ジャスト日本です。
プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。
かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。
プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。
プロレスとは何か?
その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。
そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。
有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。
それが「私とプロレス」です。
今回のゲストは、YouTubeをプロレス動画を配信し続け、イベントにも出演されているプロレス研究家のマスクド・マハローことマハロー・カタヤマさんです。
マスクド・マハロー(マハローカタヤマ)
BI砲時代からプロレスを見続けているプロレス研究家。
闘道館にてプロデュースイベント3回開催。
毎週末YouTubeチャンネル『昭和プロレス列伝』
毎回異なるテーマで昭和のプロレスを深掘りする
&今のプロレスを語る「週刊・プロレスジャーナル」
【プロモーション情報】
YouTubeチャンネル『昭和プロレス列伝』
https://www.youtube.com/@
闘道館イベント
・ 2019/3/9「
https://www.toudoukan.com/
・2020/3/14 『プロレス温故知新』
https://www.toudoukan.com/
・2023/10/15 プロレス温故知新2
https://www.toudoukan.com/
マハローさんの取材はなんと3時間半に及びました。とにかくプロレスを骨の髄まで愛して深堀りしているマハローさんの超マニアックトークが炸裂した回となりました。
かなりディープですよ! これぞプロレス研究家・マハローさんの面目躍如!
是非ご覧ください!
私とプロレス マハローカタヤマさんの場合「第1回 プロレス研究家の面目躍如」
プロレスを好きになるきっかけ
──マハローさん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
マハローさん こちらこそよろしくお願いします!
──まずはマハローさんがプロレスを好きになるきっかけを教えてください。
マハローさん 父親や親戚がプロレスが好きで、当時金曜夜8時に日本テレビ系で日本プロレスの中継が流れていて、それを幼稚園の頃から見てました。プロレスを見た一番古い記憶は1968年1月3日蔵前国技館で行われたジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキーだったんですよ。
──日本テレビ系の正月特番として放送された試合ですね。
マハローさん 試合後に血まみれになったリソワスキーが控室にジョー樋口さんが通訳をして徳光和夫アナウンサーのインタビューを受けて、徳光アナウンサーのマイクをかじるというシーンに号泣した記憶があります(笑)。
──ちなみにおいくつの時ですか?
マハローさん 3~4歳ですね。この日は国際プロレスが日大講堂で興行があって、日本テレビは夕方5時30分から1時間、国際プロレスを放映していたTBSは夜7時から30分とプロレス団体とテレビ局の双方で「隅田川決戦」と呼ばれる興行戦争が勃発したんですよ。
──日本プロレス史におけるテレビ戦争のさきがけですね。
マハローさん その通りですね。
初めてのプロレス会場観戦
──ちなみに初めて好きになったプロレスラーは誰ですか?
マハローさん 小学校1年生になってからアントニオ猪木さんが好きになったのが最初ですね。まだ若獅子と呼ばれていた日本プロレス時代の猪木さんで、馬場さん、大木金太郎さん、吉村道明さんと比べると若くてカッコいいんですよ。
──では初めてのプロレス観戦はいつ頃でしたか?
マハローさん 1972年7月24日日本プロレス・後楽園ホール大会ですね。これは馬場さんにとっては日本プロレス最後のシリーズだったんです。この大会を観戦した目的はミル・マスカラスの試合を見るためでした。
──マスカラスは日本プロレス末期に来日してますね。
マハローさん そうなんですよ。1971年3月に行われたミル・マスカラスVS星野勘太郎を見て、僕のプロレスファン人生が変わりました。僕にはマスカラスが漫画『タイガーマスク』の実写版に見えたんですよ。とにかく星野戦が凄くて衝撃を受けました。ダイビング・ボディアタック、フライング・クロスチョップ、ドロップキックといった飛び技が華麗で、しかも力強い。心技体が全部揃ったプロレスラーだったんですよ。
──それは星野さんが対戦相手だったということが大きいですね。
マハローさん はい。当時の日本プロレスのマッチメーカーだったのが吉村道明さんだったんですけど、試合の組み方が絶妙でした。この試合を金曜夜8時の中継の最初にやって、そこからゴングを買うようになりました。マスカラスの存在がプロレスマニアになる発端ですね。
──当時の日本プロレス界は劇画のようなヒーローがいなかったんですか?
