恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が62回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。
ジャスト日本です。
今回は特別企画として、さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開する場を立ち上げました。それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。
今回はプロレスラー・棚橋弘至選手と作家・木村光一さんによる激論対談をお送りします。
(写真は御本人提供です)
棚橋弘至
1976年11月13日岐阜県生まれ。立命館大学法学部時代にレスリングを始め、1999年に新日本プロレスに入門。同年10月、真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー。2003年に初代U-30無差別級王者となり、その後2006年に団体最高峰のベルト、IWGPヘビー級王座を初戴冠。第56代IWGPヘビー級王者時代には、当時の“歴代最多防衛記録”である“V11”を達成した。プロレスラーとして活動する一方で、執筆のほか、テレビ番組等に多数出演。2016年にはベスト・ファーザー賞を受賞、2018年には映画『パパはわるものチャンピオン』で映画初主演など、プロレス界以外でも活躍している。「100年に一人の逸材」と呼ばれるプロレス界のエースである。
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「プロレス界の一年の計はイッテンヨンにあり!!」
新日本プロレス2024年1月4日・東京ドーム大会
新日本プロレス「WRESTLE KINGDOM 18 in 東京ドーム」 特設サイト
木村光一
1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。
企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセ
木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)がいよいよ発売!
YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談
棚橋選手は長年、所属する新日本プロレスだけではなくプロレス界のエースとして活躍してきたプロレスラー。木村光一さんはアントニオ猪木さんに関する数々の書籍を世に出し、猪木さんのプロレス論や格闘技論に最も迫った作家でした。
なぜこの2人が対談することになったのか。そのきっかけとなった出来事がありまして、詳しくは私のnoteで経緯や諸々をまとめております。こちらをご覧いただければありがたいです。私と棚橋選手、私と木村さんについてもこちらの記事で説明させていただいています。
私は棚橋選手と木村さん双方と繫がりがあり、立場やお気持ちも理解できました。だからSNS上で妙にザワついてしまった状況があり、「何とか打開策はないのか」と考えたりしてました。
そんなある日、棚橋選手とやり取りをしている中でこのようなことを言われたのです。
「木村さんと、直接、話したいですね」
棚橋選手はシンプルに木村さんという人物に興味を持ったのかもしれません。これまでまったく接点がなかった棚橋選手と木村さんが、新日本プロレスや猪木さんというキーワードを元に言葉を交わす場として今回、僭越ながら私のブログ上で対談することになりました。
私にはこの2人に対談していただくことによって棚橋選手にも、木村さんにも、そしてプロレス界にも少しでも恩返しする機会になればいいなという想いがありました。
そして、棚橋選手と木村さんの対談は、こちらの5つのテーマに絞って行いました。ちなみに私は進行役としてこの対談に立ち会いました。
1.映画「アントニオ猪木をさがして」について
2.棚橋選手が新日本のエースとして歩んできた生き方
3.新日本道場にある猪木さんのパネルを外した理由とパネルを戻した本当の理由
4.棚橋選手と木村さんが考える新日イズムと猪木イズムとストロングスタイル
5.これからのプロレスについて
これは永久保存版です!プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた孤高の闘魂作家による対談という名のシングルマッチはどのように決着したのか!?
最後まで見逃せない対談、是非ご覧ください!
プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 前編「逸材VS闘魂作家」
プロレス人間交差点
棚橋弘至☓木村光一
後編「神の悪戯」
猪木パネルを外した理由「誰かがそれをやらねば…」
「猪木ファンと棚橋選手、あるいは新日本プロレスとの溝を決定づけた出来事」(木村さん)
「パネルを外すという行為によって『新日本は次のステップに進むんだぞ』と世間にアピールしたかった」(棚橋選手)
──では次の話題に移ります。新日本道場にあった猪木パネルを外した理由と戻した理由についてです。こちらに関しては猪木パネルを外した棚橋選手がさまざまな媒体のインタビューで理由を語っておられますが、個人的にはその説明があまり足りてなかったように感じました。
木村さん 猪木ファンと棚橋選手、あるいは新日本プロレスとの溝を決定づけた出来事でしたから、私もその真意をきちんと伺いたいと思っていました。
棚橋選手 今でもその件に関しては色々と言われてます。「あの野郎、猪木さんのパネルを外しやがって!」と。でも、あの当時、新日本の誰かがそれをやらなければいけなかったんです。
木村さん といいますと?
棚橋選手 パネルを外したのは猪木さんがIGFという別団体を旗揚げしたからです。そのとき、僕は猪木さんから「俺も好き勝手やってんだからいつまでも飾っておくなよ」と言われたような気がして。決して猪木さんが憎いとかじゃなくて、むしろそれが筋だし礼儀だと思ったんです。あとは、それをすることによって、新日本が猪木さんとは別の道でやっていくんだという意思表示でもありました。パネルを外すという行為によって「新日本は次のステップに進むんだぞ」と世間にアピールしたかったんです。
猪木パネルを戻した理由「王の帰還」
「帰還した王が戻る場所はやはり新日本プロレスの道場しかない。『ここに戻さないでどこに戻すんですか!?』というのが僕の偽らざる心境」(棚橋選手)
「このままでは猪木さんの帰る場所がないですね。だとすれば、過去の経緯はどうあれ、あのパネルが飾られるのに相応しい場所はたしかに新日本プロレスの道場しかありません」(木村さん)
──木村さんはどう思われていたんですか?
木村さん 私は棚橋選手がパネルを外したという行為については、今おっしゃったことが真意なら正当だったと思います。猪木さんは新日本に対するアンチテーゼとしてIGFを旗揚げし、はっきり対立姿勢を示したのですから。むしろ、それに呼応しなければ猪木さんのいう「プロレスは闘いだ」という根本原則に反しますし嘘になります。そこまでは納得できました。しかし、『アントニオ猪木をさがして』の中で、その棚橋選手がパネルを道場の壁に戻すシーンはあまりにも唐突で違和感がありました。
棚橋選手 たしかにパネルを戻したのはあの映画の演出の一部です。でも、嘘のない僕の正直な想いでもありました。
木村さん といいますと?
棚橋選手 2020年からコロナ禍になって、プロレスも含めてあらゆる娯楽やイベントで集客するジャンルはどん底まで落ち込みました。そこからもう一度這い上がって盛り上げていこうという矢先に猪木さんが亡くなられて…。都合のいい話ですけど、「猪木さん、もう一度、力を貸してください」と、素直にそういう気持ちになれたんです。
──今、新日本道場には再びアントニオ猪木のパネルが飾られ、その前で選手は練習をされています。何か変化はありましたか?
棚橋選手 僕より猪木さんと関わりがあった上の世代の人は、道場に入るとピリッとしてますね。猪木さんに見られている感覚があるから練習にも熱が入ります。あとは新日本にいる新弟子の中には15歳の子もいるんですが、猪木さんのことは全然知らないと思います。そういう若い世代にもあの猪木さんのパネルから何かしら感じてほしいと僕は願っています。
木村さん 映画をきっかけにして、棚橋選手も心の整理がついたんですね。
棚橋選手 猪木さんは新日本プロレスを旗揚げして、激しい戦いで1980年代にプロレスブームを巻き起こして日本プロレス界を牽引するメジャー団体に成長させ、その一方で異種格闘技戦や総合格闘技の舞台で格闘技界全体を盛り上げ、国政にも出て参議院議員になって、あらゆることをやり尽くした上で自らが創設した新日本に帰ってきた。このシチュエーションはプロレスの領土をむちゃくちゃ広げた王が元にいた場所に凱旋した「王の帰還」のドラマのエンディングだと僕は考えたんです。そしてその帰還した王が戻る場所はやはり新日本プロレスの道場しかない。「ここに戻さないでどこに戻すんですか!?」というのが僕の偽らざる心境でした。
木村さん 「王の帰還」とは言い得て妙です。プロレス界も格闘技界も未だにまとまらず全体を統括する組織もできていない。そうなると棚橋選手がおっしゃった通り、このままでは猪木さんの帰る場所がないですね。だとすれば、過去の経緯はどうあれ、あのパネルが飾られるのに相応しい場所はたしかに新日本プロレスの道場しかありません。実は、私が猪木事務所のブレーンをやっていた頃、格闘技アリーナ(猪木記念館)を作ろうというプランがあって、その企画書を作成したことがありました。結局、実現には至らなかったんですけど、そこにはプロレスや格闘技の専用会場のほか、あらゆる格闘技や団体において貢献のあった選手たちのパネルや記念品を飾る記念館も併設し、後世にその功績を伝えていこうという夢のあるプランでした。
新日本が長年温めている常設会場計画
「僕が新日本の社長になったら『イノキアリーナ』を作ります」(棚橋選手)
──それはプロレス界や格闘技界のために今後も挑んでほしい素晴らしいプランです。
棚橋選手 新日本にはずっと温めているアイデアがあるんです。東京都内に2000~4000人くらいのキャパの後楽園ホールに代わるような常設会場を作りたいという夢があるんですよ。もし実現したら、僕はその施設を「イノキアリーナ」と名付けますよ。そうすれば大きな話題になりますし、世代を超えてプロレスファンが集える場にもなる。そしてプロレスが未来永劫、続いていくのならこんなにいいことはないですよ。
──その「イノキアリーナ」に猪木さんの資料や記念品なども収蔵して公開すれば、猪木さんの多岐にわたる功績もきちんと後世に伝えることができますね。
棚橋選手 いいですね!僕が新日本の社長になったら「イノキアリーナ」を作ります。
木村さん それは公約ですね。その言葉、忘れませんよ(笑)。
──話は少し戻ります。さきほど棚橋選手が猪木パネルを外した理由として、猪木さんのIGF旗揚げを上げていました。棚橋選手はIGFについてはどのようにご覧になってましたか?
