私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合「第1回 三沢さんが生きる目標だった」 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回のゲストは、「魂の絵師」連れてってくれ1000円さんです。

 

 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 

   

連れてってくれ1000円

小学生の頃にプロレスに心奪われ、中学生の頃に三沢光晴に命を救われたノアオタ。
イラストや動画などを通じてプロレスの面白さを伝えるべく活動中。
・X:https://twitter.com/shun064 

・YouTube:「あつまれのあのあファンチャンネル」https://youtube.com/@user-so8er3dx1e
 

 

 

私は連れてってくれ1000円さんが運営されているYouTubeチャンネル『あつまれのあのあファンチャンネル』にゲスト出演させていただきました。

 

 

 

 

 

また、私のXでのアイコンは連れてってくれ1000円さんが作成してくださいました。

 

 

 

何かとお世話になっている連れてってくれ1000円さんにロングインタビューをさせていただきました。

 

プロレスとの出逢い、初めてのプロレス観戦、好きなプロレス団体、好きなプロレスラー、YouTubeチャンネルを始めるきっかけ、好きな名勝負…。

 

そして、連れてってくれ1000円さんが長年、ファンとして追い続けているプロレスリングノアについてじっくり語ってくださいました。

 

 

 

 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 連れてってくれ1000円さんの場合
「第1回 三沢さんが生きる目標だった」
 
 
 
連れ1000さんがプロレスを好きになったきっかけ
 

 
──連れてってくれ1000円(以下・連れ1000)さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
 
連れ1000さん こちらこそよろしくお願いします!
 
──まずは連れ1000さんがプロレスを好きになるきっかけを教えてください。
 
連れ1000さん 最初は新日本プロレスですね。1981年頃だと記憶しています。毎週金曜夜8時にテレビ朝日系で放送されていた『ワールドプロレスリング』を見てまして、アントニオ猪木さん、長州力さん、初代タイガーマスクがいる中で藤波辰巳(現・辰爾)さんのファンになったんですよ。
 
──そうだったんですね!
 
連れ1000さん 当時、すごいムキムキでかっこよかったんです。過去を遡ってジュニア・ヘビー級時代の藤波さんのドラゴン・ロケットとドラゴン・スープレックスで完全に魅了されました。プロレスの入口は新日本だったんですけど、毎週土曜の夕方に日本テレビ系で『全日本プロレス中継』が放送されていて、最初に見た試合がテリー・ファンクVSスタン・ハンセンで、テリーが絞首刑されたんですよ。
 
──1982年4月14日の大阪府立体育会館大会ですね。
 
連れ1000さん 残酷なシーンが当時の全日本ではあったので、母親からは「全日本は見たらあかん」と言われましたけど、ダメと言われると見たくなるじゃないですか。だから親の目を盗んで全日本をちょこちょこ見てました。


初めてのプロレス会場観戦
 
──ちなみに初めてのプロレス会場観戦はいつ頃ですか?
 
連れ1000さん テリー・ファンクが引退する1983年8月26日・全日本『スーパーパワーシリーズ』後楽園ホール大会だったと記憶していて、初来日のテリー・ゴディがパワーボムを初公開した試合を見ているんですよ。(1983年8月26日後楽園ホール大会でスタン・ハンセン&テリー・ゴディVSジャンボ鶴田&天龍源一郎で、ゴディが天龍を相手にパワーボムを日本初公開している)
 
──そうだったんですね。天龍さんはその時期、パワーボムのような技ができないかなと試行錯誤していたんですよ。パイルドライバーの態勢からフェースバスターとかも使っていました。
 
連れ1000さん 確かにフェースバスターを使ってましたね。あと京都府立体育館に全日本が来たときはよく観戦しました。
 
──京都府立体育館は今の大阪府立体育会館よりも大箱という印象があります。
 
連れ1000さん デカいです。京都府立体育館は満員で1万人くらいは入りますよ。今はプロレス団体は京都ではKBSホールでしかやらないんですけど。



海外に対する憧れを植え付けてくれた全日本プロレスとハーリー・レイス


 
──ありがとうございます。ここからは連れ1000さんの好きなプロレス団体について語ってください。まずは全日本プロレスです。
 
連れ1000さん 当時(1980年代)の全日本を好きだった人の多くが語るかもしれませんが、全日本は外国人レスラーが魅力的だったんです。ジャイアント馬場さんのルートから来日してくる外国人レスラーが豪華で強豪が多くて好きでした。あとNWA世界ヘビー級王座に憧れましたね。ハーリー・レイスが巻いていた「レイスモデル」が特に好きで、ダンボールで作ったほどです(笑)。
 
──「レイスモデル」はいいですね。1994年に復活したNWA世界ヘビー級王座のデザインは「レイスモデル」だったんですよ。
 
連れ1000さん リック・フレアーが巻いていた「フレアーモデル」が日本では人気がありますが、僕は「レイスモデル」が好きなんです。中央に地球儀が描かれていて、NWAと赤文字で彫られていて、あの時代の権威そのものなんですよ。
 
──確かに!
 
