スピッツの「ロビンソン」。

少し前にYouTube1億回再生のニュースを耳にしました。
そこでずっと気になってたスピッツの「ロビンソン」解釈について一言。
思い込みも多々あると思いますが、ご容赦ください。

ロビンソン以前のスピッツは、文学的かつ内向的な詩と60年代を彷彿とさせる美メロ、パンクやシューゲイザーの要素を融合させた特異な立ち位置にいたと思います。

そこそこに評価はされていたもののまだくすぶってたスピッツの会心の一撃が「ロビンソン」です。


でもそのロビンソン。
ちょっと検索するととんでもない解釈がまことしやかに出てきます。

代表的なのが、ロビンソンというその曲名。
マサムネがいつだったかのMステで発言したらしい、タイのデパートの名前を見て決めたんだそうです。

または、仮歌でテキトーにつけたタイトルだから意味はないそうです。

熱心なファンにむしろ多いように感じるのですが、曲の解釈にアーティストの言うことをそのまんま当てはめてしまうケースがあります。

作品は発表すれば自らの手を離れ、リスナーの解釈に委ねるのが作家でも画家でもポップシンガーでも共通の約束事。

そして、名作と呼ばれるものの多くは、作家の意図を離れてリスナーとの間に化学変化を起こし、別の意味を付与され発展していったものです。
その触媒は時代性であったり、作家の深層心理であったりします。


ですからどういう意味か?を本人に聞くなど愚の骨頂。
Mステの件では、タモリは自身もヘビーな音楽リスナーですから、愚を承知で尋ね、マサムネもサービスで答えているはず。
もし「テキトーにつけた」が真実でそれを公言するなら、それはリスナーを愚弄する行為とさえ言えると思います。
当時の噛みつき犬スピッツを考えるともしかしたらそれが意図かもしれませんが。


もう1つのよく見かける解釈は死にまつわるもの。
「河原」や「夢のほとり」は賽の河原、「君」は生まれてくるはずだった赤ん坊。
(興味のある方はロビンソン、解釈で)

本気ですか!
本気でそんな歌だと思ってるなら、
そんな役にも立たない8センチCDはゴミ箱に、ステレオは粗大ゴミに出して、セカオワでも聴いて勇気をもらっている方がはるかに有益です。


ちょっと言葉が過ぎたかもしれません。
が、ヒットから20年以上の月日を経て今なお僕の中にわだかまる熱量。

もし、あなたがスピッツの美メロでのみ、マサムネの草食系のたたずまいにのみ反応してるならそれは勿体なさすぎる。


というわけで、僕なりの解釈を試みます。





まずは冒頭の歌詞から。


"新しい季節は なぜかせつない日々で
河原の道を自転車で 走る君を追いかけた
思い出のレコードと 大げさなエピソードを
疲れた肩にぶらさげて しかめつら まぶしそうに
"

「新しい季節」が新学期だなんて言わないで。
まず、大前提として90年代初頭の空気。

90年代の若者は、
60年代の若者の持つ政治性がない、
70年代の若者の持つ実験性がない、
80年代の若者の持つ時代性がない。
いつの時代も言われることではありますが、何にも持たない世代と揶揄されていました。

音楽的にはビートルズから30年近くが経過し、全てはやり尽くされたポップ焼け野原の停滞期

新しいことなんて何にもない、誰かがとうにやってる。
かつては確かに存在した無人島、冒険。
未知のものに募るあこがれ。

かつての若者たちが経験したように、いつか自分たちにもやってくるだろうと思っていた新しい季節。
でもそれはやってきそうもないんです。

他力本願という意味ではありません。
時代はひとりの力では生み出せないもの。
90年代初頭の空気は、バブルを引きずった安直な軽薄さが全体を覆い、世紀末が近づいてるのに、いろんな事が起きてるのに、新しいことなんて何にもないというあきらめ、そしてその中に生きる自分たちはなんなんだろうという自己嫌悪。
その空気から抜け出すことが、何かがあった時代への憧憬だったんです。

中村一義しかり、サニーデイしかり。詳しくないけれどオザケンも多分。
そしてスピッツも確実にその流れの中にいます。

「新しい季節」だけで長くなってしまったので、とりあえず初回はここまで。