マハローさん いなかったです。強いて言えば猪木さんになりますね。
日本プロレスの凄さと魅力
──ここでマハローさんの好きな団体・日本プロレスの凄さと魅力についてお聞かせください。
マハローさん 僕は幸いにもBI砲の試合も観ることができて、1971年のドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクに敗れた試合も見てます。千両役者であるBI砲が組んで日本プロレスを牽引していった、外国人レスラーはマスカラス以外は全員悪役にされてしまうんですよ。日本プロレスは大人のプロレスという感じでした。そこが魅力です。
──言わんとしていることは分かります。
マハローさん 日本プロレスは客席も大人が多くて、大人が楽しむ娯楽でした。そこが子供心にすごく憧れましたね。今考えると国際プロレスもいいんですけど、やっぱりストロング小林さんやグレート草津さんと、BI砲と比較すると役者が違うような気がします。
──BI砲の試合をご覧になられたということですが、試合はいかがでしたか?
マハローさん BI砲がとにかく頼もしかったですよ。1971年から日本プロレスに来日する外国人レスラーが少しランクが落ちるんですけど、馬場さんと猪木さんは日本プロレスの二枚看板の凄さがあって試合は面白かったですよ。
──力道山が亡くなってから日本プロレスが傾くじゃないですか。そこに馬場さんと猪木さんというスターが現れますよね。この二人がいなかったら日本プロレスはなかったかもしれませんね。
マハローさん おっしゃる通りです。馬場さんの存在が特に大きいですよ。猪木さんメインのシリーズだと観客動員に苦戦していて、馬場さんは集客力があったので、やっぱり世間的には馬場さんなんですよ。
──猪木さんの集客力は新日本プロレス旗揚げ後からレベルアップしていくんですよね。
マハローさん はい。テレビ朝日の中継が始まって、ジョニー・パワーズからNWF王座を獲得してからですね。
──だから猪木さんはあくまでも馬場さんの次で日本プロレスのナンバー2という役割で、この二人が新日本プロレスと全日本プロレスを立ち上げるのは必然ですね。
マハローさん おっしゃる通りです。
創世記の全日本プロレスの凄さと魅力
──ではマハローさんの好きな団体・ジャパンプロレス参戦前までの全日本プロレス(1972年~1981年)の凄さと魅力について語ってください。
マハローさん 旗揚げ時の全日本プロレスはアメリカンプロレスをやって、フレッシュさを感じました。馬場さんがいて、サンダー杉山さんがいて、ヒロ・マツダさんもマティ鈴木さんもいて、アメリカンテイストの団体でした。全日本はNWA会員だったので、来日するレスラーはテクニシャンが多かった印象があります。1972年に旗揚げして、その一年後にジャンボ鶴田さんがアメリカから凱旋します。鶴田さんも今までの日本プロレス界にはいなかったレスラーでした。身長も高くてカッコよくて。
──プロレス団体を料理のジャンルで例えると日本プロレスは和風仕立ての西洋料理という感じだったと思うんですけど、全日本プロレスはより西洋料理にシフトしていった感じですね。
マハローさん 全日本プロレスはバーベキューみたいですよね(笑)。
──全日本プロレスは柔道金メダリストのアントン・ヘーシンクのプロレス転向、世界オープン選手権、世界オープンタッグ選手権(現・世界最強タッグ決定リーグ戦)といった色々な企画をやっていたじゃないですか。こちらについてはいかがでしたか?
