この命、芸術に捧ぐ~「強さ」を求める問答無用の仕事師~/藤原喜明【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第128回 この命、芸術に捧ぐ~「強さ」を求める問答無用の仕事師~/藤原喜明



「レスラーってさ、やっぱり強いのは当たり前。プラスアルファで食ってる訳だから。客だってバカじゃないよ。柔道やってるヤツや、レスリングやってるヤツらは本物がわかる」

関節技の鬼、問答無用の仕事人、昭和のテロリストと呼ばれているプロレスラー・藤原喜明はこう語る。

アントニオ猪木の付き人兼スパーリングパートナーとして長年、猪木を支えた男。
新日本プロレスでかつて道場最強と呼ばれた男。
前田日明、佐山聡、高田延彦、山崎一夫、山田恵一、船木誠勝、鈴木みのる…多くの「最強」を追う求道者を育てた男。
そして、、「プロレスラーがどんな時でもなめられたら終わり」だと考え、常に「強さ」を追い求め続けた男。

得意技であるワキ固めは「フジワラ・アームバー」として世界中のマット界で認知され、世界各地から弟子を志願しに今も藤原の元を訪れている。
彼はこの世界で「マスター」と呼ばれている。

今こそ考察したい。
藤原にとって「強さ」とは?
藤原にとって「プロレス」とjは?
藤原が歩んだレスラー人生とは何だったのか…。

藤原は1949年4月27日岩手県和賀郡江釣子村(現:北上市)に生まれた。
実家は農家。雄大だが冬になると雪が積もり、寒さを耐え抜く自然環境が藤原の「辛抱強さ」を源となった。
少年時代は柔道と県道に熱中していた。
そんな藤原がプロレスラーになろうと決意したのは小学生の時。
学校の授業で映画鑑賞をしていた時に途中短いニュース映像が流れた。
そこに映っていたのは対戦相手に空手チョップを見舞う力道山の姿だった。

「俺はプロレスラーになりたい」

だがどうしたらプロレスラーになれるのかはわからない。
だか肉体を鍛えなければ元も子もない。
高校一年からボディービルのトレーニング本を買ってきて自己流の鍛錬に励んだ。
藤原は高校二年の時から自身の身長、体重、胸囲、上腕、スクワット、ベンチプレスといった数字の記録をつけるようになった。
日々のトレーニングと成長で自身の数字は更新されていった。
高校卒業後、サラリーマンとなってもプロレスラーになるためのトレーニングは続けた。
入社三か月の藤原は会社にウェイトトレーニング部を創設するほど職場でもとレーニングの虫となった。

その後、藤原は仕事を辞め料理人となるも店を転々としていった。
それでもトレーニングだけは欠かさなかった。
横浜になる「スカイ・ボディービル・ジム」(スカイジム)に通い始めると、金子武雄会長からこんなことを言われた。

「プロレスラーにならないか?」

金子会長は元プロレスラーだった。
それから数人の仲間と本格的なプロレスラーになるための鍛錬を開始した。
今までは肉体の鍛錬だったが、このスカイジムではレスリングを経験した。
金子会長が経営している焼肉屋で働きながらトレーニングを続けた。

ある日、金子会長から藤原にこう聞いてきた。

「新日本プロレスと国際プロレスと日本プロレスのうち、どこの団体に行きたいか」

藤原はこう答えた。

「新日本プロレスでお願いします」

こうして1972年11月2日、藤原は新日本プロレスに入門した。
186cm 102kgというすでに出来上がった肉体と基礎を引っ提げて…。
新日本プロレスの練習は地獄だったが、スカイジムでの練習が功を奏し、きちんとメニューをこなせた。
入門から10日後、道場のコーチ役の"鬼軍曹"山本小鉄からこう言われる。

「藤原、今日だぞ」

なんと入門から10日後でデビュー戦を迎えたのだ。
これは異例中の異例である。
藤原は入門して時点で、プロレスラーとしてデビューできる素材になっていたのだ。
1972年11月12日の藤波辰巳(現・藤波辰爾)戦でデビューした藤原は試合後に、先輩レスラーで大ベテランの豊登にこんなことを言われた。

