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ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ

 

 ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 今回のゲストは、YouTubeをプロレス動画を配信し続け、イベントにも出演されているプロレス研究家のマスクド・マハローことマハロー・カタヤマさんです。

 

 
 


(画像は本人提供です) 

 


 マスクド・マハロー(マハローカタヤマ)


BI砲時代からプロレスを見続けているプロレス研究家。
闘道館にてプロデュースイベント3回開催。
毎週末YouTubeチャンネル『昭和プロレス列伝』にてライブ配信
毎回異なるテーマで昭和のプロレスを深掘りする
&今のプロレスを語る「週刊・プロレスジャーナル」を配信しています。
 

【プロモーション情報】
 
  YouTubeチャンネル『昭和プロレス列伝』
  https://www.youtube.com/@introducingprowrestling8445
 
 闘道館イベント
・ 2019/3/9「プロレスファンがハワイを100倍楽しむ方法」
https://www.toudoukan.com/page/$/page_id/4323/

・2020/3/14 『プロレス温故知新』
https://www.toudoukan.com/page/$/page_id/5097/

・2023/10/15 プロレス温故知新2
https://www.toudoukan.com/onko2



マハローさんの取材はなんと3時間半に及びました。とにかくプロレスを骨の髄まで愛して深堀りしているマハローさんの超マニアックトークが炸裂した回となりました。


 かなりディープですよ! これぞプロレス研究家・マハローさんの面目躍如!
 
是非ご覧ください!
 


 
私とプロレス マハロー・カタヤマさんの場合「第2回 サンボ浅子さんとのエピソード」
 



中学時代の同級生は元・FMWのサンボ浅子さん



──マハローさんは、サンボ浅子(元プロレスラー。サンボ世界選手権出場という経歴を持ち「FMW第三の男」として活躍。引退後に糖尿病を発症し、その影響で右足切断、右目の視力を失い車椅子生活を余儀なくされる。2004年5月18日に40歳の若さで逝去)とは中学時代の同級生で、濃厚な時代を一緒に過ごされたそうですね。
 
マハローさん はい、そうなんですよ。中学校に入るときに「別の学校のプロレス通の大ファンがいるぞ」という情報があって、それが浅子くんでした。実際にプロレス話で意気投合しました。彼は水産会社社長の息子で、結構羽振りがよくて毎シリーズ後楽園ホールの開幕戦を観戦していました。そこで「この選手よかったよ」という情報交換をしていました。そして1977年の『世界オープンタッグ選手権』最終戦の蔵前国技館大会は僕も浅子くんを始め15人くらいの同級生で見に行きました。



──伝説のザ・ファンクスVSアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークが行われたあの日ですね。

マハローさん その通りです。試合が終わって浅子くんがドレッシングルームに行こうというので、みんなで夜10時半まで外で見てました。ガタガタ音がして「あっ、ブッチャーだ!」とか言いながら(笑)。あと中学二年生の時に浅子くんが突然、「ジャンボ鶴田さんに会いに行こう」と言い始めて、小田急線に乗って全日本プロレスの道場に行って、鶴田さんが出てくるのをボールペンと色紙を持って待ち伏せしましたね。でも誰もいなくてチャイムを鳴らして、出てきたのは当時新人レスラーの大仁田厚さんでした。後にFMWで仲間になる大仁田さんと浅子くんの初遭遇を僕は目撃しましたね。

──そうだったんですね!

マハローさん 中学生時代と浅子さんとプロレス仲間で、高校は別々になったんですよ。

──浅子さんは柔道やサンボの格闘技歴があり、第一次UWFやジャパン女子プロレスの営業マンとして勤務していましたが、1989年10月に大仁田厚が旗揚げしたFMWに初期のレスラーとして参加。12月1日に対徳田光輝戦でプロデビューします。プロレスラーになられた浅子さんの姿をマハローさんはどのようにご覧になってましたか?

マハローさん まさか浅子くんがプロレスラーになるとは…ビックリしました。渋谷にレッスルというプロレスショップがあって、インディー団体のパンフレットが売っていて、FNW[のパンフレット裏表紙に浅子くんが大仁田さんとターザン後藤さんとランニングしている姿が掲載されていて、「なんじゃこりゃ、遂にプロレス内部に入ったのか!」と(笑)。

──私も浅子さんの試合はプロレス雑誌とか追っていた世代で、何気に応援したい選手のひとりでした。サンボの技術はあるかもしれませんが、プロレスラーとして不器用でゴツゴツしていて、お世辞にもプロレスセンスがあるとは到底いえないと思います。でも空回り感も含めて好きでした。あとやられっぷりが最高にいいんです。

マハローさん そうなんですよ。「ああああ!」って言いながら倒れてましたね。

──個人的にはよく覚えているのが、1992年9月19日・横浜スタジアム大会でストリートファイト・トリプル担架デスマッチとしてサンボ浅子&リッキー・フジ&ザ・グレート・パンクVSビッグ・タイトン&ザ・グラジエーター&ホーレス・ボウダーがあったんですよ。

マハローさん その試合は映像で見たことありますよ!

──浅子さんとリッキーさん、パンクさんがネクタイを締めてスーツ姿で現れて、外国人レスラー3人にボコボコにされて、3人とも担架に乗せられて失神したんですよ。あれが強烈に印象に残ってます。浅子さんのスーツ姿が新橋にいるサラリーマンみたいでしたよ(笑)。

マハローさん ハハハ(笑)。浅子くんはやられっぷりが魅力でしたよね。ちなみに浅子くんが好きなプロレスラーがザ・デストロイヤーだったんです。受けて受けて受けまくるデストロイヤーのプロレスに感化されたのかもしれません。

──ちなみに引退後の浅子さんと会う機会はありましたか?

マハローさん ありましたよ。一緒に飲み屋に行ったりしました。でも浅子くんの告別式にはクラス会から呼ばれなくて、後から「お前が浅子と仲良しとは思わなかったよ」と言われました。

──浅子さんは2003年に亡くなったので今年で没後20年です。今、改めてマハローさんにとって浅子さんはどのような存在ですか?