マハローさん マスカラスも来日してますし、1976年のテリー・ファンクVSジャンボ鶴田もいい試合だったんですよ。あとオープン選手権はメンツが凄くかったですね。
マハローさんが好きな7人のプロレスラー
テリー・ファンク
──ここからマハローさんには7人の好きなプロレスラーについて語っていただきます。まずはテリー・ファンクです。
マハローさん テリーほど時代ごとにブラッシュアップをしてファンの心を掴んでいるレスラーはいないですよ。1960年代のテリーは荒々しくて、1970年代はNWA王者になって、そこからファンクスで全日本の外国人エースになって、1980年代になると引退してから復帰して、1990年代はECWでハードコアをやって、ムーンサルトまでやっちゃうわけですよ。これほど自分をチェンジさせながらお客さんを喜ばせるレスラーはいないですよ。
──同感です。
マハローさん あとリング上でのやられっぷりと笑顔…本当に最高ですよ。しかも日本とアマリロ以外はヒールで闘っていて、その受けて受けて受けまくるというスタイルは善玉でも悪玉でも変わらないのがテリーの魅力ですね。
マハローさんが好きな7人のプロレスラー
ジャンボ鶴田
──ECWに関しては代表のポール・ヘイマンが「昔のレスラーは自分の権威や威厳を守ろうとして、若いレスラーに胸をあまり貸さないけど、テリーは若手レスラーに胸を貸してくれた、これによって若手レスラーが成長した」と言ってましたね。次にジャンボ鶴田さんですね。
マハローさん 天才ですよ。国内デビュー戦のムース・モロウスキー戦(1973年10月6日・後楽園ホール)から最後の試合(1998年9月11日・日本武道館/ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田&ラッシャー木村VS渕正信&永源遙&菊地毅)まで見守ってきました。だから鶴田さんに対する思い入れが本当に強いんですよ。
──鶴田さんの26年のレスラー人生を見られてきたんですね。
マハローさん 鶴田さんが『チャイニーズ・カンフー』の頃までは大好きでしたが、『ローリング・ドリーマー』をテーマ曲にしていた頃はあまり好きになれなかったんです。パンチパーマかけたり、ちゃらんぽらんな試合をし始めたのが1980年代前半でした。天龍源一郎さんと鶴龍コンビを組むようになって、インター王座やAWA世界王座を奪取してからまた鶴田さんが好きになりましたね。馬場さんの顔面をドロップキックを入れちゃう鶴田さんの身体能力が桁違いに凄いですよ。
──ちなみに具体的にお聞きしますが、マハローさんは鶴田さんのどの部分が天才だと感じますか?
マハローさん 猪木さんが「プロレスに必要なのはパワーではなく、スタミナだ」と言われていたそうですが、もうスタミナがバケモノですよ。フロントスープレックスやジャーマンスープレックスとか殺人的な技もありますし、あのビル・ロビンソンと60分フルタイムを何度もやっているレスラーは鶴田さんしかいない。それは身体能力と技術力の高さがあったからこそロビンソンと長期戦でも対抗できたのだと思います。これはそっち方面の実力も含めての話で、滅多に出しませんが。
──そうですよね。
マハローさん 全日本系のレスラーは隠しますね。本当はできるんですよ。できないとアメリカに行って半殺しにされますから。そっち方面も強くなければアメリカでは生きていけないですよ。新日本は試合前にお客さんに練習を見せますけど、全日本は試合前に練習を見せないじゃないですか。その団体の方針もあるから、強さは見えにくいんですけど、全日本は人前ではないところでスパーリングをやっていたはずだと考えています。
──もうひとつお聞きします。よく「ジャンボ鶴田最強説」というものがありますが、マハローさんはこの点についてどのように思われますか?