「お前、プロレスは本当に初めてか?」

この言葉が本当に嬉しかった。
あの自己練とスカイジムでのトレーニングは無駄ではなかったのだ。
こうして藤原のレスラー人生は始まった。

新日本プロレスの練習はあまりにもハードだった。
道場は夏になると40℃を越え、スクワット1000回をこなすと床には大量の汗で池ができ、やがて蒸発して塩になっていくほどだった。
とにかく苦しかった。
午前10時から午後2時から3時までみっちりトレーニングは続いた。
あまりの厳しさに藤原はコーチの山本小鉄に殺意を抱くほどだった。

そんな藤原だったが、いつしか新日本で藤原は"変人"と呼ばれ、いつしか彼自身が恐れられる曲者になっていった。
例えば、慕っている先輩と気に食わない先輩の洗濯。
気に食わない先輩の服になんと小便をひっかけていた。
だが、アントニオ猪木や山本小鉄の付き人として優秀な働きをしていたという。
巡業バスに乗っている時、藤原の席はスピーカーの近くだった。音楽やビデオが社内に流れると、あまりにもうるさい時はスピーカーをハサミで切り刻んで破壊したこともあった。
それでもレスラー達は彼に文句が言えなかった。
藤原は「強かった」のだ。
道場破りの相手を引き受けるのはいつも藤原だった。
それだけ自身の「強さ」に自信があったのだ。

「当時の新日には、おれのような道場を守るレスラーと、お客を呼んで金を稼ぐレスラーの二つのタイプがいたんですよ。かっこいいやつらが、試合でお客を呼んで、それでおれたちがめしを食っている。つまり、猪木さんが格闘技世界一というもんだから、挑戦者たちが道場に来るわけですよ。となると、そうしたやつらに対応するやつがいないといけない。いまはプロレスラーがバカにされているから来ないと思うけど、当時は、猪木さんが"おれが世界で一番強いんだ”と言っているから、当然来るわな。そのとき、おれらは刀を持ってるんだけど、刃の部分を隠して闘ている。でも、いつでも、鞘(さや)は抜ける状態なんだ。」

1973年の新日本プロレスファンクラブ誌には新人時代の藤原のこんな記述がある。

「レスリングのセンスは抜群で立ってよし、寝てよしのオールラウンドプレーヤー。多彩な技を誇り、アマレス流飛行機投げ、アームバーとつなぐ攻撃は凄い。変形ストレッチ、ドロップキック等の大技がある。(中略)藤原選手は体格的にも恵まれており、完全なストロングスタイルのレスラーである。迫力のある試合は素晴らしく、将来は新日本プロレス、いや日本マット界を代表する正統派レスラーに成長するのではないだろうか!」

藤原の実力に一目置いていたのが師匠であるアントニオ猪木だった。
猪木はモハメド・アリ戦を初めとして一連の異種格闘技戦のスパーリングパートナーにいつも藤原を指名していた。また海外遠征時には猪木をガードする用心棒として藤原は帯同していた。
また猪木は藤原に「今日はいいぞ」と許可が出た場合は対戦相手にシュートを仕掛け、プロレスをなめている選手をリング上でこらしめたこともあった。
猪木は藤原についてかつてこんなことを語ったことがある。

「俺はプロレスとは何かというテーマを追い続けてて、それを一番理解しているのは藤原なんですよ」

猪木にとって藤原とは師弟を越えた同じプロレス思想を持つ"同志"だったのかもしれない。

すでに「強さ」を持っていた藤原が"神様"カール・ゴッチと出会う。
新日本道場でコーチとして一時期滞在していたゴッチはスパーリングで先輩レスラーを少し体を動かしただけで悲鳴を上げさせていた。
関節技を自在に操るゴッチの姿に藤原はトリコになっていた。

実は藤原には新日本でのスパーリングで疑問を感じていた。
スパーリングで関節技を極める時に「これ、どうやったら極めれるんですか」と山本小鉄に聞いたことがあり、こんな答えが返ってきたという。

「根性で極めろ!」

根性論は否定しないが、それだけでは極まらないはずだ。
そんな疑問をゴッチとの出会いが解決してくれた。
1975年には若手レスラーによる「第二回カール・ゴッチ杯」を優勝した藤原は師匠のアントニオ猪木にこんな嘆願をしたという。