棚橋選手 IGFは総合格闘技でもプロレスでもないという印象でした。有名な選手も出ているし、きちんと技術を持っている本物の選手もいるのですが、もし僕がひとりのプロレスファンだったとしたら乗れなかったと思います。さすがの猪木さんもIGF時代は迷走していたのではないでしょうか。
木村さんの猪木論
「猪木さんが考える理想のプロレスとは格闘技術をベースに緊張感を生み出しながら観客を魅了するプロレスだった」(木村さん)
──猪木さんでも混沌が続いたIGFをコントロールすることはできなかったのかもしれませんね。木村さんはIGFについてどのように感じてましたか?
木村さん うーん…。要するに猪木さんが考える理想のプロレスとは格闘技術をベースに緊張感を生み出しながら観客を魅了するプロレスだったはずなんです。つまりプロレスという大枠の中にどれだけリアルな要素を詰め込めるのかという。猪木さんは現役時代、プロレスと格闘技の両方でそれができてしまった稀有なレスラーでした。プロレスに格闘技を引きずり込み、異種格闘技戦もハイレベルなプロレスとして成立させたのは猪木さんの最大の功績のひとつであり、誰もできなかった離れ業なんです。猪木さんとしてはそれをIGFのリングで誰かに再現してほしかったんだと思います。しかし、残念ながらあまりうまくいかなかった。そこで猪木さんは苦肉の策として格闘家たちにプロレスをやらせる方向に持って行こうと考えたのでしょうが、やっぱりプロレスはそんな簡単なものじゃなかった。と、そういうことだったのではなかったかと。
──同感です。
木村さん 猪木さんが力道山に弟子入りした当時は、まだプロレスというジャンルが確立しておらず、先輩レスラーも格闘技の精鋭揃いでした。ズラリと幕内力士が揃っていて、他にも柔道の猛者、高専柔道やレスリングの実力者もいて、凄くスキルの高い格闘家が大勢いたわけです。そういう環境の中で猪木さんはプロレスの基本としてさまざまな格闘技の技術を叩き込まれた。だから猪木さんがよく言う「俺はプロレスと格闘技に分けたことがない」というのは、そもそも猪木さんの中で最初からプロレスと格闘技は同じものだったからなんですよ。
棚橋選手 なるほど。
木村さん その考え方をもとに猪木さんはずっとプロレスをやってきたのですが、時代と共にプロレスが変化してギャップが生じていった。今回、僕は『格闘家アントニオ猪木─ファイティングアーツを極めた男』と言う本を上梓させていただいたのですが、いちばん伝えたかったのがその点なんです。もしかすると、次の時代のプロレスのヒントの一つになるんじゃないかと。周知の通り、猪木さんはプロレスや格闘技に対して具体的なことはあまり語りたがらない人でしたが、幸いなことに私はお話を伺うことができましたので、それをもう一度整理し直して、「アントニオ猪木のプロレスとは? 格闘技とは何だったのか?」あるいは「アントニオ猪木はそもそも格闘家だったのか、プロレスラーだったのか」といったテーマで深掘りさせていただきました。
棚橋選手 猪木さんはプロレスラーだったのか、格闘家だったのか…。猪木さんはファイターですよ。炎のファイターだったんじゃないですか。
木村さん この本のサブタイトルは“ファイティングアーツを極めた男”。猪木さんにとって、プロレスも格闘技もファイティングアーツだったんです。
棚橋選手 格闘芸術!
木村さん 猪木さんにすれば、何をやってもいいけど、やるなら芸術と呼ばれるくらいの域まで高めてみろよと言いたかったんだと思ってます。
──芸術にまで昇華させられれば表現方法は問わないと。
木村さん 猪木さんも実はスタイルに関してはそこまでこだわりはなかったように思います。ただ猪木さんが身につけたプロレスのベースが格闘技だったので、志向としては格闘技寄りになりがちでしたが、ご本人はあまりジャンル分けに興味はなかったし、そもそも自分が若い頃に修得した技術に関しても「これがレスリング」「これがCACC」「これが柔術」「これが高専柔道」とか整理されていたわけではなかった。全部プロレスとして呑み込んで咀嚼してしまったのがアントニオ猪木なんですよ。したがって格闘技が上位概念だという考えもない。すべてをプロレスと捉えているからアメリカンプロレスだって誰よりも上手かった。
棚橋選手 タイガー服部さん(元・新日本プロレスレフェリー)も「アントニオ猪木はアメリカンプロレスだよ」と言っていました。シチュエーションを作り上げて正義と悪の対立構造をはっきりさせ、前哨戦で盛り上げて状況を整えてから決着戦という勧善懲悪の世界観をきっちり作り上げていたということですね。
木村さん 猪木さんはただ漠然と試合をするのではなく、その2人が闘うしかないというシチュエーションを作ることを重視してました。だから猪木さんのプロレスは感情移入できてなおかつ緊張感と爆発力があったんですよ。
棚橋選手 試合前のセットアップをするか、しないかでファンの方の試合への集中力や期待感も変わってきます。激しい過酷な試合内容で盛り上げた全日本の四天王プロレスとの対比にもなりますよね。試合で凄いことをして魅せるのも大事ですが、あらかじめ試合前に闘う必然性をはっきり打ち出すことを猪木さんは一番大事にしていたんですね。「お前は怒っているのか!?」と言っていたのも「怒っているから闘うんじゃないのか」という問いかけだった。全部、繋がるような気がします。
棚橋選手にとって新日本イズム、猪木イズムとは?
──ここからはお二人が考える新日イズム、猪木イズム、ストロングスタイルについて、持論をお聞きしたいです。木村さんは先ほど(前編 参照)新日イズムは「どんな手を使ってでも客を入れてやるという意気込み」、猪木イズムは「“できない”“やらない”は絶対に言わない決意」とおっしゃってましたが、棚橋選手が考える新日イズムとは何でしょうか?
棚橋選手 僕はプロレスというジャンルは昔も今もマイノリティーだとずっと思っています。なので、「もっと有名になってやる」「もっと強くなってやる」という反骨心が新日本プロレスと新日本プロレスのレスラーには一貫してベースにあったんじゃないでしょうか。世間や物事に対する反骨心が新日イズム。「こんな面白いものを何でみんな知らないんだよ!もっと知ってくれよ!」という想いなんじゃないかなと。
──棚橋選手はマイノリティーであるプロレスをもっと世の中に広めるために全力でプロモーション活動を長年、実践されています。そこにはそういう新日イズムが流れていたわけですね。
棚橋選手 猪木さんが言っていたように、プロレスというジャンルに市民権を得たいんで
す。
──では棚橋選手が考える猪木イズムとは何ですか?
棚橋選手 僕にとっての猪木イズムは「見る前に飛んでしまえ」「とにかくなんでもやってしまえ」です。結果を気にするなと。今の時代は保険をかけて行動するじゃないですか。みんなが忘れてしまっている「成功するかどうか分からないけど、やってしまえ」というのが猪木イズムなのかなと思います。だってそっちの方がワクワクするし、どう考えても面白いんですよ。結果が失敗に終わっても猪木さんは「別に死ぬわけじゃない」位の感覚だったんじゃないですか。
木村さん そうですね。チャレンジの結果、数十億の借金を背負ってどん底に落ちても何度だって這い上がった人ですから。
「ストロングスタイルはただの言葉です。企業のイメージ戦略だと思っています」(棚橋選手)
──では、棚橋選手はストロングスタイルについてはどのように考えていますか?
