ヨルダン3日目の朝は、また死海に浮くことからスタートでした(笑)
{D241B174-B0FB-4354-8F8D-C40C4921E3B4}

こんな写真をみているとヨルダンもリゾートに見えるかもしれませんが、それは切り取られた一部でしかありません。

移動中は警官がバスに乗って護衛してくれてましたし、死海のリゾートエリアに入る時にはセキュリティーゲートもありました。

シリアからの難民も60万人以上来ていますし、我々は安全な観光地だけを見てきたように感じます。

今日は9時過ぎには、ヨルダンからイスラエルに向かうために国境へ。
両国の国境はヨルダン川ですが、両岸に緩衝地帯がありなかなか物々しいです。

イスラエルからヨルダンに入ると急に景色が変わります。砂漠は砂漠なんですが、建物から道路から農地から全て違う。

イスラエルの一人あたりGDPは36000ドル、ヨルダンは5200ドル。国境を越えるだけで経済格差は7倍です。生まれる場所が数キロ違えばこうなるわけです。格差を肌で感じました。
ちなみに日本の一人あたりGDPは39000ドルで、イスラエルとほぼ変わりません。
{AE6DB020-8622-48C1-966C-658A51047119}

イスラエルにもどって最初に向かったのはエルサレムの旧市街が一望できる高さ825メートルのオリーブ山。
眼下のケデロンの谷にはユダヤ人のお墓が無数にありました!最後の審判の日にここで死者が蘇ると言われているのです。
{E1BDB935-3F44-45DC-BDAD-24CAE6AE92D2}

{6F902C42-537B-4176-8412-016AAB167712}

エルサレムに入るとまず庶民の生活の様子を知って欲しいということで、マハネー・イェフダー市場とベン・イフェダー通りを探索。

お店よりも要所要所に銃をもった人がいて、若者が軍服で闊歩し、街に溶け込んでいたのが印象的でした。
{1332AC2A-5811-4B76-BA7A-FEADDD182C8F}


{5CD1915F-D488-405D-BF12-9C1EE5BC4DB5}

続いては旧市街に入り、昨日ヨルダンで見てきたマダバ地図に示された街道にあった繁華街跡のカルドを見学。
{786FD398-7616-4859-9AE9-7EDED6F92249}
歴史好きの私にはたまりません。ローマやアテネと同じ感動を体験しました。
{6745457A-DC01-4055-943D-1EBAEB7BAB5D}

{4B793CB8-7CAC-4535-9353-BABC655DA1F3}

そして今日の最後はかの有名な「嘆きの壁」を訪問。
この壁はマサダの戦いの頃(1世紀)にローマに破壊されたユダヤ教の神殿の壁の一部。

先日もblogに書きましたが、このユダヤ戦争の敗北以来、ユダヤ人は国を失い、1948年にイスラエルを建国しても、1967年までユダヤ人はこの壁に近づくことができなかったのです。

壁の高さは21メートルですが、地下にまだ数十メートル壁が埋まっているとのこと。
どういうことかというと、エルサレムは異民族、異教徒が奪いあった場所ですから、戦争に勝った方は、過去の街を潰して埋めて、さらにその上に街をつくるのです。
ですから、エルサレムの地下には昔の街が埋まってることになります。

マダバの地図に示された街道も地下に埋まっていて、それが発掘された場所もみてきました。
{E0BFF483-134D-4EFA-B5E0-8D8E27EF1CA7}

食事を済ませたら、夜はエルサレムの探索です。やはり、夜の街も歩かねばその国をしったことにはなりませんf^_^;
{DB4846D4-25E9-484D-9BF2-C5FD8B720AF6}

今日は、新市街のマミラモールを抜けてライトアップされた旧市街も少し見てきました。
{A0ABEF3C-7798-4AF3-BF33-95A9CDFD8653}

旧市街の土産物屋さんは、皆さん商魂たくましくなかなかふっかけてきます(笑)
しかし、こちらもイスラエルを縦断し、相場をつかんでますから、ボラれることはなく、交渉次第でなかなかお買い得プライスになります。
旧市街は9時にはほとんど店がしまって少し物騒になりますが、軍人や警察官が見回りをして治安維持につとめていました。
{D2091471-E950-4102-A4D4-351590D1A6C3}

新市街は華やかもので、日本などと変わりません。物価は服や雑貨は日本より少し高く、食べ物は日本と同じか少し安いくらいでした。

エルサレムはやはり刺激的で残り2日も楽しみです。
{F20E2F67-5941-466D-A943-8D0AD864D034}

今日は、エルサレムの銀座と呼ばれる通りの名前にもなっているベン・イェフダーについてお話しましょう。

1858年にロシア領のリトアニアに生まれたかれは、パリの大学の医学部に進学するもヘブライ語に興味をもち、「イスラエルの民(ユダヤ人)は、イスラエルの地でヘブライ語を使用すべきである、なぜなら共通の言語なしに民族は成り立たないからである」という論文を書きます。

そして1881年には、パリでの医学の勉強を辞め、彼の理想を実現させるべくパレスチに移住し、ヘブライ語の新聞を発行します。
また、彼の息子ベン・ツィオンは生まれて数年間はヘブライ語のみで教育され、約二千年ぶりにヘブライ語を母語として話す最初の人物となります。

しかし、シオニズム運動の中心人物のヘルツルでさえ、ヘブライ語を公用語として話すのは難しいと考えていた状態でした。

そして、ベン・イェフダーの活動は、シオニズム運動以前からパレスチナに居住していたユダヤ人達の怒りを買い、彼らに当時パレスチナを支配していたオスマン帝国の当局に対し、ベン・イェフダーが反乱を企てていると密告され、投獄までされてしまいます。

それでもベン・イェフダーは活動を続け、1920年ごろには、ヘブライ語はパレスチナの公用語の一つになるのです。

古代の言葉が復活して日常的に使われるようになったのは歴史上唯一の出来事で、ユダヤ人は国家だけでなく、言語も取り戻したのです。

ベン・イェフダーはこうした功績で通りに名前が残されました。

私も彼の考えがよくわかります。
日本も明治維新の後と、大東亜戦争の敗戦後に日本語を失いかけました。
そしてまた現代も日本語より英語だという勢力が増えています。

私はその流れに危険性を感じて、
CGSでやまと言葉の大切さや英語化教育の問題をうったえているところですが、今回ベン・イェフダーの活躍を知り、また勇気をもらったのです。

国家を守る、言語を守る、
日本人が忘れたあたりまえを、イスラエル人は復活させ、守ろうとしています。

その事実をまず知りましょう。