連れ1000さん あと全日本プロレス中継の音楽センスがすごく良くて、「スターウォーズのテーマ曲」や「カクトウギのテーマ」とか。テレビ中継も含めて全日本はパッケージとして子供の頃に自分が世界に触れる体験ができたんですよ。最初に海外に対する憧れを植え付けてくれたのが全日本であり、ハーリー・レイスなんです。
 
──私もレイス、大好きです。
 
連れ1000さん 僕が見出した頃のレイスはベテランで、ニックネームが「ハンサム」「美獣」だったので、なんでやろうなと思ってました(笑)。
 
──レイスもフレアーも世界王者として世界各地でどんな対戦相手でも良さを引き出して、防衛戦を行って防衛をしてきた「負けないチャンピオン」ですね。
 
連れ1000さん 今はチャンピオンがコロコロと変わるじゃないですか。でもレイスやフレアーのような難攻不落なチャンピオンは必要ですよね。強さではなくうまさで、馬場さんしか勝てない、鶴田さんは何回挑戦しても勝てないとか。僕は鶴田さんのファンだったのでNWA世界王座に何度も挑戦して、追いつめても取れなくてめちゃくちゃ悔しかったですから。馬場さんは勝てる、鶴田さんはいい勝負をする、天龍さんだと敗退するという昔の全日本はすごく分かりやすく見れました。


一度プロレスから離れた僕を引き戻してくれた三沢光晴さん
 

──1990年代の全日本はどのようにご覧になってましたか?
 
連れ1000さん あの時代は一番熱かったですね。最初、新日本を好きになってから全日本を見るようになって、ジャンボ鶴田さんのスケールの大きいプロレスにハマってファンになったんですが…一回途切れているんです。
 
──それはどういうことですか?
 
連れ1000さん 当時の鶴田さんを僕はヒーローだと思ってました。でも世間では結構、辛辣に言われていて、あのオーバーリアクションも揶揄されることが多かったんです。新日本はストロングスタイル、全日本はショーマンという風潮もあって、また全日本の場合は一般の人にちょっと説明しづらい部分もあったんです。鶴田さんの痙攣とか。そこがなかなか受け入れらないのもあって挫折してしまって、次第に「プロレスを見ることはカッコ悪い」と思うようになって、プロレスを見なくなったんです。
 
──そうだったんですね。
 
連れ1000さん そこから思春期になって学校ですごくいじめられたんです。父が凄く厳格で、ちゃぶ台をひっくり返すような昔の頑固親父で、僕も精神のバランスが崩れて、学校でもチックが酷くなって、いじめられました。学校では毎日、全員から追いかけられたり、着ている服を脱がされたり、通りすがりにパンチをされるとか…。本当に毎日死にたいなと思っていたある日、深夜に『全日本プロレス中継』で三沢光晴さんが闘っていたんですよ。
 
──それはいつ頃ですか?
 
連れ1000さん 1990年で三沢さんがタイガーマスクの仮面を脱いだ試合を見ましたね(1990年5月14日東京体育館 タイガーマスク&川田利明VS谷津嘉章&サムソン冬木)。後日、三沢さんの6人タッグマッチを見た時に痺れて、僕の暗黒時代の苦しい状況と重ね合わせて見てしまって、そこから三沢さんのファンになりました。
 
──プロレスから離れていた連れ1000さんを引き戻してくれたのは三沢さんだったんですね。
 
連れ1000さん はい。鶴田さんは好きでも世間や外に説明できないというもどかしさを三沢さんが全部解決してくれたんです。誰に見せてもおかしくないプロレスの凄さが伝わる試合を三沢さんは見せ続けてくれた。プロレス的なるものに対する理屈とかじゃなくても命懸けで身体を張っている三沢さんのプロレスに当時の自分に勇気づけてくれました。僕は超世代軍が特に好きでした。学校でも友達と三沢さんの話になるぐらい当時の全日は流行ったんですよ。
 