「フロリダのゴッチさんのところに行かせてください」

すでに30を越え、新人レスラーではなく前座戦線に甘んじる中堅レスラーだった藤原は1980年にアメリカ・フロリダにあるカール・ゴッチ道場でのトレーニングを開始した。
ゴッチ道場でのトレーニングはこんな感じだ。

午前11時から午後2時まで、片道2.5kmをランニングやうさぎ跳び、パートナーを背負って往復で歩くといった基礎練習を行う。その後、ロープ昇り、腹筋、スクワット、プッシュアップ、ブリッジ。それから休憩後に近くの柔道場で関節技の練習を午後5時まで行うのだ。

ゴッチとの出会いで分かったことは、関節技やテクニックを極めるには、気合だけじゃない、人間の骨格や筋肉の構造を知ることが必要だということだ。
関節技とは骨を折る技ではない、関節の靭帯を引きちぎる技なのだ。
ゴッチから教わったのは関節に近い位置で極めること、テコの原理を利用することだった。

「頭75%、力25%」

これがゴッチの教えだった。
そして一つ一つの関節技には極めるための必要なポイントが存在していた。
また関節技とは骨を当てられるから痛いのだと実感した。

UWFの代名詞の一つとなったチキンウイング・フェースロックは相手の腕を前方から刈り、巻くようにアームロックを極め、相手をコントロールしながら手を水平にして顔面の下に手を入れ、相手の顔面を横向きすると完成する。
クロック・ヘッドシザースは自身の両ひざを相手の顔を挟むポイントはこめかみと頬骨と顎骨の間だという。そして挟むとつま先立ちになって首を絞るとこの技は完成する。
アキレス腱固めは足首を腕で極めるのではなく、脚力よりも強い背筋を使って締め上げる。
相手の左足首を抱え、大腿部を挟んだ状態になると自分の左腕は左乳首付近に保持し、ねじみ込みながら腹を出して、同時に背筋を伸ばすことによって極まるのだ。

藤原はゴッチの教えを忘れないために、練習を終えアパートに戻ると、ノートに詳細なイラストや説明や原理をメモでまとめるようになった。
これが後に「藤原ノート」と呼ばれる記録である。
「藤原ノート」を書き続けると分かったのは関節技とは力学のてこの原理を応用したものだった。よく考えれば藤原は高校時代で体育、応用力学、機械工作は5段階評価の「5」だった。
自分のプロレススタイル、ライフスタイルに関節技は合っていたのだ。
藤原は語る。

「関節技はアートだと思う。ゴッチさんは、スリーパーホールドが嫌いで必ず相手を極めて、マイッタをさせてものだ。相手を完全に極めてマイッタさせる。これが美しいんだ」

関節技の鬼と呼ばれるようになった藤原にはその「強さ」に惹かれる若者が次々と現れた。
佐山聡、前田日明、高田延彦、山崎一夫…。
皆、藤原門下生だ。
そして、藤原から関節技を教わっていた若手は先輩レスラーとのスパーリングで安易に関節技を極められなかったという。
ゴッチの心酔した日本人レスラーが後を絶たなかったように、藤原もゴッチのように教えを乞う存在となっていた。

「俺はプロレスラーに認めてもらえるプロレスラーになりたいと思ったんだよ。たとえば、自分がお医者さんだとして、素人さんから"あの先生、いい先生よね"と言われたいと思わない。たくさんいる医者から、”あの先生は腕がいい”と言われるような医者になりたいわけですよ」

ゴッチ道場でのトレーニングで「強さ」というナイフにさらに磨きを上げた藤原がプロレス界でようやくクローズアップされるようになったのは1984年2月3日の札幌中島体育センターでの長州テロ事件である。