棚橋選手 ストロングスタイルはただの言葉です。企業のイメージ戦略だと思ってます。ストロングという強い響きにスタイルという言葉をくっつけるとスタイリッシュでかっこいい。実態は掴めないけど、何となく強そうというニュアンスが伝わるじゃないですか。散々「棚橋の試合はストロングスタイルじゃない」と言われてきましたけど、ストロングスタイルという言葉そのものが曖昧で抽象的でしかないんです。僕は以前、猪木さんと対談した時に「ストロングスタイルとは何ですか?」と聞いたことがあって、「そんなものは知らねぇよ」と言われました。「そういうもんですよね」と思いましたよ。
──ちなみにプロレスライターの流智美さんが『詳説!新日イズム』(集英社)という書籍の中で、「ストロングスタイルとは新日本プロレスは本物・本流であり、全日本プロレスはショーマンシップが主体の見世物プロレスとファンを洗脳するために新日本関係者によって作られた和製英語」と綴っていて、ショーマンスタイルの対義語としてストロングスタイルという言葉が生まれたのだと述べています。
棚橋選手 なるほど。やっぱりイメージ戦略なんですよ。新日本は企業イメージの持っていき方が抜群にうまかったんでしょうね。
「猪木さんから直接伺った言葉ですが『カール・ゴッチをプロレスの神様にしたのは俺だ』と、はっきりそう言っていました」(木村さん)
──木村さんはストロングスタイルについてどのようにお考えですか?
木村さん 旗揚げ当時の新日本には全く売りがなかったわけで、いい外国人レスラーも呼べないし、そして猪木さんがやろうとしていたもっとスポーツ寄りのプロレスも時代が早すぎて観客に受け入れられなかった。じゃあどうやって客を呼ぶか。そのために無冠の帝王と呼ばれて誰もがその強さを認めているカール・ゴッチを神棚に祀ることで新日本プロレスをブランド化しようとしたんです。これは猪木さんから直接伺った言葉ですが「カール・ゴッチをプロレスの神様にしたのは俺だ」と、はっきりそう言っていましたから。新日本の道場をゴッチさんの色で染めたのもそのため。意図的だったんじゃないかと私は見ています。その妥協なきゴッチ流プロレスをイメージさせるのにもストロングスタイルというコピーはうってつけだったんだと思います。
棚橋選手 ストロングスタイルはレスラーのためというよりファンに対する救済処置だったような気もします。「新日本はストロングスタイル」と言えば、ジャイアント馬場さんや全日本プロレスファンとのプロレス論争でも論破しやすいわけで。その言葉が全日本との対比として生まれたのなら、猪木さんと馬場さんとの関係もずっと続いているということなんですよ。
棚橋選手と木村さんが考えるこれからのプロレスとは?
──ストロングスタイルという言葉はファンからすると守り神のような心強いワードだったのかもしれません。では次にお二人にはこれからのプロレスについて語っていただいてもよろしいですか? まずは棚橋選手からお願いします。
棚橋選手 僕が新日本のエースだった時に、団体がV字回復と言われて、みんなに「ありがとう」と言われましたけど、実は僕のレスラー人生は一度、そこで終結していたんです。「もうやり切ったな」という想いがありました。でもコロナ禍があって、せっかくみんなで盛り上げてきたプロレス人気が下がってしまったので、幸いまだ身体を動くので、もう一回コロナ前以上にみんながプロレスを楽しめる状況を作って役目を終えたいというのが今、僕にとって一番のモチベーションです。
──プロレス界で成し遂げたいことは?
棚橋選手 先ほどちょっと触れましたけど常設会場を作ることですね。そういう突飛なことをやって、最後に僕なりに猪木イズムと決着をつけて終わりたい。僕は猪木さんから一字もらっています。名付けというのは一種の呪いですから。(棚橋弘至選手の至という字はアントニオ猪木さんの本名である猪木寛至が由来だと言われている)
──木村さんはこれからのプロレスについて何か意見はありますか?
木村さん 正直、現状のプロレス界はネガティブな感じがしてなりません。プロレス団体がファンの囲い込みに躍起になっているというか。そんなことをやっていては外に広がりませんし、とくに私のように何十年もプロレスを見てきたファンは、なによりそういう囲い込みを嫌います。プロレス界は一丸となって、もっと外に、世間に対してオープンに発信を行っていった方がプロレスというビジネスのためにもなると思います。そして、昔はプロレスマスコミが色々なことをリードしながら共にキャラクターを作り上げていたと思うんですけど、今はSNSでレスラーも自分から発信できる時代ですから、もっと自己プロデュース力を磨いて自己主張してほしい。プロレス団体も管理するばかりじゃなく、もっと個々のレスラーやマスコミに代わってプロレスに関する情報を積極的に発信しているファンを後押しする環境を整備してほしいですね。
棚橋選手 「プロレスは時代の写し鏡」とはよく言ったもので、僕もチャラ男という言葉が全盛のとき、うまく自分のキャラクターにハマったと思ってます。
木村さん 好みは分かれるところですが、棚橋選手は時代の空気を絶妙に掴んで自分のものにしたいちばんの成功例だったんじゃないでしょうか。それともう一つだけ言わせてください。2000年代半ば以降、新日本を筆頭に日本のプロレス団体の多くがWWEのような方向性を目指して今に至っていると思われます。しかし、私はWWE的なやり方は日本のプロレスには馴染まないとずっと感じています。それについては猪木さんも同意見で、根本的に西洋人の鍛えられた肉体美や豊かな表現力と勝負しても勝てない、日本のプロレスは独自の方向性を目指すべきだと語っていました。
棚橋選手と木村さんにとってプロレスとは?
──棚橋選手は今の木村さんの言葉をどのように受け止めましたか?
棚橋選手 僕はプロレスで盛り上がる状況というのはタイトルマッチ、世代闘争、団体対抗戦と限られたものしかないので、だからそういう自然発生的に生まれる選手の感情を、対戦カードに落とし込んでいく方が、日本のプロレスには合ってるんじゃないかなとずっと思ってます。盛り上がった試合が見たいというのはもちろんあると思いますけど、それ以前に「応援している選手に勝ってほしい」「この試合に負けてほしくない」という勝負論がないと駄目で、「なんで俺が勝ちたいのか」「こいつには負けたくない」という想いとか、闘う理由を後付けするのではなく、自然に理解してもらえたらプロレスがもっと盛り上がるし、もっと外に伝わるんじゃないかなと思います。世代闘争や団体対抗戦は、世間に置き換えると会社に嫌な上司がいたり、競合相手には負けたくないというリアルな実感にも通じて落とし込みやすい。自己投影や感情移入がしやすいところもプロレスの魅力なんです。
木村さん 棚橋選手は、かつて新日本プロレスが発散していた危険な匂いについてはどう思われますか?
棚橋選手 僕は選手の感情が極みに達した結果、図らずも不穏試合になるというケースもプロレスには必要だと思ってます。
木村さん それを聞いて胸のつかえがおりました。ありがとうございます。
──ではここで棚橋選手と木村さんにお聞きします。あなたにとってプロレスとは何ですか?まずは棚橋選手からです。
棚橋選手 プロレスは生き方です。それはずっと言い続けています。やられてもやられても歯を食いしばって耐えて、チャンスを狙って足掻き続けて反撃するという図式があって、やられてばかりじゃなくて、攻めているばかりじゃない。いいこともあれば悪いことがあるのがプロレス。プロレスは人生と言ってしまうと、プロレスラー以降の人生がなくなってしまうような気がするので、プロレスは生き方なんです。
──では木村さん、お願いします。
木村さん プロレスとは可能性じゃないでしょうか。猪木イズムもそうですけど、プロレスには、やろうと思えば不可能はないんですよ。「やるのか、やらないのか」だけで。やろうと思ったことができるのがプロレスで、ファンはそれを見てカタルシスを味わってきた。棚橋選手もおっしゃっていた挑戦する気持ちですね。「絶対に俺はこれを成し遂げるんだ」という想いをリングの上で表現してみせることが、いつの時代でもプロレスの醍醐味だったのではないでしょうか。その際、表現方法は個々に見つければいい。強さを見せるのか、華やかさを見せるのか。その覚悟と可能性を見せるのがプロレスラーの仕事なのではないかと私は思っています。
──棚橋選手は木村さんの言葉を聞いてどのように感じましたか?