マハローさん これは支持しますね。個人的な意見ですが、鶴田さんは猪木さんといい勝負だったのかなと思います。例えていうと日本刀を構えた勝負だったら猪木さん、木刀を構えた勝負なら鶴田さんが有利だったのかなという感じですね。猪木さんだけと目の中に手を入れたりとか裏技を織り交ぜて勝つかもしれないけど、鶴田さんはそういうことをしないで体力とテクニックで勝つのかなと。
──生まれ持った才能で勝つということですね。
マハローさん だから鶴田さんは読んで字のごとく天才なんですよ。天龍さんが「鶴田さんを怒らせようとしても、その場は怒るけどすぐ冷めちゃう」と言ってましたよね。
──鶴田さんは天龍さんが絡むと熱くなるんですけど、他の試合になるとドライな感じの通常運転の試合になるんですよ。
マハローさん そうなんですよ。天龍さんだから鶴田さんは「なにクソ!」と思うんですよ。だから首から落とすパワーボムをやっちゃうわけで。あと長州力さんとの一戦で60分時間切れ引き分け(1985年11月14日・大阪城ホール)とか長州さんが後半スタミナ切れを起こしてましたから。全日本は基本的に相手の技を受けるところから始まるじゃないですか。日本プロレス、国際プロレス、全日本プロレスは受けから始まるプロレスなんですよ。新日本は攻めるスタイルなので、新日本出身の長州さんは攻め疲れもあったのかもしれません。
──鶴田さんは鶴龍対決や超世代軍との抗争で、試合で奥深さを見せるようになった気がします。特に超世代軍相手になると、えげつなさも加わって、色々な引き出しを開けてあの手この手で追い詰めるようになって、そこに受けもやって相手の力を引き出す。やっぱり鶴田さんは凄いプロレスラーだなと思いましたよ。
マハローさん そうですよね。
マハローさんが好きな7人のプロレスラー
マーク・ルーイン
──ここでマハローさんはマニアックな人を好きなレスラーにチョイスしています。マーク・ルーイン(極太の腕で相手を絞め上げる「アナコンダ殺法」スリーパー・ホールドが必殺技の「毒蛇」と呼ばれたアメリカ人レスラー)について語ってください。
マハローさん マーク・ルーインほど素晴らしいレスラーはいないですよ。元々はニューヨークでドン・カーティスと組んでいて、このドン・カーティスというのがシューターなんですよ。このマーク・ルーインも強者で、ニュージーランド、オーストラリア、ニューヨーク、ロサンゼルスではベビーフェースだったんです。フロリダ、デトロイト、あと来日する頃にはヒールレスラーになっていて、ジキルとハイドですよ。
──そこからケビン・サリバンと絡むからクレイジーな路線になるんですよね。
マハローさん そうです。パープルヘイズになったでしょ。単なる悪役レスラーではなくて、バックボーンから考えると恐ろしいレスラーなんです。
──後に第一次UWFで高田延彦(当時は伸彦)さんとシングルマッチをやって、ボコボコにされて敗れたと言われてますよね。
マハローさん これは僕のYouTubeチャンネルで検証していて、本当はマーク・ルーインが高田さんを子供扱いしているんですよ。高田さんにボコボコに蹴られていませんし、週刊プロレスが彎曲した記事を書いたんですよ。高田さんのローリングソバットを手でよけている写真を見てボロボロになったと言われてますけど、試合はマーク・ルーインが高田さんを子供扱いしていて、最後は敗れたという感じですね。
──今の話を聞くと、第一UWFも方向性が定まっていなかったので、ある程度ルールが整備されてきた時の第二次UWFやUWFインターナショナルでマーク・ルーインの試合が見たかったですね。
マハローさん それでも彼なら対応できたと思いますよ。