──三沢さん、川田利明さん、小橋健太さん、菊地毅さんの超世代軍は絶大な人気がありましたよね。
 
連れ1000さん 毎日辛くて死にたい気持ちになっても、三沢さんの試合に出逢ってからは「来週は三沢VSゴディやな」となると続きが気になって死ねないんですよ。
 
──「三沢VSゴディが放送される日まで生きよう」という目標になるんですね。
 
連れ1000さん そうなんですよ。それを繰り返していくに連れて、いろんなことがクリアになっていったんです。生きるためにずっと夢中になって三沢さんの試合を追ってました。
 
──やっぱり三沢さんは凄いですね。
 
連れ1000さん 僕は三沢さんが全日本を退団してプロレスリングノアを旗揚げしてからも三沢さんとノアを応援しています。三沢さんがいなかったら僕はどうなっていたのだろうと思ってるので、未だにあの時の恩返しと言いますか、三沢さんへの感謝の想いはありますね。


闘龍門は衝撃だった
 
──ありがとうございます。では続いて好きなプロレス団体・闘龍門について語ってください。
 
連れ1000さん 闘龍門は衝撃でした。神戸が拠点で、僕が京都に住んでいるので行きやすいんですよ。特にCIMAさんは痺れました。
 
──やっぱり華がありますからね。
 
連れ1000さん クレイジーMAXとかカッコよかったですよ。チキンジョージで定期戦をやっていくよく観戦してました。チキンジョージに行ってから、リングソウルで飲みに行くのが闘龍門観戦の定番でしたね。闘龍門がプロレスの時代を変えたんじゃないかと思いますね。
 
──3ウェイの6人タッグとか革新的な試合も多かったですよね。
 
連れ1000さん チキンジョージという会場はライブハウスじゃないですか。今でこそ色々な会場で興行を行いますけど、ライブハウスでプロレスというのは新鮮な印象を受けました。全日本を中心に見ていた僕からするとプロレスを見る幅を広げてくれて、足りないものを埋めてくれたような気がします。
 

プロレスリング・ノアは天命として見届けている


──ありがとうございます。そして連れ1000さんの好きなプロレス団体であるプロレスリングノアについて語ってください。
 
連れ1000さん ノアは三沢さんの流れなので追い続けなければならない団体です。ここは理屈じゃないですね。これは持論ですけど、全日本時代からの三沢さんファンがそのままノアに移ってファンであり続けた人と、ノアになってからファンになった人とはまた違うんですよ。一概にノアファンといっても好きになった時代によってノアに対する感じ方が随分違うように思います。
 
──おっしゃっていることはよく分かります。
 
連れ1000さん ノアになってから三沢さんが神格化され過ぎてるなと感じる時があります。全日本だと三沢さんや小橋さんが駆け上がっていくところを見れたんですけど、ノアになると三沢さんと小橋さんは神になってしまったというか。
 
──団体のシンボルになった感じはしますよね。
 
連れ1000さん プロレスリングノアは今でも一番好きなプロレス団体です。今はそうでもないですけど、一時期「三沢さんや小橋さんを神格化するノアファンは怖い」と思われたりする時代もあって、よりノアを広めるためにもそういう認識は変えたいなと思ってて。そういうのも含めて天命として見届けているような感じですよ。
 
──2000年に三沢さんがノアを旗揚げしてから、2004年と2005年に東京ドーム大会を進出する頃は特に全盛期だったのかなと思います。この時期のノアについてどのようにご覧になってましたか?
 
連れ1000さん ぼくの中でノアの前期は小橋さんと秋山準さん、後期は潮崎豪さんなんです。最近だと拳王さんも好きですね。東京ドーム大会をやった頃がノアの絶頂時代ですけど、全日本の延長線のような感じがありました。三沢さん、小橋さん、秋山さんがバチバチやってもやっぱり全日本なんですよ。2007年の小橋さんが腎臓ガンから帰ってきた頃がノアにとって分岐点になっているような気がしていて、丸藤正道さんがノアの舵取りをしていた頃からが全日本ではなく、今に続くノアらしさなのかなと思います。
 
──その時期になると全日本の影はあまり見えなくなるんですね。
 
連れ1000さん 三沢さんが亡くなってから丸藤さん、杉浦貴さんがノアの中心に立って、そして潮崎さんや鈴木鼓太郎さんは完全なるノア生まれで、特に潮崎さんは三沢さんの最後のパートナーであり、三沢さんの事故が起こった最後の試合にも立ち会ってました。潮崎さんのファイトスタイルから三沢さんや小橋さんの技や息吹を感じますし、ずっと追い続けていきたいと思える存在ですね。
 
(第1回終了)