持ち、越後を離れることなど夢にも思っていない(現実的にも不可能だったのだろう・・・)長尾景虎が上杉の家督を継ぎ、関東管領になること自体、中長期的な戦略構想としては無理があったのではないか?いや、その無理は、上杉謙信自身も承知の上だったのではないか?だから、あくまで上杉謙信の戦略的目的は、越後進行を狙う&可能な大勢力を関東に成立させないこと。そのために関東を騒乱状態のままにしておくことだったのではないか?だから、状況が変わると、上杉謙信は北条氏康となんのためらいもなく同盟関係を結んでしまう(1569年越相同盟)。上野国を自らの勢力圏と認めさせたうえで。それまで上杉と共に反北条で戦った関東の諸将達を見捨るような形になったとしても・・・。もちろん氏康からすると、上杉謙信との戦いの中でその戦略的意図を存分に把握しているが故に、上野を謙信の勢力圏と認めさえすれば同盟が可能とはじめから踏んだ上での働きかけだったに違いない。

恐らく、成田長秦は早い段階で、上杉謙信の真の戦略的意図とその限界を見抜いた。だからこそ、早々に再び北条方に寝返ったのではないか?同じ限界を、後に太田氏資も感じるようになる。父を裏切り追放し、北条方に寝返ったのはその結果なのではないだろうか?