マハローさんが好きな7人のプロレスラー
アントニオ猪木
──ありがとうございます。次にアントニオ猪木さんについて語ってください。
マハローさん 「若獅子」から「燃える闘魂」に変貌して、あれほどリング上で喜怒哀楽を表現できるプロレスラーは猪木さんしかいないですよ。先日、闘道館で鈴木秀樹さんと一緒にイベントをやりましたけど、鈴木秀樹さんは猪木さんから「怒りをリング上で表現しろ」と言われたらしいんですよ。思えば猪木さんほど四方八方に怒りを見せた人はいなくて、怒りのあまりによだれを垂らすほどですよ。
──そうですよね。
マハローさん 恐らく当時の奥様だった女優の倍賞美津子さんの影響もあったと思います。ガウンの脱ぎ方とかリング上のポーズ、表情の作り方とか。「若獅子」が「燃える闘魂」になっていった過程には倍賞美津子さんとの試行錯誤があって、それをスパイスにしていったのかなと思います。
──倍賞美津子さんがいたから「燃える闘魂」は誕生したわけですね。
マハローさん その通りです。1974年にアンドレ・ザ・ジャイアントが来日したときに、新日本はWWWF(現・WWE)のビンス・マクマホン・シニアと契約しているんですよ。だから他のWWWFレスラーも呼べるわけですけど、あまり呼ばずにタイガー・ジェット・シンとかジョニー・パワーズといった高くないギャラで呼べるレスラーを来日させました。新間寿さんや大塚直樹さんに「本当はギャラの高いレスラーを呼べたんじゃないですか」というと「何言っているんだよ」とごまかされたことがあって、でも本当はWWWFのレスラーをもっと呼べたはずですよ。でも無名の外国人レスラーを呼んで自前でスターにした方が経費が安くなりますし、営業利益を上げるために猪木さん一本で勝負して、対戦相手は誰でもいいというスタンスで当時の新日本はやってたんですよ。
──猪木さん頼みということですね。
マハローさん 猪木さんの一枚看板でお客さんを呼べますし、千両役者として猪木さんは頑張りましたし、異種格闘技戦も先駆者としてやってきたのも新間さん、大塚さん、猪木さんのアイデアですよね。
──コストを抑えながら集客する能力に長けていたのが実は新日本なんですよね。
マハローさん そうなんですよ。新日本はものすごく営業が強い会社なんですよ。全日本は北海道や東北は強かったけど、東日本はあまり営業が強くなかったり、西日本になると、ある興行会社に丸投げしてしまうわけで、営業力がそれほど強いわけではない。でも新日本は全国的に営業が強い。だから猪木さんがどの外国人レスラーと試合をしてもお客さんが入るんです。
──新日本は営業が強いイメージがものすごくあります。
マハローさん だから新間さんが「新日本はNWAに外国人レスラーを取られていて、あまり呼べない」とストーリー付けにしてしまって、コストを抑えめに運営をしていったので本当に猪木さん、新間さん、大塚さんもそうですが、頭がいいですよ。
──最初はカール・ゴッチがブッキングを担当していた時は外国人レスラーも知名度の低い選手が多かったですよね。
マハローさん そうなんですよ。1973年4月に坂口征二さんが日本プロレスから新日本に移籍しますよね。実は「外国人レスラーのブッキングが弱い」という新日本の課題があって、坂口さんがデトロイト時代のマネージャーのクライベイビー・カノンが1972年の年末に日本プロレスに来日していて、そこで話をつけているんですよ。坂口さんが新日本に移籍してからジョニー・パワーズとか坂口・デトロイトルートから外国人レスラーが来日するようになったんですよ。
──坂口さんは新日本移籍の際に海外ルートも持ってきてくれたということですか?