マハローさん プロレスを愛する同士のひとりでした。浅子くんがいたから一つ先のプロレスの世界を見ることができました。プロレスを語る仲間は中学の時にいましたけど、深い話になるのは浅子くんとのやり取りだけでした。心から浅子くんには、「ありがどう」と言いたいですね。



『ゴング』はプロレスファンとしての僕の教科書



──ありがとうございました。マハローさんにはプロレスの師匠がいるそうですね。

マハローさん はい。僕は『ゴング』チルドレンなんですよ。週刊ではなく、月刊の方の『ゴング』。竹内宏介さん、ウォーリー山口さん、清水勉さん、小佐野景浩さん、小林和朋さん、吉澤幸一さんといった『ゴング』で活躍された凄腕のプロレス記者の皆さんが師匠のような存在です。『ゴング』はプロレスファンとしての僕の教科書です。竹内さん以外の皆さんには実際にお会いする機会があって、皆さんによくしていただきました。

──『ゴング』はマハローさんからするとどのようなプロレス誌とお考えですか?

マハローさん 『ゴング』はビジュアルがきれいなんですよ。『月刊ゴング』と『月刊プロレス』と見比べると写真の質が違いますから。『ゴング』のグラビアを見るだけで心がときめく。あとアメリカンプロレスを好きになったのは『ゴング』のおかげですし、色々なプロレスに対する見方やマニアックな知識を全部『ゴング』に教えていただきました。ただ『ゴング』は月刊から週刊になってから密度が落ちたんですよ。それは僕が交流した『ゴング』の皆さんも言ってました。

──そうなんですね!

マハローさん 『ゴング』は資料的価値があるから10年経っても20年経っても読めるんですよ。選手名鑑や必殺技辞典とか。あと『ゴング』は団体と一緒に仕掛けることもあって、スタン・ハンセンの全日本移籍の情報は半年くらい前から掴んでいて、ブロディとのツーショット写真を温存していたり、アブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本移籍情報も掴んでいて、移籍の数日前に写真を撮っていたりとか。『月刊プロレス』や『週刊プロレス』を発行しているベースボールマガジン社はあまりそういうことはやらなかったし、できなかったようです。

──恐らくそこまで団体との関係性を築いてなかったのかもしれませんね。竹内宏介さんは新日本と全日本共にうまくやっていた印象がありますから。

マハローさん そうなんですよ。竹内さんは新日本と全日本のブレーンでしたから。


菊地真二さん、小泉悦次さんとの交流


──竹内さんは全日本ではテレビ中継の解説をされているのに、新日本にも入り込めているから凄いなと思いますね。あと他にもプロレスの師匠がいるとのことですね。

マハローさん 菊地真二さんという方なんですけど、ファンクラブ全盛期にひとりでA4紙4枚に海外のプロレス情報を掲載したものを切手何枚かで希望者に送っていたすごいプロレスマニアなんですよ。

──凄いですね。子供新聞を大人になってからでもやっている素敵な方ですよ。

マハローさん  プロレスの情熱で「大人新聞」を作ってマニアックな情報を届けてくれたのが菊地真二さんなんですよ。あと小泉悦次さんも僕にとってプロレスの師匠ですね。

──小泉さんはプロレス史の研究をメールマガジンや『Gスピリッツ』での寄稿で展開されている方で、書籍も出されていますよね。

マハローさん  はい。1990年代後半にインターネットが出始めた頃にヤフー掲示板とかにプロレスのヒストリアンが集まるところがあって、小泉さんが別名で書いていた李、僕も書いていました。小泉さんの奥様が銀座で店を開くということで、インターネットで繋がっていた皆さんを招待したんですよ。そこで小泉さんと初めてお会いして、憧れの菊地真二さんにも会いました。そこから清水勉さんに会わせてもらったり、一プロレスファンだった僕がネットで発信できたり、秘密の勉強会とかに参加できたのは小泉さんが誘ってくれたからです。

──マハローさんから見て小泉さんの凄さはどこにありますか?

マハローさん  プロレス史を細かく調べて尽くして発表するヒストリアンですよね。流智美さんと共に日本を代表するプロレスヒストリアンが小泉さんで、この人がいなければ今の僕はいません。小泉さんは物事を縦と横の双方から見るのが凄いですよね。例えば1970年1月というお題を出すと、日本プロレスがこうだった、国際プロレスがこうだったと言うケースが多いんですけど、小泉さんの場合は1月のこの日にカナダで何があったとか、メキシコでこんなことがあったとか言うんですよ。だから立体的に物事を見ているから、独自のプロレス史研究に繋がっているのかなと思います。

──人と視点が違うんですね。

マハローさん  元々、小泉さんは数学の先生なんですよ。だから細かい文章を書かれるわけです。

──だから『週刊ゴング』や『週刊プロレス』の流れとは違う文章を書かれるんですね。

マハローさん そうなんですよ。プロレス誌に関わる多くの記者さんは文系だと思いますが、小泉さんは理系です。

──方程式を解くように書かれるわけですね。何かしらの仮説を立てるわけじゃなくて、時期とか諸々を調べ尽くした上で一つの説を出すのが小泉さんの手法ということですか?