棚橋選手 肝に免じておきます。コロナ禍になってプロレスは衣食住から必要な職業ではないという烙印を押された。でも人が生きていく上での衣食住には関係ないけど、エネルギーをもらえたり、プロレスからしか得られない栄養素はきっとあると思っています。僕がファン時代にもらった原体験があるわけで、これからも「プロレスを見て人生が楽しくなった。元気や勇気をもらえた」僕みたいな少年がひとりでも増えるようにこれからも頑張りたいですね。
2人の刺激的対談、決着!
「僕は古参のファンの皆さんにも現在進行形のプロレスに戻ってきてほしい」(棚橋選手)
「今回の対談で棚橋選手の想いは十分理解できました」(木村さん)
──そろそろ急遽実現したこの対談もエンディングの時間となりました。棚橋選手、率直にこの対談、いかがでしたか?
棚橋選手 楽しかったです。木村さんのお話を伺って、いろんなことが腑に落ちましたね。そして、これは本音として言わせてください。僕は古参のファンの皆さんにも現在進行形のプロレスに戻ってきてほしい。あの熱狂したプロレスの原風景を知っている皆さんにもう一度今のプロレスを盛り上げてもらえたら、プロレスはもっと世間に届くはず。そう思っているんです。
木村さん 私も今回の対談で棚橋選手の想いは十分理解できました。発端こそ棚橋選手のインタビュー記事に対する私の怒りでしたが、それがこんな思わぬ形の出会いになり、ここまで深く、お互いに腹を割って話し合うことができて本当に良かったと思ってます。棚橋選手、ジャスト日本さん、素晴らしい機会を作っていただき、ありがとうございました!
棚橋選手 こちらこそ、ありがとうございました!
──棚橋選手、木村さん、ありがとうございました!
木村さん いや、今、ふと、もしかするとこれって天国の猪木さんのイタズラ? と思いました(笑)。
──ハハハ、そうかもしれませんね。さて、猪木さんと新日本という名のもとに繋がった棚橋選手と木村さんの緊急対談は以上となります。本当にありがとうございました!お二人のご活躍を心からお祈りしております。
(プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一・完/ 後編終了)
ジャスト日本です。
今回は特別企画として、さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開する場を立ち上げました。それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。
今回はプロレスラー・棚橋弘至選手と作家・木村光一さんによる激論対談をお送りします。
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1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。
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木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)がいよいよ発売!
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棚橋選手は長年、所属する新日本プロレスだけではなくプロレス界のエースとして活躍してきたプロレスラー。木村光一さんはアントニオ猪木さんに関する数々の書籍を世に出し、猪木さんのプロレス論や格闘技論に最も迫った作家でした。
なぜこの2人が対談することになったのか。そのきっかけとなった出来事がありまして、詳しくは私のnoteで経緯や諸々をまとめております。こちらをご覧いただければありがたいです。私と棚橋選手、私と木村さんについてもこちらの記事で説明させていただいています。
私は棚橋選手と木村さん双方と繫がりがあり、立場やお気持ちも理解できました。だからSNS上で妙にザワついてしまった状況があり、「何とか打開策はないのか」と考えたりしてました。
そんなある日、棚橋選手とやり取りをしている中でこのようなことを言われたのです。
「木村さんと、直接、話したいですね」
棚橋選手はシンプルに木村さんという人物に興味を持ったのかもしれません。これまでまったく接点がなかった棚橋選手と木村さんが、新日本プロレスや猪木さんというキーワードを元に言葉を交わす場として今回、僭越ながら私のブログ上で対談することになりました。
私にはこの2人に対談していただくことによって棚橋選手にも、木村さんにも、そしてプロレス界にも少しでも恩返しする機会になればいいなという想いがありました。
そして、棚橋選手と木村さんの対談は、こちらの5つのテーマに絞って行いました。ちなみに私は進行役としてこの対談に立ち会いました。
1.映画「アントニオ猪木をさがして」について
2.棚橋選手が新日本のエースとして歩んできた生き方
3.新日本道場にある猪木さんのパネルを外した理由とパネルを戻した本当の理由
4.棚橋選手と木村さんが考える新日イズムと猪木イズムとストロングスタイル
5.これからのプロレスについて
これは永久保存版です!プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた闘魂作家による対談という名のシングルマッチ、いざゴング!
プロレス人間交差点
棚橋弘至☓木村光一
前編「逸材VS闘魂作家」
「猪木さんの功績をこの世に残したいという多くの人たちの想いが映画という形に結実したのはベストだった」(棚橋選手)
──棚橋選手、木村さん、今回の「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!プロレスの今と過去をテーマに、未来に繋がり、実りのある対談になればと考えています。よろしくお願いいたします!
棚橋選手 よろしくお願いいたします!
木村さん よろしくお願いいたします!
──まずは10月6日に映画『アントニオ猪木をさがして』が全国公開され、賛否両論の声があがりました。「いまを生きる中高年に改めて、『おめぇはそれでいいのか?』と覚悟を突きつける人生の応援歌」「猪木ビギナーにやさしいつくりの映画」「めちゃくちゃ元気をもらった」といった高評価がある一方、「観る価値なし」「猪木の魅力が伝わってこない」「何度席を立とうとしたか。観る側に何を伝えたかったのかサッパリ分からん」という厳しい意見もありました。そこでお聞きします。まず、出演者として関わった棚橋選手はこの映画についてどのように捉えていますか?
棚橋選手 映画化するという話を聞いた時は「この手があったのか」と思いましたね。スペシャルDVDを制作するとかドキュメンタリー番組を放映するとか色々な打ち出し方がある中で、かつて猪木さんが言っていた「環状線理論」(業界人気を上げるためには環状線の内側がファンだとすれば、環状線の外側にいるファンじゃない人たちを引き込むことが必要だという猪木特有の理論)で考えるとプロレス界の外側に届けることができる映画という手段がよかったかなと思います。
僕はアントニオ猪木VSビッグバン・ベイダー(新日本プロレス/1996年1月4日東京ドーム大会)を見て、以前から好きだった猪木さんに心をあらためて鷲掴みにされて大好きになったんです。猪木さんの試合をオンタイムで見ていたファンの皆さんにはもう一度その素晴らしさを思い出してほしかったし、猪木さんを知らないファンの皆さんにも知ってもらいたかった。ですので猪木さんの功績をこの世に残したいという多くの人たちの想いが映画という形に結実したのはベストだったと思ってます。
──木村さんは映画『アントニオ猪木をさがして』をご覧になってどのように感じましたか?
木村さん 今、猪木ファンの間でも意見が分かれているようですが、率直に言って私にとってはすごく気持ちのいい映画でした。なにより、イベントが大好きだった猪木さんの一周忌に映画を公開していただけたことに対し、いちファンとして感謝しかありません。あまりマニアックに作り込みすぎても一般のお客さんは疎外感を味わうだけになってしまいます。再現ドラマのパートも、アントニオ猪木を理解するとき、やっぱりその時代背景もひっくるめて表現しないと僕ら猪木現役世代が味わった熱い思いは若い人たちには伝わりません。したがって1人の猪木ファンの人生ドラマとしてそれを表現するのはありだなと思いました。
棚橋選手 ありがとうございます。この映画を制作したプロデューサーや監督は木村さんが指摘した部分をかなり意識されてました。ドラマパートは昔からの猪木ファンの方々に「あの頃、よく家族や友達とプロレスの話題で盛り上がったなぁ」という記憶を呼び起こす効果があったんじゃないですか。
木村さん 家族間のテレビのチャンネルの取り合いのエピソードなどはまさにあの時代ならでは。好きな動画をいつでも自由に楽しめる今の若い人たちには想像もつかないことでしょう。
棚橋選手 しかも金曜夜8時に放送されていた『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日系)の裏番組も強力だったとか。(1970~1980年代、『ワールドプロレスリング』は日本テレビ系『太陽にほえろ!』、TBS系『3年B組金八先生』といった国民的人気番組と熾烈な視聴率競争を繰り広げていた)
木村さん ビデオデッキは高嶺の花で、一般家庭にようやく普及し始めたのが80年代半ば。ですからそれまではプロレス中継を見る私たちも一発勝負だったんですよ。だから見る側の集中力も高かったし、没入感がまったく違っていましたね。
棚橋選手 没入感!いいキーワードですね。まだエンターテインメントの選択肢が少ない時代、熱中せざるを得ないという状況でもあったわけですね。
木村さん 当時はプロ野球全盛の時代で、大人も子供もみんな野球に熱中していました。ゴールデンタイムのテレビは毎日、巨人戦。おまけに金曜8時は人気番組の勢揃い。でも私のようにプロ野球には乗れないタイプもいて、その人たちのためにプロレスはあるという感じもありました。
棚橋選手 なるほど、迷える人たちをプロレスが「俺たちが受け止めてやる!」と包み込んだという…プロレスは異端児たちの受け皿だったわけですか。まさに受けの美学ですね。
「棚橋選手、あの記事は本音ですか?炎上を狙ったものですか?」(木村さん)
──棚橋選手は映画『アントニオ猪木をさがして』のプロモーションでかなりの数の媒体でインタビューを受けていました。実はその中の1つの記事が今回のこの対談のきっかけになったわけですが…。
木村さん それについて、一点、棚橋選手に確かめたいことがあります。よろしいでしょうか?