マハローさん 要するにNWFベルトをお土産にして坂口さんは新日本に移籍してきたわけですよ。この部分はあまりスポットライトに当たってませんけど、モントリオールのジャック・ルージョーのテリトリーで活躍するレスラーや、デトロイトのザ・シークが新日本に参戦しているのも坂口さん効果ですね。これはジョニー・パワーズのインタビューとかで明らかになった話です。
──これは個人的には新事実ですよ。
マハローさん あとアンドレと新日本を繋いだのはマイク・ラーベルとビンス・マクマホンと言われてます。これは坂口さんが新日本に移籍すると、遠藤幸吉さんがテレビ解説に加わるんですけど、遠藤さんがロサンゼルスとパイプがあったので、遠藤さん経由でマイク・ラーベルと繋がったわけです。
──なかなか興味深いです。今の話を聞くと全日本は資金力はあるとはいえ、お客さんの期待に答えるために豪華外国人レスラーたちを来日させるということを愚直にやっているじゃないですか。新日本はある意味、ずる賢いですね(笑)。
マハローさん 本当にそうですよ。それなのに、猪木さんは馬場さんと闘いたいとか、色々な障害があるに言っていたわけですから。
──以前、猪木さんが馬場さんに送ったとされている対戦要望書を読ませていただいたのですが、その文面の最後には「猪木寛至」と署名されていますが、「新間寿」という名前が浮き出すような内容でしたからね(笑)。
マハローさん ハハハ(笑)。新間さんは煽りの天才ですからね。猪木さんにとって素晴らしい参謀だったと思います。猪木さんや新間さんについて語っている話は確定というよりは僕の推測ですから。
マハローさんが好きな7人のプロレスラー
マイティ井上
──ありがとうございます。これでマハローさんの好きなプロレスラーは4人語っていただきました。残りは3人います。次はマイティ井上さんです。
マハローさん 井上さんが好きな人って多いんですよ。全日本プロレス時代もよかったですけど、やっぱり国際プロレス時代の井上さんが素晴らしかったんです。なんでもできるし、華やかさもあって、どんなレスラーと対峙しても相手のスタイルに合わせてプロレスができて、アメリカの強豪選手たちからも一目置かれる存在でした。
──ヨーロッパのスタイルにも井上さんは対応しますよね。
マハローさん そうですね。1972年にディック・ザ・ブルーザーとクラッシャー・リソワスキーが国際プロレスに来日して、井上さんが東京体育館でストロング小林さんと組んで試合をしたんですけど、ブルクラをきりきり舞いさせてましたよ。最後はフォール負けを取られましたが、どんなレスラーでも対応できて、例えリング上で仕掛けられても返せるのが井上さんの凄さですよね。
──本当に実力者ですよね。
マハローさん あとアニマル浜口さんと組んで、ヤマハ・ブラザーズ(山本小鉄&星野勘太郎)とIWA世界タッグ王座を賭けて対戦したじゃないですか。僕は井上さんに「星野さんの方が硬いんじゃないですか?」と聞くと「星野さんは柔軟で、山本小鉄の方が断然に硬いよ」と言ってましたよ、
──そうなんですね!意外なように見えますけど、妙に納得です。僕は国際プロレス時代の井上さんの試合はDVDで散々見ました。井上さんほど国際プロレスを体現しているレスラーはいないと思います。
マハローさん おっしゃる通りです。
──国際プロレスの理念が「アマチュア・レスリングの技術を基礎として本格的なプロレスの確立」だったんです。井上さんと浜口さんが前座で試合をしていた時の映像を見ると前半は本当にレスリングの攻防なんですよ。国際プロレスが本当にやりたかったことを具現化していたのが井上さんなんじゃないですか。
マハローさん そうですよね。だから井上さんにIWA世界ヘビー王座を取らせて、バーン・ガニアとAWA世界ヘビー王座のダブルタイトルマッチをやらせたんです。
──井上さんは全日本プロレスに行ってからは国際プロレス時代ほど活躍が目立たなくなりましたよね。
マハローさん はい。実は以前闘道館での井上さんのトークショーで聞いた話ですが、国際プロレス崩壊後、井上さんは、冬木弘道さん、アポロ菅原さん、米村天心さんと共に全日本に移籍しますよね。阿修羅・原さんが門馬さんルートから全日本に移籍するんですけど、その時に馬場さんが「阿修羅を上に行かせるからお前はナンバー2だよ」という話が井上さんにあって、井上さんは了解したそうです。だから全日本移籍後の井上さんはジュニアに転向したり、アジアタッグ王者になったり中継という立ち位置になったんです。
──その条件を飲むわけですから、よっぽど井上さんは新日本に行きたくなかったんですか?