マハローさん その通りです。


YouTube進出のきっかけ


──ありがとうございます。マハローさんはYouTubeで『マハローのYKチャンネル』『昭和プロレス列伝』といったチャンネルを立ち上げ、配信を続けていますが、YouTube進出のきっかけを教えてください。

マハローさん 小泉さんやミック博士さんとかプロレスマニアの皆さんは自らのメディアを持っていたんですよ。プロレス知識や調べたことをアウトプットする場が僕はなかったので、私の得意分野のYouTubeを始めました。

──私は『マハローのYKチャンネル』をよく拝見してまして、ボブ・ループが道場破りを制裁下動画とかヒロ・マツダさんとマサ斎藤さんが揉めた動画とか。あとその動画にマハローさんのテロップが入るんですけど、あれがいいんですよ。

マハローさん ありがとうございます。『マハローのYKチャンネル』は海外のプロレス映像を引っ張ってきて、僕がテロップをつけて紹介しているのですが、それだけだとパクリで終わってしまうのでマニアックなプロレス話を展開する『昭和プロレス列伝』をスタートさせました。最初はレスラーにスポットを当てて「リック・フレアーを語る」というテーマでやっていて、そこからライブ配信とかをやるようになりました。ライブ配信はネタ選ぶと仕込みがとにかく大変ですね。


『プロレス温故知新』

──ちなみにマハローさんは『プロレス温故知新』というトークイベントをこれまで二度開催しています。鈴木秀樹選手とライターの高木圭介さんと共にマハローさんは登壇されているこのイベントについてお話しください。

マハローさん このイベントのきっかけは2019年に僕がハワイに行った時に、「ハワイプロレス巡り」を開催したんですよ。その発表会を闘道館の泉館長から話がありまして、ハワイのものすごくマニアックなトークイベントをやりました。その続編として『プロレス温故知新』というイベントを考えまして、鈴木選手と高木さんにお声掛けしました。とにかく鈴木選手と高木さんの鈴木秀樹選手と高木さんのトークが最高に面白いですね。


──素晴らしいです!

マハローさん これからも『プロレス温故知新』は継続して開催していきたいですね。

(第2回終了)

















 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回のゲストは、YouTubeをプロレス動画を配信し続け、イベントにも出演されているプロレス研究家のマスクド・マハローことマハロー・カタヤマさんです。

 

 
 


(画像は本人提供です) 

 


 マスクド・マハロー(マハローカタヤマ)


BI砲時代からプロレスを見続けているプロレス研究家。
闘道館にてプロデュースイベント3回開催。
毎週末YouTubeチャンネル『昭和プロレス列伝』にてライブ配信
毎回異なるテーマで昭和のプロレスを深掘りする
&今のプロレスを語る「週刊・プロレスジャーナル」を配信しています。
 

【プロモーション情報】
 
  YouTubeチャンネル『昭和プロレス列伝』
  https://www.youtube.com/@introducingprowrestling8445
 
 闘道館イベント
・ 2019/3/9「プロレスファンがハワイを100倍楽しむ方法」
https://www.toudoukan.com/page/$/page_id/4323/

・2020/3/14 『プロレス温故知新』
https://www.toudoukan.com/page/$/page_id/5097/

・2023/10/15 プロレス温故知新2
https://www.toudoukan.com/onko2



マハローさんの取材はなんと3時間半に及びました。とにかくプロレスを骨の髄まで愛して深堀りしているマハローさんの超マニアックトークが炸裂した回となりました。


 かなりディープですよ! これぞプロレス研究家・マハローさんの面目躍如!
 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス マハローカタヤマさんの場合「第1回 プロレス研究家の面目躍如」
 



プロレスを好きになるきっかけ


──マハローさん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
 
マハローさん こちらこそよろしくお願いします!

──まずはマハローさんがプロレスを好きになるきっかけを教えてください。
 
マハローさん 父親や親戚がプロレスが好きで、当時金曜夜8時に日本テレビ系で日本プロレスの中継が流れていて、それを幼稚園の頃から見てました。プロレスを見た一番古い記憶は1968年1月3日蔵前国技館で行われたジャイアント馬場VSクラッシャー・リソワスキーだったんですよ。

──日本テレビ系の正月特番として放送された試合ですね。

マハローさん 試合後に血まみれになったリソワスキーが控室にジョー樋口さんが通訳をして徳光和夫アナウンサーのインタビューを受けて、徳光アナウンサーのマイクをかじるというシーンに号泣した記憶があります(笑)。

──ちなみにおいくつの時ですか?

マハローさん 3~4歳ですね。この日は国際プロレスが日大講堂で興行があって、日本テレビは夕方5時30分から1時間、国際プロレスを放映していたTBSは夜7時から30分とプロレス団体とテレビ局の双方で「隅田川決戦」と呼ばれる興行戦争が勃発したんですよ。

──日本プロレス史におけるテレビ戦争のさきがけですね。

マハローさん その通りですね。


初めてのプロレス会場観戦



──ちなみに初めて好きになったプロレスラーは誰ですか?

マハローさん 小学校1年生になってからアントニオ猪木さんが好きになったのが最初ですね。まだ若獅子と呼ばれていた日本プロレス時代の猪木さんで、馬場さん、大木金太郎さん、吉村道明さんと比べると若くてカッコいいんですよ。

──では初めてのプロレス観戦はいつ頃でしたか?

マハローさん 1972年7月24日日本プロレス・後楽園ホール大会ですね。これは馬場さんにとっては日本プロレス最後のシリーズだったんです。この大会を観戦した目的はミル・マスカラスの試合を見るためでした。

──マスカラスは日本プロレス末期に来日してますね。

マハローさん そうなんですよ。1971年3月に行われたミル・マスカラスVS星野勘太郎を見て、僕のプロレスファン人生が変わりました。僕にはマスカラスが漫画『タイガーマスク』の実写版に見えたんですよ。とにかく星野戦が凄くて衝撃を受けました。ダイビング・ボディアタック、フライング・クロスチョップ、ドロップキックといった飛び技が華麗で、しかも力強い。心技体が全部揃ったプロレスラーだったんですよ。

──それは星野さんが対戦相手だったということが大きいですね。

マハローさん はい。当時の日本プロレスのマッチメーカーだったのが吉村道明さんだったんですけど、試合の組み方が絶妙でした。この試合を金曜夜8時の中継の最初にやって、そこからゴングを買うようになりました。マスカラスの存在がプロレスマニアになる発端ですね。

──当時の日本プロレス界は劇画のようなヒーローがいなかったんですか?