1984年2月3日、北海道・札幌中島体育センター大会。この日、藤波辰巳(現・辰爾)対長州力のWWFインター・ヘビー級選手権が組まれていたが、よりによって、藤原は入場時の長州を襲撃。金属状の凶器で長州を血だるまにしてしまったのだ。結局、長州は試合を行えるような状態ではなく、ビッグマッチでのタイトルマッチは不成立となってしまった。この事件を機に、“テロリスト”と呼ばれるようになった藤原は、その後、前座戦線から抜け出し、長州率いる維新軍との抗争に駆り出されるようになり、一躍、大ブレイクを果たした。テロリストとなった藤原は、維新軍との闘いでは得意の関節技はあまり見せず、ヘッドバットや殴る蹴るといったケンカファイトが多かった。
(【甦るリング】第14回・万年前座・藤原組長の運命を変えた長州テロ事件/リアムライブ)

一部では猪木の指示によって敢行されたと言われているこのテロ事件によって藤原は"テロリスト"として注目されるようになった。そんな藤原にとって次の転機となったのは1984年6月に新日本プロレス退団&UWF移籍だった。

「UWFも噂では、猪木さんが作ったと言われているけど、あまりよくわからない。正直言って、当時の新日で、"こいつには負けるな"というプロレスラーはいなかったけど、給料は安いわけですよ。"プロはお金で評価される"と思うこともあった。それで、"ひょっとすると、俺は新日本には必要とされていないのかな"と、ちょうどそう思っていたころに、UWFの浦田(昇)社長が家に来て、おれのことをほしいと言うんですよ。"なら必要ですと言ってくれるところにいったほうがいい"と思っただけですよ。その前に一度、猪木さんが社長を解任されるという、クーデター騒動があったんですよ。そのとき、俺は大宮スケートセンターの控室で、猪木さんのかばんを広げて待っていたんだ。すると猪木さんがものすごい形相でやってきて、おめえら、どうのこうのと怒ってるんですよ。なに怒ってるんだろう?と不思議に思っていると、おれに向かって"おめえもか"と言うんですよ。俺は、なんのことかわからなくて、"なんのことですか?"と聞くと、"なんの話じゃねえだろ"と。あとで聞いたら、社長を降りなかったら試合に出ませんと、ほかの選手らがクーデター起こしていたんです。でも、俺はそれを聞いていないわけですよ。仲間たちからなにも聞かされていないし、猪木さんからも信用されていない。それ以来ずっと"ああ、おれはこの会社に必要ないんだ"と思っていたんです」

UWFには前田日明がいた。佐山聡がいた。高田延彦も山崎一夫もいた。
そして師匠であるカール・ゴッチが顧問として参加していた。
UWFとは格闘技としての真のプロレスを追求する実験台のようなスタイルだった。
キック&サブミッションをアイデンティティーとしたUWFは格闘プロレスと呼ばれ、異端のプロレス団体となった。

「UWFという団体は、佐山とか、前田とか、俺も含めて"おれこそは"というやつばかりだったから、会社としてまとまるわけないよな。そういうあぶなっかしいところが、ファンにとっては魅力だったのかもしれないな。花火は瞬間だからきれいなのと同じで、きれいなものは壊れやすいものが多いんですよ」

だが、UWFが一年半で経営が悪化し、新日本プロレスとの業務提携の道をたどり、藤原は1985年12月に再び新日本に戻ってきた。1986年1月からアントニオ猪木への挑戦権をかけてUWF選手達による代表者決定リーグ戦が始まり、決勝進出した藤原は前田と対戦した。
試合は壮絶を極めた。藤原がレッグロックと前田のスリーパーホールドの我慢比べの末、落とされかける直前に前田からギブアップを奪い、失神しても足首を離さなかった藤原が優勝した。

1986年2月6日両国国技館。
藤原は師匠・猪木との人生最大の大一番に挑んだ。
だが、この試合は波乱が次々と起こる。
猪木の故意が偶然なのか不明な急所蹴り、藤原のアキレス腱固めに「極める角度が違う」と発言したり、藤原の一本足頭突きに反則のナックルパンチを放つ猪木。
最後は猪木のスリーパーホールドで藤原が敗れた。
この光景に居ても立っても居られなかったのが前田だった。

「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか?」

この一戦に賭ける藤原の想いと覚悟を誰よりも知っていた前田。
関節技を教えてくれた師匠ともいえる藤原が馬鹿にされたのが許せなかった前田。
それだけ藤原は前田に慕われる男だったのだ。

