上杉謙信の関東出兵は、多分に防衛戦争的な意味をもったものではないかということを先の記事に書いた。謙信に関東に恒久的な支配体制を確立しようという強い意思は無かった。むしろそれは現実的には不可能だという冷徹な判断すら、謙信の腹の底にはあったのかもしれない。
1560年の関東侵攻においても、謙信が着実に領域拡大を図る戦略的な行動ではなく、ことさら長躯して小田原城を包囲してみせたり、あるいは鶴岡八幡宮で関東の諸将を集め派手な関東管領の就任式を挙行してみせたのは、中長期的かつ実行可能な戦略プランの欠如、そもそもそういう意図を謙信が持っていないという事実から諸将の目を逸らさせるための派手なデモンストレーションだったのではないか?
しかし諸将の中で一人、謙信の一連の行動の本質をいち早く見抜いた男がいた。成田長秦である。彼は謙信が越後に帰るやいなや、間を置かず真っ先に再び北条方に寝返っている。一説には、就任式の日に長秦は藤原氏の流れをくむ誇りから謙信の前で下馬をせず、それに腹を立てた謙信に恥辱を受けたためといわれている。本当にそうだろうか?長秦だって、後北条氏が勃興して旧勢力を駆逐していくパラダイムシフトが進む関東で、したたかに己の領地を守り、生き抜いてきた男である。必要とあらば頭の一つや二つ下げることなど、平然とやってのけたであろう。彼は現場たたき上げの冷徹な眼で、目前でことさら華やかに式の主役を演じてみせる男の"不真面目さ"を看過した。「こんな男に、一族の命運を委ねられるものか。」彼のはらわたは煮えくり返ったに違いない。長秦が鶴岡八幡宮で謙信に対してぞんざいな態度を実際にとったとしたら、それは名家の誇り故ではない。小さいながらも才覚一つで戦国の世を生き延びてきた己の矜持を守る為、関東の諸将達を使い捨ての駒のように利用しようとする謙信の不誠実さに対する精一杯の抗議行動だったのではないか?
しかし、長秦が見誤ったものが一つある。謙信の戦術的才能である。こればかりは長秦の想像をはるかに超越していた。就任式の3年後、長秦は謙信に本拠地の忍城を攻められて降伏している。その結果、蟄居を命じられ、息子の氏長に家督を譲ることを余儀なくされている。
ひょっとしたら長秦は北条に寝返るのが早すぎたのかもしれない。いずれにせよ1560年代という時代は、武蔵の小領主たちにとって、特に生き残るのが困難な時代だったのだろう。