マハローさん いなかったです。強いて言えば猪木さんになりますね。


日本プロレスの凄さと魅力


──ここでマハローさんの好きな団体・日本プロレスの凄さと魅力についてお聞かせください。

マハローさん  僕は幸いにもBI砲の試合も観ることができて、1971年のドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクに敗れた試合も見てます。千両役者であるBI砲が組んで日本プロレスを牽引していった、外国人レスラーはマスカラス以外は全員悪役にされてしまうんですよ。日本プロレスは大人のプロレスという感じでした。そこが魅力です。

──言わんとしていることは分かります。

マハローさん   日本プロレスは客席も大人が多くて、大人が楽しむ娯楽でした。そこが子供心にすごく憧れましたね。今考えると国際プロレスもいいんですけど、やっぱりストロング小林さんやグレート草津さんと、BI砲と比較すると役者が違うような気がします。
 
──BI砲の試合をご覧になられたということですが、試合はいかがでしたか?

マハローさん  BI砲がとにかく頼もしかったですよ。1971年から日本プロレスに来日する外国人レスラーが少しランクが落ちるんですけど、馬場さんと猪木さんは日本プロレスの二枚看板の凄さがあって試合は面白かったですよ。

──力道山が亡くなってから日本プロレスが傾くじゃないですか。そこに馬場さんと猪木さんというスターが現れますよね。この二人がいなかったら日本プロレスはなかったかもしれませんね。

マハローさん おっしゃる通りです。馬場さんの存在が特に大きいですよ。猪木さんメインのシリーズだと観客動員に苦戦していて、馬場さんは集客力があったので、やっぱり世間的には馬場さんなんですよ。

──猪木さんの集客力は新日本プロレス旗揚げ後からレベルアップしていくんですよね。

マハローさん はい。テレビ朝日の中継が始まって、ジョニー・パワーズからNWF王座を獲得してからですね。

──だから猪木さんはあくまでも馬場さんの次で日本プロレスのナンバー2という役割で、この二人が新日本プロレスと全日本プロレスを立ち上げるのは必然ですね。

マハローさん おっしゃる通りです。 


創世記の全日本プロレスの凄さと魅力


──ではマハローさんの好きな団体・ジャパンプロレス参戦前までの全日本プロレス(1972年~1981年)の凄さと魅力について語ってください。

マハローさん 旗揚げ時の全日本プロレスはアメリカンプロレスをやって、フレッシュさを感じました。馬場さんがいて、サンダー杉山さんがいて、ヒロ・マツダさんもマティ鈴木さんもいて、アメリカンテイストの団体でした。全日本はNWA会員だったので、来日するレスラーはテクニシャンが多かった印象があります。1972年に旗揚げして、その一年後にジャンボ鶴田さんがアメリカから凱旋します。鶴田さんも今までの日本プロレス界にはいなかったレスラーでした。身長も高くてカッコよくて。

──プロレス団体を料理のジャンルで例えると日本プロレスは和風仕立ての西洋料理という感じだったと思うんですけど、全日本プロレスはより西洋料理にシフトしていった感じですね。

マハローさん 全日本プロレスはバーベキューみたいですよね(笑)。

──全日本プロレスは柔道金メダリストのアントン・ヘーシンクのプロレス転向、世界オープン選手権、世界オープンタッグ選手権(現・世界最強タッグ決定リーグ戦)といった色々な企画をやっていたじゃないですか。こちらについてはいかがでしたか?

マハローさん マスカラスも来日してますし、1976年のテリー・ファンクVSジャンボ鶴田もいい試合だったんですよ。あとオープン選手権はメンツが凄くかったですね。


マハローさんが好きな7人のプロレスラー
テリー・ファンク

──ここからマハローさんには7人の好きなプロレスラーについて語っていただきます。まずはテリー・ファンクです。

マハローさん テリーほど時代ごとにブラッシュアップをしてファンの心を掴んでいるレスラーはいないですよ。1960年代のテリーは荒々しくて、1970年代はNWA王者になって、そこからファンクスで全日本の外国人エースになって、1980年代になると引退してから復帰して、1990年代はECWでハードコアをやって、ムーンサルトまでやっちゃうわけですよ。これほど自分をチェンジさせながらお客さんを喜ばせるレスラーはいないですよ。

──同感です。

マハローさん あとリング上でのやられっぷりと笑顔…本当に最高ですよ。しかも日本とアマリロ以外はヒールで闘っていて、その受けて受けて受けまくるというスタイルは善玉でも悪玉でも変わらないのがテリーの魅力ですね。


マハローさんが好きな7人のプロレスラー
ジャンボ鶴田


──ECWに関しては代表のポール・ヘイマンが「昔のレスラーは自分の権威や威厳を守ろうとして、若いレスラーに胸をあまり貸さないけど、テリーは若手レスラーに胸を貸してくれた、これによって若手レスラーが成長した」と言ってましたね。次にジャンボ鶴田さんですね。

マハローさん 天才ですよ。国内デビュー戦のムース・モロウスキー戦(1973年10月6日・後楽園ホール)から最後の試合(1998年9月11日・日本武道館/ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田&ラッシャー木村VS渕正信&永源遙&菊地毅)まで見守ってきました。だから鶴田さんに対する思い入れが本当に強いんですよ。

──鶴田さんの26年のレスラー人生を見られてきたんですね。

マハローさん 鶴田さんが『チャイニーズ・カンフー』の頃までは大好きでしたが、『ローリング・ドリーマー』をテーマ曲にしていた頃はあまり好きになれなかったんです。パンチパーマかけたり、ちゃらんぽらんな試合をし始めたのが1980年代前半でした。天龍源一郎さんと鶴龍コンビを組むようになって、インター王座やAWA世界王座を奪取してからまた鶴田さんが好きになりましたね。馬場さんの顔面をドロップキックを入れちゃう鶴田さんの身体能力が桁違いに凄いですよ。

──ちなみに具体的にお聞きしますが、マハローさんは鶴田さんのどの部分が天才だと感じますか?