新日本に戻った藤原には新日本の若手である山田恵一、船木誠勝、鈴木みのるといった「強くなりたい」若者が現れ、試合前の藤原教室で彼らは「強さ」を磨いていった。

1989年に新日本を追放された前田日明が旗揚げした第二次UWFに移籍した藤原だったが、やはりUWFの人間関係はバラバラだった。

1991年1月に第二次UWFは崩壊し、三派に分裂していった。
藤原はこんなゴチャゴチャした人間関係に巻き込まれたくなかった。
すると、弟子の船木と鈴木が藤原の家を訪れてきた。

「藤原さん、何とかしてくださいよ」

実は藤原は当時、何かと騒がしていたSWSから「来ないか」と誘われていた。
藤原はSWSのオーナーであるメガネスーパーの田中八郎社長に電話をする。

「船木と鈴木が来ると言ってますけど…」

田中社長はこう言った。

「わかった。じゃあ、道場を探しなさい」

こうして生まれたのが「プロフェッショナル・レスリング 藤原組」だった。
藤原は社長として経営に関わった。
こんなことは本当はしたくない。
それでも有望な若手レスラーを食わさないといけない。
だから一人で営業活動に奔走したという。

道場に姿を現さなくなった藤原に不満を抱くようになった若手レスラーに最高顧問であるゴッチはこう言っていたという。

「藤原は道場に来ていないが、怠けているわけじゃないんだ。お前たちを食わせるためにあちこち動きまわっているんだ」

それでも船木や鈴木は純粋に「強さ」を追求していた。
月一の試合数では採算が取れないから試合数を増加してほしいというオーナーサイドに反発する若手レスラー達、そしてオーナーと若手の間に挟まれ苦悩する藤原。
1992年末、船木や鈴木をはじめとした多くの若手レスラーは藤原組を去っていった。
彼らが藤原の苦悩を思い知るのは「パンクラス」という新団体を旗揚げしてからである。
ちなみにこの分裂騒動の際、藤原は彼らに土下座までしたという。
藤原組に残った日本人レスラーは藤原と若手の石川雄規の二人だけだった。

「今回の件はすべて私に責任があります」

1993年1月16日後楽園ホールでの藤原組興業は看板レスラーである船木と鈴木がいない状況で迎えた。マイクで事情を説明した藤原は自分一人の責任だと強調した。
藤原は男だった。
そして、ファンはそんな藤原に「そんなことはないぞ!」、「応援しているぞ!」,「頑張れ!」といった声援が沸き起こる。
藤原は涙を堪えながら、こういった。

「私は老骨にムチを打ち、頑張っていこうと思います」

ここから藤原は八面六臂の大活躍をするようになる。
新日本プロレスでは準レギュラーとして参戦し、昭和のテロリスト健在を全国にアピールし、また芸能活動を開始すると、その見た目とお茶目さも相成って「藤原組長」の愛称で人気者となり、テレビや映画に引っ張りだことなる。
時にはバラエティー番組の企画で熊とも闘ったこともあった。

1995年に藤原組が二度目の分裂を迎えると、藤原組は事実上、団体機能を失い、フリーランスとなった。

1996年4月、石川雄規が旗揚げした新団体「格闘探偵団 バトラーツ」の会場には藤原がいた。
石川が藤原を招待していたのだ。
藤原はマイクで語った。

「皆さん、どうか息子たちをよろしくお願いいたします!」

藤原にとってたとえ袂を分かれても愛する弟子であることには変わりないのだ。

「俺達は自分達が商売としてやっていけるプロレスを考えないといけない。自己満足ではいけない。もちろん、お客さんに媚びてはいけない。しかし、お客さんを集められないプロレスは、プロレスじゃないんだ」

「強さ」を追い求めた男がたどり着いたプロレス観だった。

50歳を過ぎ、プロレスキャリアも30年を過ぎたある日、藤原はプロレスライターの金沢克彦氏にこんな質問をした。

「この年になると自分の人生を振り返ってしまうわけよ。だけど、振り返ったときに、俺は人生で一体何を残してきたんだろう? 俺の人生はいい人生だったのかな?って。こんなことを他人に聞くことじゃないけど、どう思う?」