棚橋選手 はい。
木村 私は今のプロレスやレスラーに対して批判的なことを一切書かないことをモットーにしています。それを書いたところで何も新しいものは生まれないし、プロレスファンの世代間の溝が深まるだけ。そんな不毛な衝突を煽るようなことはやりたくないんですよ。でも、『アントニオ猪木をさがして』に関するある記事を読んで違和感を感じ、「これは違うんじゃないか」とX(Twitter)に投稿しました。棚橋選手が本当にそういう話をしたのかどうなのか、あるいはどのように発言が切り取られたのか、何らかの書き手の意図があったのか。棚橋選手の言葉が必ずしもストレートに反映されていない可能性があるとも思いましたが、オフィシャルに棚橋選手の意見として世に出てしまった以上、どうしても黙っていられなかったんです。はっきりお聞きします。あの記事は本音ですか? あるいは炎上をあえて狙ったものだったのですか?
棚橋選手 僕がアントニオ猪木を越えたという発言ですよね。
木村さん いえ、プロレスラーは自己演出と自己主張をしてナンボですからそんなことは構わないんですよ。私がカチンときたのは、猪木さんが人生を懸けて取り組んでいた事業の数々を揶揄したようなくだり。そもそも事実関係にも誤りがあって、だから「知らないのであれば一切語ってほしくない」という趣旨の意見を書いたんです。
──「試合をして、ファンの喜びを自分の喜びにしたら、『永久電機』ですよ。猪木さんが(アントン・ハイセルで失敗して)作れなかった永久機関を実はもう作っている。猪木超えを果たせたのかもしれません(笑)」という棚橋さんのコメントですね。
木村さん はい。
──アントン・ハイセルは1980年代に猪木さんがブラジル政府を巻き込んで取り組んでいた国際的な事業で、サトウキビからアルコールを精製したあとに残る大量の産業廃棄物であるバガス(サトウキビの搾りカス)をバイオ技術で家畜の飼料に生まれ変わらせ、エネルギー不足と食料不足を一挙に解決するという夢のプロジェクトでした。永久電機は、アントン・ハイセルの失敗から約20年を経て再び猪木さんが手がけた「スイッチを入れたら永久に自力で駆動し続ける発電機」の開発。そもそもアントン・ハイセルで失敗して永久電機を作れなかったというのは時系列からして事実とは違っているということですね。
木村さん その通りです。要するに、アントニオ猪木を否定するなら否定するで、もっときちんと知ってから発言して欲しいんですよ。事業についてもそうですが、プロレスラーとしてのアントニオ猪木をどれだけ理解しているのですかと。私が言いたかったのはそれだけのことでした。
棚橋選手 炎上を狙ったかどうかについては、まったくそんなつもりはなかったです。僕は猪木さんがやってきた数々の事業は本当に凄いことだったと尊敬してます。ただ猪木さんに時代が追いついてなかっただけで。今のプロレスラーで環境問題とかエネルギー問題とか、世界規模で物事を考える選手は1人もいませんよ。「自分がどう強くなるのか」「チャンピオンになってスターになるのか」とか自分主体になってしまうのに猪木さんはどういう頭の中をしているのだろうと思ってました。結果的に事業はことごとく失敗しましたけど、猪木さんが誰もやっていないビジネスにチャレンジしたこと自体が凄いことなんです。だから、つまり、この記事からはその想いが全然伝わってなかったということですね…。
木村さん 印象としてまるで真逆でした。
棚橋選手 それは心外です。自分ができないことをされている方はもう無条件で尊敬の対象になるし、猪木さんの型破りな実行力はもちろん尊敬に値します。また、それを支え続けた坂口征二会長(現・新日本プロレス相談役)も凄いなと思います。
──もしかしたらこの記事で特に物議を読んだくだりも何かしら補足の言葉があれば印象がガラっと変わったかもしれませんね。
棚橋選手 そうですね…。一言、足りなかったのかも…。事業を失敗したことについて、馬鹿にしたようなニュアンスになってしまっていたのなら、僕の想いとは違った形で伝わってしまったのかなと思います。
「猪木さんの存在がいなければ『100年に1人の逸材』にはなれてなかった」(棚橋選手)
──あらためて、最近の一連のインタビューで棚橋選手が伝えたかったことを教えてください。
棚橋選手 ポイントはいくつかあって、僕より上の世代である50~60代の皆さんとオンタイムで猪木さんを見ていない35歳以下の世代の皆さんにどのようにアプローチするのかを意識しながらインタビューを受けてました。ただ単に猪木さんの素晴らしさを語ると、いくらでも出てくるし、名勝負も多いです。でもそれは猪木さんの好きな方はご存知の話なので、そこじゃない部分でフックを作るということを意識してました。
木村さん 結果的にそのフックが思わぬ形のフックになってしまったと。
棚橋選手 そうですね…。違うところに引っかかったかもしれませんね(苦笑)。「賛否両論あって本物」という人もいるし、「これはちょっと…」という人もいて、それが猪木さんの偉大さで、プロレスの議論を熱くしていたと思うんです。その曖昧さも猪木さんの時代の魅力だったのかなと。今は何でもかんでも「白か、黒か」ときっちり分けてしまうところがあって、それは正しいということなんですけど、白と黒の中間の灰色があってもいいじゃないなというのがプロレスからずっと発しているメッセージなのかもしれません。
──ちなみに棚橋選手は猪木さんと試合をしたわけではないのですが、仮想敵国のような感じでずっとアントニオ猪木という存在と闘ってきたように感じます。ではどの部分で猪木さんに打ち勝ちたいという想いがありましたか?
棚橋選手 うーん…。「やる前に負けることを考える馬鹿がいるかよ!」という猪木さんの名言がありますけど、力道山先生が活躍した頃は戦後の日本復興という時代背景がありました。猪木さんも時代が生んだプロレス界のスーパースターでした。やはり時代に乗れないとなかなかスターからスーパースターには昇格できないんですよ。だから猪木さんに挑むというのは今のレスラーからしたら、負け戦なんです。もう敗退するのを分かっていて突っ込めるのか。新日本に入ってそれをやる選手、やらない選手の2種類に分かれて、やらない選手が圧倒的なに多かったんです。僕はそういう姿勢を打ち出したから、目立ったわけで。だから棚橋弘至というレスラーを作り上げていく中で、猪木さんの力を借りたということです。
木村さん 棚橋選手がアントニオ猪木という絶対的存在と闘うことを決意したのはいつ頃ですか?
棚橋選手 猪木さんが総合格闘技(PRIDE)のプロデューサーをやっていた頃です。正直、「なんでプロレスを助けてくれないんだろう」と思ってました。他力本願かもしれないけど、あの時に影響力がある猪木さんが「プロレスは面白い」と言ってくれたら多くの皆さんが振り向いてくれて、救われた人も多かったはずなのにと…。
木村さん そのときに怒りを感じたわけですね。
棚橋選手 じゃあ僕が猪木さんに負けない影響力を持つレスラーになればいいじゃないかという気持ちをずっと持ち続けて、ここまでプロレスをやってきました。直接的な関わりは少ないですけど、猪木さんの存在がいなければ「100年に1人の逸材」にはなれてなかったような気がします。
──アントニオ猪木という存在がなければ棚橋弘至もレスラーとしてステータスを上げることはできなかったと。
棚橋選手 もっとクセのないレスラーになっていて、ただカッコいいという評価で終わってましたよ。思えば2006年~2010年頃まで結構ブーイングされてましたから。新日本隊にいて、ベビーフェース側なのにブーイングを受けて、強烈に人に嫌われる経験したことが僕のレスラー人生にとって大きかったですね。片方がブーイングされるということは、もう片方に応援が集中するというプロレスの原風景ともいえる仕組みをより知ることができました。
木村さん 猪木さんも「ベビーフェースしかやれないヤツは駄目だ」とよくおっしゃってましたよ。
──私の大好きなレスラーであるブレット・ハートが「車で例えるとベビーフェースは助手席、ヒールはドライバー」という名言を残してましたよ。
棚橋選手 なるほど!