マハローさん 猪木さんが「プロレスに必要なのはパワーではなく、スタミナだ」と言われていたそうですが、もうスタミナがバケモノですよ。フロントスープレックスやジャーマンスープレックスとか殺人的な技もありますし、あのビル・ロビンソンと60分フルタイムを何度もやっているレスラーは鶴田さんしかいない。それは身体能力と技術力の高さがあったからこそロビンソンと長期戦でも対抗できたのだと思います。これはそっち方面の実力も含めての話で、滅多に出しませんが。

──そうですよね。

マハローさん 全日本系のレスラーは隠しますね。本当はできるんですよ。できないとアメリカに行って半殺しにされますから。そっち方面も強くなければアメリカでは生きていけないですよ。新日本は試合前にお客さんに練習を見せますけど、全日本は試合前に練習を見せないじゃないですか。その団体の方針もあるから、強さは見えにくいんですけど、全日本は人前ではないところでスパーリングをやっていたはずだと考えています。

──もうひとつお聞きします。よく「ジャンボ鶴田最強説」というものがありますが、マハローさんはこの点についてどのように思われますか?

マハローさん これは支持しますね。個人的な意見ですが、鶴田さんは猪木さんといい勝負だったのかなと思います。例えていうと日本刀を構えた勝負だったら猪木さん、木刀を構えた勝負なら鶴田さんが有利だったのかなという感じですね。猪木さんだけと目の中に手を入れたりとか裏技を織り交ぜて勝つかもしれないけど、鶴田さんはそういうことをしないで体力とテクニックで勝つのかなと。

──生まれ持った才能で勝つということですね。

マハローさん だから鶴田さんは読んで字のごとく天才なんですよ。天龍さんが「鶴田さんを怒らせようとしても、その場は怒るけどすぐ冷めちゃう」と言ってましたよね。

──鶴田さんは天龍さんが絡むと熱くなるんですけど、他の試合になるとドライな感じの通常運転の試合になるんですよ。

マハローさん そうなんですよ。天龍さんだから鶴田さんは「なにクソ!」と思うんですよ。だから首から落とすパワーボムをやっちゃうわけで。あと長州力さんとの一戦で60分時間切れ引き分け(1985年11月14日・大阪城ホール)とか長州さんが後半スタミナ切れを起こしてましたから。全日本は基本的に相手の技を受けるところから始まるじゃないですか。日本プロレス、国際プロレス、全日本プロレスは受けから始まるプロレスなんですよ。新日本は攻めるスタイルなので、新日本出身の長州さんは攻め疲れもあったのかもしれません。

──鶴田さんは鶴龍対決や超世代軍との抗争で、試合で奥深さを見せるようになった気がします。特に超世代軍相手になると、えげつなさも加わって、色々な引き出しを開けてあの手この手で追い詰めるようになって、そこに受けもやって相手の力を引き出す。やっぱり鶴田さんは凄いプロレスラーだなと思いましたよ。

マハローさん そうですよね。


マハローさんが好きな7人のプロレスラー
マーク・ルーイン

──ここでマハローさんはマニアックな人を好きなレスラーにチョイスしています。マーク・ルーイン(極太の腕で相手を絞め上げる「アナコンダ殺法」スリーパー・ホールドが必殺技の「毒蛇」と呼ばれたアメリカ人レスラー)について語ってください。

マハローさん マーク・ルーインほど素晴らしいレスラーはいないですよ。元々はニューヨークでドン・カーティスと組んでいて、このドン・カーティスというのがシューターなんですよ。このマーク・ルーインも強者で、ニュージーランド、オーストラリア、ニューヨーク、ロサンゼルスではベビーフェースだったんです。フロリダ、デトロイト、あと来日する頃にはヒールレスラーになっていて、ジキルとハイドですよ。

──そこからケビン・サリバンと絡むからクレイジーな路線になるんですよね。

マハローさん そうです。パープルヘイズになったでしょ。単なる悪役レスラーではなくて、バックボーンから考えると恐ろしいレスラーなんです。

──後に第一次UWFで高田延彦(当時は伸彦)さんとシングルマッチをやって、ボコボコにされて敗れたと言われてますよね。

マハローさん これは僕のYouTubeチャンネルで検証していて、本当はマーク・ルーインが高田さんを子供扱いしているんですよ。高田さんにボコボコに蹴られていませんし、週刊プロレスが彎曲した記事を書いたんですよ。高田さんのローリングソバットを手でよけている写真を見てボロボロになったと言われてますけど、試合はマーク・ルーインが高田さんを子供扱いしていて、最後は敗れたという感じですね。

──今の話を聞くと、第一UWFも方向性が定まっていなかったので、ある程度ルールが整備されてきた時の第二次UWFやUWFインターナショナルでマーク・ルーインの試合が見たかったですね。

マハローさん それでも彼なら対応できたと思いますよ。



マハローさんが好きな7人のプロレスラー
アントニオ猪木

──ありがとうございます。次にアントニオ猪木さんについて語ってください。

マハローさん 「若獅子」から「燃える闘魂」に変貌して、あれほどリング上で喜怒哀楽を表現できるプロレスラーは猪木さんしかいないですよ。先日、闘道館で鈴木秀樹さんと一緒にイベントをやりましたけど、鈴木秀樹さんは猪木さんから「怒りをリング上で表現しろ」と言われたらしいんですよ。思えば猪木さんほど四方八方に怒りを見せた人はいなくて、怒りのあまりによだれを垂らすほどですよ。

──そうですよね。

マハローさん 恐らく当時の奥様だった女優の倍賞美津子さんの影響もあったと思います。ガウンの脱ぎ方とかリング上のポーズ、表情の作り方とか。「若獅子」が「燃える闘魂」になっていった過程には倍賞美津子さんとの試行錯誤があって、それをスパイスにしていったのかなと思います。