マハローさん 新日本が大嫌いですから、井上さんは。
マハローさんが好きな7人のプロレスラー
ドン・ジャーディン(ザ・スポイラー、スーパー・デストロイヤー)
──ハハハ(笑)。次がこれがマニアックですね!覆面レスラーザ・スポイラー、スーパー・デストロイヤーとして活躍したドン・ジャーディン(193cm 128kgの巨漢レスラーで、ジ・アンダーテイカーの師匠として有名。トップロープからのエルボーやニー攻撃を得意としていた。ロープワークの巧みな選手として知られ、アンダーテイカーが得意にしているオールドスクールの元祖である)です。
マハローさん 彼は覆面レスラーなんですけど、表情に怖さがあって、アンダーテイカーの師匠としても有名ですよね。ロープをこれほど有効的に使うレスラーはいなくて、なおかつブレーンクローという必殺技もある。本当に惚れ惚れする試合をするんですよ。
──これは教えていただきたいのですが、ドン・ジャーディンの試合運びはアンダーテイカーのような感じなのですか?
マハローさん そうですね。ロープから飛んだり、ロープを使って首を絞めたりする攻撃が多いんですよ。1980年代後半までダラスやWWFでトップで出てましたよね。
──今の話を聞くと巨漢で動けるレスラーっているじゃないですか。その先駆者のような感じですか?
マハローさん その通りです。デストロイヤーが背が大きくないのですが、レスリングができる選手で、スーパー・デストロイヤーは190cm以上あって、デカいのに鷲のようにひらひらとコーナー最上段から降ってくる感じですね。
マハローさんが好きな7人のプロレスラー
ミル・マスカラス
──ありがとうございます。ここで7人目の好きなプロレスラーは、ミル・マスカラスです。
マハローさん 本当に唯一無二のレスラー。世界の千両役者ですよ。
──同感です。
マハローさん メキシコ人覆面レスラーとして、世界中どこでもトップを取ったレスラーはこの人しかいません。昔はMSGには覆面レスラーは出場できなかったんですけど、それを認可させたのはマスカラスなんです。日本でもマスカラスが来日した頃にプロレスブームを起こして、ニューヨークでもブームを巻き起こした。IWAという団体があって、そこの団体オーナーがMLBシカゴ・ホワイトソックスを保有する億万長者で、テレビ局も持っていて、その人が世界中にテレビの試合を流すときに団体のエースにしたのはマスカラスでした。
──マスカラスは自分のエゴを最後まで押し通せた成功者だと思うんですよ。
マハローさん それには理由があって、マスカラスは集客力があるからですよ。会場を超満員にするんですよ。だからプロモーターに重宝される。マスカラスに嫉妬してシュートを仕掛けたとしてもマスカラスが強いから対応してしまうんです。どんな会場でも満員するから世界中のプロモーターはマスカラスを千両役者として扱ったのです。
──集客力があるレスラーはプロモーターは大事にしますよね。
マハローさん マスカラスは最後まで自分のスタイルを変えなかったんですよ。テリー・ファンクもアンドレ・ザ・ジャイアントもダスティ・ローデスも途中でキャラクターとかスタイルをモデルチェンジしましたが、マスカラスがずっとベビーフェースなんですよ。これはとんでもなく凄いことですよ。
──そうですよね。
マハローさん あとこれは話したいことですが、1974年にマスカラスがドイツのミュンヘンに行っていて、トーナメントに参加して長州力さんに勝って、ローラン・ボックに敗れているのです。これが日本のマスコミでは「マスカラスがドイツでコテンパンにやられて負けた」と報道されたのですが、マスカラス曰く「ボックはプロレスができない男だから、白星は献上した」ということらしいです。
──これはなかなか意味深ですね。
マハローさん ルチャ・リブレの選手は飛んだり跳ねたりのイメージがありますけど、ちゃんとシュートのトレーニングを道場で積んでからデビューしているんです。以前DEEPで日本人選抜とルチャ軍団の対抗戦がありましたね。そのルチャ・リブレのトップで、しかもレスリングで五輪代表になったマスカラスが弱いわけがなくて、本当に強いんですよ。マスカラスは日本ではダイビングボディアタックがフィニッシャーだったんですけど、アメリカではベアハッグが得意だったんですよ。日本ではベアハッグはやらなかったのは、お客さんがそれを要求していないからお客さんの期待に応えるために飛び技をメインにしていた。そんなマスカラスが僕は大好きなんですよ。
(第1回終了)