──試合はヒールが組み立てるという意味なのですが、逆にずっとベビーフェースというのもずっと御輿に担がれるという覚悟が必要なのかなと思います。
棚橋選手 確かにその通りですね。
猪木さんの本音
「『プロレス界は俺をまったく尊敬していない。それに対してPRIDEは最高の敬意を払ってくれている。それに対してきちんと応えているだけだよ』と…」(木村さん)
──木村さんは猪木さんがPRIDEエグゼクティブプロデューサーをされていた頃、猪木事務所のブレーンとして関わっていましたね。格闘技界と接触していく2000年前半の猪木さんの動きについてはどのように思われてましたか?
木村さん PRIDEの百瀬博教先生(作家。「PRIDEの怪人」と呼ばれプロデューサー的役割を担っていた。選手には小遣いや土産を渡すなどタニマチ的な存在でもあった)に同行してアメリカ・ロサンゼルスまで猪木さんの取材に行ったことがありました。その間、PRIDEサイドの考え方、猪木さんに対する評価を百瀬先生から直接伺ったんですが、無条件で猪木さんを称賛してましたね。そのあと、それについて猪木さんはどう感じていたのか本音を聞きました。「なぜ今、格闘技なのか?」と。で、これは言っていいのかな…。
棚橋選手 是非、聞きたいです!
木村さん 「プロレス界は俺をまったく尊敬していない。それに対してPRIDEは最高の敬意を払ってくれている。それに対してきちんと応えているだけだよ」と、ちょっと悔しそうでもありました。
棚橋選手 そうだったんですね…。猪木さんも寂しかったのかな…。
木村さん 孤独だったんだと思います。
棚橋選手 猪木さんはいつも元気でスーパーマンというイメージがあるから、そういう感情の起伏を人に読ませないじゃないですか。だから全然そういう感情には気づきませんでした。プロレス界の側もリスペクトを込めて「猪木さんはここにいてください。全部用意しますからお願いします」という姿勢があってしかるべきだったということですね…。
新日本が一番厳しかった時代で決めた覚悟
「『どうにかならないかじゃなくて、どうにかすればいいんだ』と。その時、映画のワンシーンみたいに円形の光が『ファー』と僕を包み込むように降りてきた」(棚橋選手)
──猪木さんの寂寥感というのは、1990年代から続く長州力さんの体制になってから続いていたものかもしれませんね。
棚橋選手 猪木さんと藤波辰爾さんの関係と猪木さんと長州さんの関係は違うんですよ。藤波さんはとにかく猪木さんが大好きだったんですけど、長州さんは猪木さんとは違うスタンスだったことも、影響したのかもしれませんね。
木村さん これは私の持論ですが、新日本プロレスの道場には猪木イズムがUWF勢が離脱するまでは受け継がれていたと言われていますが、こと技術に関して言えば、猪木の流儀は新日本の道場には最初からなかったと思ってます。そこにあったのはカール・ゴッチによるゴッチイズムであって、新日旗揚げ以降の選手たちは猪木さんへの尊敬の念は別として、実質的にはカール・ゴッチさんの弟子だった。ところが長州さんはゴッチイズムに馴染めずにあぶれた人で、平成に入って現場は長州体制となり、そこでゴッチイズムを完全否定して新日本道場も作り変えた。新日本はつねに根本から変わり続けていたんですよ。ただ、猪木さんとゴッチさんのプロレス観には隔たりがなかったからよかったのですが、長州さんがゴッチ色を一掃しようとして極端に逆の方向へ走った。だから長州体制になって猪木さんがプロレススタイルについて異議を唱え始めた。猪木さんは「なんで今の選手はラリアットばかりなんだ」と不満そうでしたね。
棚橋選手 たしかに、一時期、新日本にはラリアットプロレスというのが前提にありました。
木村さん 長州さんは猪木イズムやゴッチイズムを全部排除して、まったく新しい自分の世界を作ろうとしたのだと私は考えています。そこで生じた猪木さんとの軋轢が、そのまま2000年代はじめの混乱の源だったと。多くの選手が新日本を離脱する背景にはオーナーである猪木さんと現場トップとの対立がもろに影響していたんですよ。私は猪木さんと長州さんの両方に近い方との付き合いもありましたので、きな臭い話も色々耳にしていました。傍で見ていて、こういう状況では選手や社員の皆さんが疑心暗鬼になるのも当然だと思ってました。そしたら案の定、大量離脱が発生して新日本が経営危機に陥ってしまったんです。
──棚橋選手は大量離脱が発生した2000年代前半でレスラーとして頭角を現わすようになります。その頃の新日本の空気はどうでしたか?
棚橋選手 大量離脱は2000年の橋本真也さんから2006年の藤波さんまでの長期間、続くんですよね。長州さん、大谷晋二郎さん、武藤敬司さん、小島聡さん、佐々木健介さんとか多くの選手が新日本を辞めていきました。でも僕はラッキーと思ってましたよ。これであっという間にトップに行けると!
木村 そこはポジティブに捉えてたんですね。
棚橋選手 僕はIWGP・U-30無差別級王者だった2005年かな。新日本が一番厳しかった時代です。試合会場のドレッシングルームで、「誰かスーパースターが現れてプロレス界が盛り上がらないかな」と漠然と考えていて、先輩や後輩も含めて他のレスラーの顔ぶれを見た時に「俺かぁ!」と思って、そこで覚悟が決まりました。「誰かがやるのではなく自分がやればいいじゃないか」「どうにかならないかじゃなくて、どうにかすればいいんだ」と。その時、映画のワンシーンみたいに円形の光が「ファー」と僕を包み込むように降りてきた感覚があって…。今思うと我ながら、一番険しい道を選びましたね。
──棚橋選手は団体が激動に揺れていた1999年に新日本に入門されました。2000年代前半になると、オーナーである猪木さんの現場介入というのが顕著に目立つようになります。棚橋選手絡みでいいますと、2004年11月19日大阪ドーム大会で当初、ファン投票で棚橋弘至VS中邑真輔の初シングルマッチ(IWGP・U-30無差別選手権試合)が決まったのですが、直前に猪木さんの強権発動でカード変更。棚橋選手は天山広吉選手とのタッグでファイティングオペラ『ハッスル』代表チームの小川直也&川田利明と対戦しました。カード変更の一件も含めて、この時期の猪木さんの介入についてどのように思われてましたか?