──倍賞美津子さんがいたから「燃える闘魂」は誕生したわけですね。

マハローさん その通りです。1974年にアンドレ・ザ・ジャイアントが来日したときに、新日本はWWWF(現・WWE)のビンス・マクマホン・シニアと契約しているんですよ。だから他のWWWFレスラーも呼べるわけですけど、あまり呼ばずにタイガー・ジェット・シンとかジョニー・パワーズといった高くないギャラで呼べるレスラーを来日させました。新間寿さんや大塚直樹さんに「本当はギャラの高いレスラーを呼べたんじゃないですか」というと「何言っているんだよ」とごまかされたことがあって、でも本当はWWWFのレスラーをもっと呼べたはずですよ。でも無名の外国人レスラーを呼んで自前でスターにした方が経費が安くなりますし、営業利益を上げるために猪木さん一本で勝負して、対戦相手は誰でもいいというスタンスで当時の新日本はやってたんですよ。

──猪木さん頼みということですね。

マハローさん 猪木さんの一枚看板でお客さんを呼べますし、千両役者として猪木さんは頑張りましたし、異種格闘技戦も先駆者としてやってきたのも新間さん、大塚さん、猪木さんのアイデアですよね。

──コストを抑えながら集客する能力に長けていたのが実は新日本なんですよね。

マハローさん そうなんですよ。新日本はものすごく営業が強い会社なんですよ。全日本は北海道や東北は強かったけど、東日本はあまり営業が強くなかったり、西日本になると、ある興行会社に丸投げしてしまうわけで、営業力がそれほど強いわけではない。でも新日本は全国的に営業が強い。だから猪木さんがどの外国人レスラーと試合をしてもお客さんが入るんです。

──新日本は営業が強いイメージがものすごくあります。

マハローさん だから新間さんが「新日本はNWAに外国人レスラーを取られていて、あまり呼べない」とストーリー付けにしてしまって、コストを抑えめに運営をしていったので本当に猪木さん、新間さん、大塚さんもそうですが、頭がいいですよ。

──最初はカール・ゴッチがブッキングを担当していた時は外国人レスラーも知名度の低い選手が多かったですよね。

マハローさん そうなんですよ。1973年4月に坂口征二さんが日本プロレスから新日本に移籍しますよね。実は「外国人レスラーのブッキングが弱い」という新日本の課題があって、坂口さんがデトロイト時代のマネージャーのクライベイビー・カノンが1972年の年末に日本プロレスに来日していて、そこで話をつけているんですよ。坂口さんが新日本に移籍してからジョニー・パワーズとか坂口・デトロイトルートから外国人レスラーが来日するようになったんですよ。

──坂口さんは新日本移籍の際に海外ルートも持ってきてくれたということですか?

マハローさん 要するにNWFベルトをお土産にして坂口さんは新日本に移籍してきたわけですよ。この部分はあまりスポットライトに当たってませんけど、モントリオールのジャック・ルージョーのテリトリーで活躍するレスラーや、デトロイトのザ・シークが新日本に参戦しているのも坂口さん効果ですね。これはジョニー・パワーズのインタビューとかで明らかになった話です。

──これは個人的には新事実ですよ。

マハローさん あとアンドレと新日本を繋いだのはマイク・ラーベルとビンス・マクマホンと言われてます。これは坂口さんが新日本に移籍すると、遠藤幸吉さんがテレビ解説に加わるんですけど、遠藤さんがロサンゼルスとパイプがあったので、遠藤さん経由でマイク・ラーベルと繋がったわけです。

──なかなか興味深いです。今の話を聞くと全日本は資金力はあるとはいえ、お客さんの期待に答えるために豪華外国人レスラーたちを来日させるということを愚直にやっているじゃないですか。新日本はある意味、ずる賢いですね(笑)。

マハローさん 本当にそうですよ。それなのに、猪木さんは馬場さんと闘いたいとか、色々な障害があるに言っていたわけですから。

──以前、猪木さんが馬場さんに送ったとされている対戦要望書を読ませていただいたのですが、その文面の最後には「猪木寛至」と署名されていますが、「新間寿」という名前が浮き出すような内容でしたからね(笑)。

マハローさん ハハハ(笑)。新間さんは煽りの天才ですからね。猪木さんにとって素晴らしい参謀だったと思います。猪木さんや新間さんについて語っている話は確定というよりは僕の推測ですから。


マハローさんが好きな7人のプロレスラー
マイティ井上


──ありがとうございます。これでマハローさんの好きなプロレスラーは4人語っていただきました。残りは3人います。次はマイティ井上さんです。

マハローさん 井上さんが好きな人って多いんですよ。全日本プロレス時代もよかったですけど、やっぱり国際プロレス時代の井上さんが素晴らしかったんです。なんでもできるし、華やかさもあって、どんなレスラーと対峙しても相手のスタイルに合わせてプロレスができて、アメリカの強豪選手たちからも一目置かれる存在でした。

──ヨーロッパのスタイルにも井上さんは対応しますよね。

マハローさん そうですね。1972年にディック・ザ・ブルーザーとクラッシャー・リソワスキーが国際プロレスに来日して、井上さんが東京体育館でストロング小林さんと組んで試合をしたんですけど、ブルクラをきりきり舞いさせてましたよ。最後はフォール負けを取られましたが、どんなレスラーでも対応できて、例えリング上で仕掛けられても返せるのが井上さんの凄さですよね。

──本当に実力者ですよね。

マハローさん あとアニマル浜口さんと組んで、ヤマハ・ブラザーズ(山本小鉄&星野勘太郎)とIWA世界タッグ王座を賭けて対戦したじゃないですか。僕は井上さんに「星野さんの方が硬いんじゃないですか?」と聞くと「星野さんは柔軟で、山本小鉄の方が断然に硬いよ」と言ってましたよ、

──そうなんですね!意外なように見えますけど、妙に納得です。僕は国際プロレス時代の井上さんの試合はDVDで散々見ました。井上さんほど国際プロレスを体現しているレスラーはいないと思います。