金沢氏はこう答えた。

「藤原さん、それはハッキリしてるじゃないですか? 組長は人を残してきたんです。技術を体に教え込むことで、組長の遺伝子を弟子達に残してきたんじゃないですか? 」

藤原は金沢氏にこう返した。

「ああ。そうか!そういう考え方もあるんだな。じゃあ俺の人生はあながち無駄じゃあなかったってことか。なんか、いい人生に見えてきたな(笑)」

そんな藤原に胃がんという病魔が襲ったのは2007年のことである。

「"ああ、おれ、死ぬんだな"と思いました。そして、事務所のいすに座って考えたんだよ。ふと気がついたのは、"ああ、だれでも1回死ぬんだな"ということ。死ぬのが、あしたなのか、30年後かの違いだけかと思ったら気持ちが楽になって、いましか出来ないことをやろうと、酒飲みに行った。現在を一生懸命生きるしかないんだよね。診断は、ステージ3Aで、5年生存率は41.7%。つまり半分以上は死ぬ。だけど、治っちゃった。2週間入院しただけで。切った次の日から歩いていたからね。3日目あたりから、管をつけたまま、点滴の器具をかついで、階段を下から上までたったか、たったか、上ったり下りたりして、すれ違った看護師さんに"おー"と声を掛けたら、"え!"と驚くんですよ。4日で抜糸して、1週間後ぐらいで、病院の周りを毎朝歩いていました。それで10日目ぐらいに、担当医に"とんこつラーメン食べたいんだけど"と言ったら、おいしいお店の場所を教えてくれたんですよ。それで、ほんとに行ったら、看護師さんの口から先生に知られて、"ラーメン食べに行ったんだって"と言うんです。俺が"先生が教えてくれたじゃないですか"と言ったら、"いやほんとに行くとは思わなかったよ"と。胃は、半分切りました。全摘手術の方が医者としては手間がかからないのですが、担当医の方が、"絶対こいつはカムバックする。胃を全部とると痩せるから"と思って、そう判断してくれたのです。その担当医はプロレスに詳しくないのですが、医者仲間に詳しい人がいて、いろいろ話を聞かされたそうで、おれの手術で失敗したら週刊誌に書かれるじゃないかと、プレシャーを感じていたそうです」

藤原は胃がんを克服し、2008年12月に奇跡のカムバックを果たして以降、この想いを強くなった。

「ざまあみろ。俺はプロレスラーだ。どうせ死ぬんだったら、かっこよく死んでやれ」

2016年現在も藤原は現役のプロレスラーとしてリングに上がっている。

「プロレスラーとして、試合に出してもらえるということは、まだ使えるということですよ。俺が行って、お客が1人も増えないと呼ばないですよ。はっきりいって、ギャラ分の価値があるからですよ。キャリア、客を喜ばすテクニック、プロレスのテクニックといった総合力ですよ。テクニックは落ちないし、体力は落ちているかもしれないが、俺なりにトレーニングして、コンディション整えている。この歳で、与えられた1試合、1試合を一生懸命やるだけ。必要とされているかどうかは、お客さんが決めること。商品だから、必要がなくなったら仕事がなくなる。それだけの話だ。自然に任せるだけだよ」

問答無用の仕事師とはよく言ったものである。

藤原喜明は多彩な才能の持ち主だ。
陶芸、浪曲、落語、尺八、盆栽、俳優、タレント、声優、イラストレーター…。
藤原にとってこれらのジャンルは副業ではなく、すべて本業だった。
彼にとって趣味とは芸術であり、人生も芸術だった。
そして、その芸術の最高峰が彼にとってのプロレスだったり、関節技というナイフを磨き、極めることだったのかもしれない。

元週刊ファイト副編集長の波々伯部哲也 氏は藤原をこう評している。

「もし藤原がいなければ系統だった関節技の知識やテクニックは次世代に引き継がれなかった。佐山や前田、高田らが藤原の薫陶を受けていなければ、UWFは誕生していたかどうか疑わしい。となれば総合格闘技やPRIDEも…。そう考えると藤原の功績は計り知れない」

「強さ」を追い求め、芸術に全てを捧げ、多くの求道者を育てた男の人生はどこまでもかっこよくて、しぶとく、どこまでも険しく、どこまで味わい深い。
まるで熟成させた芳醇なワインのように…。