棚橋選手 ウンザリしてました。でも、もし当初のカードをそのままやってもたぶん盛り上がらなかったような気がします。猪木さんはなんやかんやで新日本に気をかけてくれていて、意地悪とかじゃなくて、「これが最善策」だと思ってそういう行動を取られたのかと。今、振り返るとそう思います。
「棚橋選手の本音を伺って、猪木さんの新日イズムは継承されていたんだと感じた」(木村さん)
──新日本2001年4月7日・大阪ドーム大会。テレビ朝日は当日2時間ゴールデンタイム生中継が組まれていたのですが、新日本からなかなかカード発表がなくて、中継の目玉も提示してこなかったんです。それに対して業を煮やしたテレビ朝日サイドが猪木さんに「中継の目玉を作ってほしい」と直談判したそうです。
棚橋選手 そうだったんですね。
──猪木さんは、テレビ朝日からの依頼を受けて、新日本VS猪木軍という図式で、藤田和之選手に初代IWGPヘビー級王座を持参させて、当時のIWGP王者スコット・ノートンと「IWGP王座統一戦」を組ませたり、犬猿の仲である橋本真也さんと佐々木健介さんの一騎打ちを実現させたり、小川直也さんと長州力さんが一触即発の状況になったり、試合前のセレモニーでなぜか天井に「魂」と書かれた巨大な球体が浮かび中で猪木さんが「闘う魂をこのリングに呼び起こせ!」と叫んだりと、結果的には盛り沢山の話題を提供したとも言われています。
棚橋選手 猪木さんは本当にアイデアマンですよ。普通の人では思いつかない切り口でやってくるので、猪木さんを理解することは並大抵のことじゃないんです。そんな猪木さんを理解する前にシャッターを閉めたのが長州さんだったと思います。
木村さん 今の話を聞いていて、新日イズムって何なのだろうなと…。要するに新日イズムは「どんな手を使ってでも客を入れてやろうじゃないか」ということなんですよ。そして、猪木イズムとは、「“できない”“やらない”は絶対に言わない」こと。
棚橋選手 その意味でいえば、新日イズムや猪木イズムは僕にもありましたね。プロレスラーとしてつねに会場を絶対に満員にしてやるという気持ちはあります。
木村さん ええ、今日、初めて棚橋選手の本音を伺って、なるほど猪木さんの新日イズムは継承されていたんだと感じました。
棚橋選手 僕はプロレスと出逢うまで「このまま普通の生活をしながら人生を終えるのかな」と考えていましたが、高校3年生の時にプロレスが好きになって、「こんなに熱中できるものがあるのか」「プロレスがあるから生きていける」と思うくらい人生が1000倍、楽しくなったんです。逆に「こんな面白いジャンルを知らずにここまで生きていたのか」と後悔の念もありました。プロレスを好きになるというのは確率の問題で、「全国1000万人のプロレスファンの皆さん」と古舘伊知郎さんが実況で言っていた頃は毎週20%の視聴率を取っていましたから1000万人、2000万人がたしかに見ていたんです。今はそこまで多くの皆さんがプロレスと接していないんですけど、1人でも多くの皆さんにプロレスを好きになってもらいたい。そのためには自分たちが自信を持っているプロレスを見せるしかない。だからプロモーションにも力を入れたし、「もっと有名になりたい。有名になればもっとプロレスが世間に届く」とずっと思ってました。
ユークス時代の新日本を振り返る
「今、こうやって喋りながら、あの当時の情熱が蘇ってきました」(棚橋選手)
──それは2005年からのユークス体制になってから棚橋選手がやってきたことに繋がりますね。改めて、この時代について振り返っていただいてもよろしいですか。
棚橋選手 正直に言うと、現場の足並みはまだ揃いきってなかったです。僕がIWGP王者になって、メインイベント後にマイクで興行を締めることが多くてまだ『新日本プロレスワールド』がなかった時代に全国各地の会場で「有名になります!」と宣言してました。「僕が道を歩けないくらい有名になれば、プロレス会場が絶対に満員になるんだ」と…。なんか今、こうやって喋りながら、あの当時の情熱が蘇ってきましたよ。どうやったら有名になるのかずっと妄想してました。例えば、「散歩で通りかかった時に、川で子供が溺れているのを助ければすごく有名になるんじゃないのか」とか。
木村さん たしか猪木さんも代官山のマンションに住んでいた頃、火事から隣人を助けて表彰されたことがあったという記憶があります。でも、猪木さんの場合、いいことをやってもあんまり表に出なかった(笑)。
棚橋選手 猪木さんは奥ゆかしい方で、自分からそういうことを発信するようなことはしませんでしたね。
──では棚橋選手の中で新日本のエースとして試合からプロモーションに至るまで奮闘する中で「これはいけるな!」と思ったのはいつ頃ですか?
棚橋選手 大きく変わったのは2012年のオカダ・カズチカの凱旋ですね。あれから新日本のビジネスがワンランク上がりました。僕は2012年1月4日東京ドーム大会で鈴木みのるさんを破ってIWGP王座V11を達成したのですが、あの時点ではその先の展望があまり見えてなくて、その中で凱旋して僕を破って24歳でIWGP王座を奪取して、一躍スターとなったオカダの存在は大きかったです。農産物で例えると、荒れ地を僕が耕して、種をまいて、芽が出始めた時にオカダという大雨が降って、作物が育って、オカダから王座を取り返すことで僕という太陽によって作物がさらに大きく実った。雨と太陽が繰り返されたことで、一番作物が育ちやすい環境が何年も続いたわけですよ。
──棚橋選手にとってもオカダ選手の存在は特別だったんですね。
棚橋選手 僕と中邑真輔のライバル関係がひと段落した時に、オカダが現れて、4年間は棚橋VSオカダの物語で新日本を引っ張っていったので、あんな敵対関係はなかなかないですよ。だからオカダには「同じ時代に生まれてくれてありがとう」と言いたいですね。
──オカダ選手にとって棚橋選手というライバルがいたから、経験値が上がって自身の成長スピードが加速したという感じがします。
棚橋選手 「レインメーカー」を生んだのは僕かも(笑)。
──ハハハ(笑)。ちなみにこれはお聞きしたかったんですけど、2012年に新日本の親会社がブシロードに変わりました。ユークス体制の時は猪木さんというフレーズがどこかタブー視されていたように思います。ブシロード体制になってからちょくちょく猪木さんの名前が出るようになりました。こちらについてどのように感じてましたか?
棚橋選手 そこは全然意識はしてなかったんですけど、猪木さんに対するアレルギーが時間とともに薄れていった結果なんじゃないですかね。新日本の土台がしっかりしてきて、ビジネスとして盛り上がっていった状況で、猪木さんの名前を出しても揺るがないという自信があったのかもしれません。
「『できない・やれないを絶対に言わない』という猪木イズムに則ると、一度でも『できない』と言ってしまうと猪木さんから見切りをつけられてしまう」(木村さん)
──話は少しさかのぼりますが、2006年に猪木事務所が突然閉鎖します。木村さんは猪木事務所の外部ブレーンとして協力されていた時期があり、棚橋選手が新日本で浮上していく頃の新日本と猪木事務所の関係を見ていたと思います。木村さんは新日本と猪木事務所の関係についてどのように捉えてましたか?
木村さん あまりいい関係には見えませんでした。猪木さんではなく、猪木事務所が新日本をひとつ下に見ている感じはありました。これは猪木さんのやり方なんでしょうけど、猪木事務所以外にも猪木さんの側近の方々はそれぞれグループを形成していて、そこで猪木さんをめぐる綱引きがつねに繰り広げられていたんです。結果的には本家本元だと思っていた猪木事務所がある日突然また別のグループに取って代わられて、いきなり解散になってしまった。私は2005年の年末に猪木さんのバングラデシュ視察に同行し、記録ビデオを編集して2006年の正月明けに猪木事務所に届けに行ったのですが、すでに事務所は閉鎖されても抜けの空。青天の霹靂とはあのことでした。
棚橋選手 そうだったんですか…。
木村さん よくよく考えると、どんな言葉かは思い出せないんですが、空港で猪木さんから別れ際にちらっと何かを匂わせるようなことを言われたんです。後から考えるとそれが事務所の閉鎖を示唆してたんですよ。後から解雇された猪木事務所のスタッフから「全く寝耳に水だった。気配もなかった」と聞きました。猪木事務所を解散させるために、極秘裏にさまざまな権利関係の移行手続きが行われていたみたいで、その時、僕はある意味、猪木さんの神ではない悪魔の一面を見た気がしました。猪木さんはこんなふうに自分に群がる人たちをコントロールしてきたのかと。そうやって自分がより活動しやすい環境に乗り換えていく…。これもまた猪木さんの歴史の非情な一面なんですよ。
──言葉がでないですね…。
木村さん 日本プロレスから東京プロレス、また日本プロレスに復帰して、新日本プロレスを旗揚げするという歩みの中で、猪木さんの側近の方々は全部入れ替わっているでしょう。UFOからIGFの時もそう。ずっと猪木さんのそばにいた人はいないんです。猪木さんはプロレス界においては絶対に自分の周りの人間関係を固定しないということを意識的に徹底してやっていたような気がします。
棚橋選手 人間関係が固まると、多分、アイデアも枯渇するからじゃないですか。
木村さん 先ほど私が言った「できない・やれないを絶対に言わない」という猪木イズムに則ると、一度でも「できない」と言ってしまうと猪木さんから見切りをつけられてしまう。そのときに「やります」「俺ならできる」と言った人間がその後も猪木さんの周りについていくというサイクルの繰り返しだったような気がします。
棚橋選手 猪木さんは生い立ちや人間関係が複雑だったこともあって人を見抜く目がものすごく鋭かったんじゃないですか。
木村さん 肩書とか人気者かどうかだとかでは人を評価しない。自分がやろうとしていることに対して「乗れるのか、乗れないのか」「やる気があるのか、ないのか」それだけが判断の基準だったと思います。
棚橋選手 猪木さんは面白いことが好きじゃないですか。「面白いのか、面白くないか」というシンプルな判断基準が猪木さんにはあったんでしょうね。僕は2002年にあの事件があって、相当落ち込んでもうプロレスを辞めるしかないと思った時に、猪木さんにPRIDE(2002年12月23日・マリンメッセ福岡大会)に呼ばれて、初めて人前に出ました。猪木さんがどこかのインタビューで「面白いやつがいるじゃねぇか」と言ってくださって、あれでどれだけ救われたことか…。プロレスという間口の広い土壌がなかったら、僕は多分社会復帰が許されてなかった。あの時、僕は猪木さんにプロレスラーであることを、プロレスを続けることを許してもらえた。なんか「神」に出逢ったような気持ちでした。
──猪木さんには悪魔のような非情な一面もありますが、その一方で人情や心優しい天使のような一面もあって、棚橋選手はこれまでのレスラー人生で猪木さんの両極端な部分を味わったのですね。
棚橋選手 そうですね…。
(プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一前編終了/後編に続く)
後編はこちらです!