マハローさん おっしゃる通りです。

──国際プロレスの理念が「アマチュア・レスリングの技術を基礎として本格的なプロレスの確立」だったんです。井上さんと浜口さんが前座で試合をしていた時の映像を見ると前半は本当にレスリングの攻防なんですよ。国際プロレスが本当にやりたかったことを具現化していたのが井上さんなんじゃないですか。

マハローさん そうですよね。だから井上さんにIWA世界ヘビー王座を取らせて、バーン・ガニアとAWA世界ヘビー王座のダブルタイトルマッチをやらせたんです。

──井上さんは全日本プロレスに行ってからは国際プロレス時代ほど活躍が目立たなくなりましたよね。

マハローさん はい。実は以前闘道館での井上さんのトークショーで聞いた話ですが、国際プロレス崩壊後、井上さんは、冬木弘道さん、アポロ菅原さん、米村天心さんと共に全日本に移籍しますよね。阿修羅・原さんが門馬さんルートから全日本に移籍するんですけど、その時に馬場さんが「阿修羅を上に行かせるからお前はナンバー2だよ」という話が井上さんにあって、井上さんは了解したそうです。だから全日本移籍後の井上さんはジュニアに転向したり、アジアタッグ王者になったり中継という立ち位置になったんです。

──その条件を飲むわけですから、よっぽど井上さんは新日本に行きたくなかったんですか?

マハローさん 新日本が大嫌いですから、井上さんは。


マハローさんが好きな7人のプロレスラー
ドン・ジャーディン(ザ・スポイラー、スーパー・デストロイヤー)


──ハハハ(笑)。次がこれがマニアックですね!覆面レスラーザ・スポイラー、スーパー・デストロイヤーとして活躍したドン・ジャーディン(193cm 128kgの巨漢レスラーで、ジ・アンダーテイカーの師匠として有名。トップロープからのエルボーやニー攻撃を得意としていた。ロープワークの巧みな選手として知られ、アンダーテイカーが得意にしているオールドスクールの元祖である)です。

マハローさん 彼は覆面レスラーなんですけど、表情に怖さがあって、アンダーテイカーの師匠としても有名ですよね。ロープをこれほど有効的に使うレスラーはいなくて、なおかつブレーンクローという必殺技もある。本当に惚れ惚れする試合をするんですよ。

──これは教えていただきたいのですが、ドン・ジャーディンの試合運びはアンダーテイカーのような感じなのですか?

マハローさん そうですね。ロープから飛んだり、ロープを使って首を絞めたりする攻撃が多いんですよ。1980年代後半までダラスやWWFでトップで出てましたよね。

──今の話を聞くと巨漢で動けるレスラーっているじゃないですか。その先駆者のような感じですか?

マハローさん その通りです。デストロイヤーが背が大きくないのですが、レスリングができる選手で、スーパー・デストロイヤーは190cm以上あって、デカいのに鷲のようにひらひらとコーナー最上段から降ってくる感じですね。


マハローさんが好きな7人のプロレスラー
ミル・マスカラス


──ありがとうございます。ここで7人目の好きなプロレスラーは、ミル・マスカラスです。

マハローさん 本当に唯一無二のレスラー。世界の千両役者ですよ。

──同感です。

マハローさん メキシコ人覆面レスラーとして、世界中どこでもトップを取ったレスラーはこの人しかいません。昔はMSGには覆面レスラーは出場できなかったんですけど、それを認可させたのはマスカラスなんです。日本でもマスカラスが来日した頃にプロレスブームを起こして、ニューヨークでもブームを巻き起こした。IWAという団体があって、そこの団体オーナーがMLBシカゴ・ホワイトソックスを保有する億万長者で、テレビ局も持っていて、その人が世界中にテレビの試合を流すときに団体のエースにしたのはマスカラスでした。

──マスカラスは自分のエゴを最後まで押し通せた成功者だと思うんですよ。

マハローさん それには理由があって、マスカラスは集客力があるからですよ。会場を超満員にするんですよ。だからプロモーターに重宝される。マスカラスに嫉妬してシュートを仕掛けたとしてもマスカラスが強いから対応してしまうんです。どんな会場でも満員するから世界中のプロモーターはマスカラスを千両役者として扱ったのです。

──集客力があるレスラーはプロモーターは大事にしますよね。

マハローさん マスカラスは最後まで自分のスタイルを変えなかったんですよ。テリー・ファンクもアンドレ・ザ・ジャイアントもダスティ・ローデスも途中でキャラクターとかスタイルをモデルチェンジしましたが、マスカラスがずっとベビーフェースなんですよ。これはとんでもなく凄いことですよ。

──そうですよね。

マハローさん あとこれは話したいことですが、1974年にマスカラスがドイツのミュンヘンに行っていて、トーナメントに参加して長州力さんに勝って、ローラン・ボックに敗れているのです。これが日本のマスコミでは「マスカラスがドイツでコテンパンにやられて負けた」と報道されたのですが、マスカラス曰く「ボックはプロレスができない男だから、白星は献上した」ということらしいです。

──これはなかなか意味深ですね。

マハローさん ルチャ・リブレの選手は飛んだり跳ねたりのイメージがありますけど、ちゃんとシュートのトレーニングを道場で積んでからデビューしているんです。以前DEEPで日本人選抜とルチャ軍団の対抗戦がありましたね。そのルチャ・リブレのトップで、しかもレスリングで五輪代表になったマスカラスが弱いわけがなくて、本当に強いんですよ。マスカラスは日本ではダイビングボディアタックがフィニッシャーだったんですけど、アメリカではベアハッグが得意だったんですよ。日本ではベアハッグはやらなかったのは、お客さんがそれを要求していないからお客さんの期待に応えるために飛び技をメインにしていた。そんなマスカラスが僕は大好きなんですよ。

(第1回終了)






 

 ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 今回のゲストは、東京にある「雑誌・書籍の聖地」書泉グランデ / ブックタワーにおいて格闘技(統括)担当をしている長井義将さんです。