ジャスト日本です。
有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。
今回、のゲストは、「伝説の格闘家」日本ブラジリアン柔術協会会長・中井祐樹さんです。
(画像は本人提供です)
中井祐樹(なかいゆうき)
1970年8月18日生まれ。北海道浜益郡浜益村(現石狩市浜益区)出身。高校時代にレスリング、北海道大学在学中に高専柔道の流れを汲む七帝柔道を学び、4年時には七帝戦で団体優勝に輝く。その後同大中退後、上京し修斗に入門。93年4月にプロデビュー。94年11月、第3代ウェルター級チャンピオンとなった。95年4月、バーリ・トゥード・ジャパンオープン95に出場。決勝まで進み、ヒクソン・グレイシーに敗れるも準優勝。しかし一回戦のジェラルド・ゴルドー戦で受けたサミングで右目を失明、王座を返上した。その後しばらくは選手活動を停止していたが96年に柔術家として現役に復帰、日本におけるブラジリアン柔術の先駆者となる。98年パンアメリカン柔術選手権茶帯フェザー級優勝などアメリカ・ブラジルで実績を残す。99年7月の世界柔術選手権より黒帯に昇格し、99年10月のブラジル選手権では黒帯フェザー級で銅メダルを獲得した。97年12月、自らの理想を追求するためパラエストラ東京を開設。現在、日本ブラジリアン柔術連盟会長。著書に「中井祐樹の新バイタル柔術」(日貿出版社)や「希望の格闘技」(イースト・プレス)や「本当の強さとは何か」(増田俊也氏との共著、新潮社)、DVDは「中井祐樹メソッド 必修!柔術トレーニング」(BABジャパン)や「中井祐樹 はじめようブラジリアン柔術」(クエスト)他多数。
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今回、のゲストは、「伝説の格闘家」日本ブラジリアン柔術協会会長・中井祐樹さんです。
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中井祐樹(なかいゆうき)
1970年8月18日生まれ。北海道浜益郡浜益村(現石狩市浜益区)出身。高校時代にレスリング、北海道大学在学中に高専柔道の流れを汲む七帝柔道を学び、4年時には七帝戦で団体優勝に輝く。その後同大中退後、上京し修斗に入門。93年4月にプロデビュー。94年11月、第3代ウェルター級チャンピオンとなった。95年4月、バーリ・トゥード・ジャパンオープン95に出場。決勝まで進み、ヒクソン・グレイシーに敗れるも準優勝。しかし一回戦のジェラルド・ゴルドー戦で受けたサミングで右目を失明、王座を返上した。その後しばらくは選手活動を停止していたが96年に柔術家として現役に復帰、日本におけるブラジリアン柔術の先駆者となる。98年パンアメリカン柔術選手権茶帯フェザー級優勝などアメリカ・ブラジルで実績を残す。99年7月の世界柔術選手権より黒帯に昇格し、99年10月のブラジル選手権では黒帯フェザー級で銅メダルを獲得した。97年12月、自らの理想を追求するためパラエストラ東京を開設。現在、日本ブラジリアン柔術連盟会長。著書に「中井祐樹の新バイタル柔術」(日貿出版社)や「希望の格闘技」(イースト・プレス)や「本当の強さとは何か」(増田俊也氏との共著、新潮社)、DVDは「中井祐樹メソッド 必修!柔術トレーニング」(BABジャパン)や「中井祐樹 はじめようブラジリアン柔術」(クエスト)他多数。
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facebook https://m.facebook.com/profile.php?__user=100002784381086
主宰道場・パラエストラ東京の公式ホームページはこちらです。
パラエストラ東京news(日本語)
http://blog.livedoor.jp/paraestra_tokyo
クラス時間割
http://www.paraestra.com/images/class20130215.jpg
PARAESTRA TOKYO
News (English) http://blog.livedoor.jp/para_tyo_e_news/
公式サイト Official Web (日本語 Japanese)
http://www.paraestra.com
ジャスト日本です。
プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。
かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。
プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。
プロレスとは何か?
その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。
そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。
有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。
それが「私とプロレス」です。
今回、のゲストは、「伝説の格闘家」日本ブラジリアン柔術協会会長・中井祐樹さんです。
(画像は本人提供です)
中井祐樹(なかいゆうき)
1970年8月18日生まれ。北海道浜益郡浜益村(現石狩市浜益区)出身。高校時代にレスリング、北海道大学在学中に高専柔道の流れを汲む七帝柔道を学び、4年時には七帝戦で団体優勝に輝く。その後同大中退後、上京し修斗に入門。93年4月にプロデビュー。94年11月、第3代ウェルター級チャンピオンとなった。95年4月、バーリ・トゥード・ジャパンオープン95に出場。決勝まで進み、ヒクソン・グレイシーに敗れるも準優勝。しかし一回戦のジェラルド・ゴルドー戦で受けたサミングで右目を失明、王座を返上した。その後しばらくは選手活動を停止していたが96年に柔術家として現役に復帰、日本におけるブラジリアン柔術の先駆者となる。98年パンアメリカン柔術選手権茶帯フェザー級優勝などアメリカ・ブラジルで実績を残す。99年7月の世界柔術選手権より黒帯に昇格し、99年10月のブラジル選手権では黒帯フェザー級で銅メダルを獲得した。97年12月、自らの理想を追求するためパラエストラ東京を開設。現在、日本ブラジリアン柔術連盟会長。著書に「中井祐樹の新バイタル柔術」(日貿出版社)や「希望の格闘技」(イースト・プレス)や「本当の強さとは何か」(増田俊也氏との共著、新潮社)、DVDは「中井祐樹メソッド 必修!柔術トレーニング」(BABジャパン)や「中井祐樹 はじめようブラジリアン柔術」(クエスト)他多数。
以下もろもろ情報です。
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ジャスト日本です。
有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。
今回、記念すべき20回目のゲストは、「プロレス西の聖地」プロレスバー・カウント2.99のマスターコウジさんです。
(画像は本人提供です)
マスターコウジ (北山幸治)
1976年3月25日、大阪府大阪市生まれ。バーテンダー。
2010年(35歳の時)に脱サラし、同年11月大阪ミナミに「プロレスリングBARカウント2.99」を旗揚げ。日本のプロレスから世界のプロレス、男子プロレスや女子プロレス、クラシックから現代プロレスまで長らく広くプロレスを見続けてきたマスターがプロレスの発信をはじめ、オーセンティックBARでのバーテンダー修行を生かした美味しいお酒を日々提供中。大阪はもちろん、県外から訪れるお客様も多く、最近では海外から訪れるお客様もいるとか。またBARにプロレスラーを招いて開催するイベントもプロデュースを手掛けており、その数は300を超える。
プロレスバー「カウント2.99」 - 大阪ミナミのプロレスバー「カウント2.99」のホームページ
ジャスト日本です。
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今回、記念すべき20回目のゲストは、「プロレス西の聖地」プロレスバー・カウント2.99のマスターコウジさんです。
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マスターコウジ (北山幸治)
1976年3月25日、大阪府大阪市生まれ。バーテンダー。
2010年(35歳の時)に脱サラし、同年11月大阪ミナミに「プロレスリングBARカウント2.99」を旗揚げ。日本のプロレスから世界のプロレス、男子プロレスや女子プロレス、クラシックから現代プロレスまで長らく広くプロレスを見続けてきたマスターがプロレスの発信をはじめ、オーセンティックBARでのバーテンダー修行を生かした美味しいお酒を日々提供中。大阪はもちろん、県外から訪れるお客様も多く、最近では海外から訪れるお客様もいるとか。またBARにプロレスラーを招いて開催するイベントもプロデュースを手掛けており、その数は300を超える。
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プロレスとは何か?
その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。
そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。
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1976年3月25日、大阪府大阪市生まれ。バーテンダー。
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