 

 
 
(画像は本人提供です) 

 

長井 義将(ながい よしまさ)

1992年2月17日、兵庫県生まれ。2018年に株式会社書泉に入社。書泉ブックタワーのプロレス(格闘技)担当となる。2020年には『書泉制定 プロレス本大賞』を企画し好評を得る。2023年9月からは書泉グランデ、書泉ブックタワーの両店舗のプロレス(格闘技)担当を兼任。書籍の刊行記念企画を中心に両店舗にてイベントの企画運営を行っている。

X(旧Twitter):書泉_プロレス(@shosen_prowres)

 

 

(書泉グループ)

書泉グランデ

〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-3-2

TEL:03-3295-0011(代表)

FAX:03-3295-0019    

神保町・書泉グランデB1F プロレス&格闘技コーナー 

 

書泉ブックタワー

〒101-0025 東京都千代田区神田佐久間町1-11-1

TEL:03-5296-0051(代表)

FAX:03-5296-0059

秋葉原・書泉ブックタワー 4F プロレス&格闘技コーナー

 

 

(インフォメーション)

「書泉」が本気で作ったカレーです!

「神田カレーグランプリ2023」×「北斗の拳」コラボカレー販売中!

 

8月1日から神田界隈で開催されている「神田カレーグランプリ」に、今回は、今年40周年を迎える「北斗の拳」とのコラボ企画の一環として、書泉では36チャンバース・オブ・スパイス(渋谷区)と共同開発した「ケンシロウ愛のビーフカレー(ビーフビンダルーカレー)辛口」及び「ラオウ悔いなしチキンカレー(バターチキンカレー)中辛」(各税込950円)を連載開始記念日の北斗の拳の日にあたる9月13日から販売しております。

カレーのスパイシーな「熱さ」と「北斗の拳」の作品の「熱さ」、そして神田の街を盛り上げたいという「熱さ」が組み合わさり奇跡のコラボカレーが誕生しました!

他にも「コラボキービジュアル入り ステンレスマグカップ」(税込1,650円)を始めとした各種グッズも販売中です。

書泉グランデ、書泉ブックタワー、書泉オンライン、芳林堂書店高田馬場店、芳林堂書店みずほ台店でお買い求めできます。

書店が本気で作ったカレーです。是非とも皆さま、この「熱さ」を体感して下さい。

 

 

 

 

 

(画像は本人提供です) 

 

 

 

 

書泉さんといえば、かなりマニアックなジャンルの本を多数販売している「雑誌・書籍の聖地」で、プロレス本もめちゃくちゃ豊富で、また数多くのイベントも手掛けているので、プロレス界にとって本当にありがたい存在です。

 

「私、プロレスの味方です」と言わんばかりの活動をされてきた書泉さんにおいて、グランデさんとブックタワーさん双方でプロレスや格闘技を統括している長井さんは、プロレスや格闘技部門における書泉の番人なのです!

 

 

 
今回はそんな長井さんのプロレス話をお聞きしました。
 
 
是非ご覧ください!




 
 
 
私とプロレス 長井義将さんの場合「最終回(第3回)書泉プロレス担当者としての夢」
 
 
 
長井さんが選ぶプロレス名勝負とは?
 
 
──ここで長井さんの好きなプロレス名勝負を3試合選んでいただいてよろしいでしょうか?
 
長井さん 僕は実際に見に行った試合から選びました。まずは2020年8月29日・新日本神宮球場大会のEVIL VS 内藤哲也のIWGPヘビー級&インターコンチネンタル二冠戦です。
 
──大会のエンディングで花火が打ちあがったんですよね。
 
長井さん そうなんですよ。週刊プロレスの表紙にもなりましたが、寝転がった内藤さんのバックに花火が打ちあがってましたね。この試合の一か月前にEVILさんが内藤さんを裏切って、ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンを離脱してBULLET CLUBに加入するんですよね。
 
──その通りです。
 
長井さん あの頃はコロナ禍で無観客興行が多かったですよね。新日本が神宮球場でやる。しかも有観客ということで、行きたいなと思いまして。これが初めての野外で見るプロレス興行でした。この日はものすごく熱かったのをよく覚えています。
 
──確か新日本・神宮球場大会はかなり異色で、コロナ禍で声を出せない観客に向けて、プロ野球やサッカーで使われていた「リモート応援システム」が導入されたんですよね。
 
長井さん 観客席にQRコードがあって、それをスマホに読み込んでやるんですよ。声援とブーイングのボタンがあって、押すとスピーカーから流れるというシステムだったんですよ。ただ野外なんで全然聞こえなかったんです(笑)。
 
──もしかしたら「リモート応援システム」は屋内向けだったかもしれませんね。
 
長井さん そうかもしれないです。
 
──実際に「リモート応援システム」はこの神宮球場大会しかやってませんから。申し訳ないですけど、あれはいらなかったかもしれませんね。
 
長井さん ハハハ(笑)。
 
──試合はいかがでしたか?
 
長井さん まずベンチから入場してきた内藤さんがガムを嚙みながら、真っ白のスーツで登場したので、「タイトルマッチ仕様だ!」と思いましたね。神宮球場大会は夕方から興行がスタートした時は明るかったんですよ。そこから段々試合順がメインイベントに向かっていくと周りも暗くなっていくという自然の演出が最高でした。そしてメインイベントになると真っ暗になってそこにレーザー光線が当たる入場シーンがカッコいいんですよ。やっぱりプロレスは入場なんですよ。
 
 
柴田さんの復帰戦を現地で立ち会えたのは嬉しかった
 
 
──ありがとうございます。では2試合目をお願いします。
 
長井さん 2022年1月4日・新日本東京ドーム大会の柴田勝頼VS成田蓮です。この試合が柴田さんの復帰戦でした。この時、柴田さんの対戦相手が発表されてなくて、誰が来るのかと思っていたら成田さんだったんです。「成田さんでいいのかな」という想いもありましたけど、試合を見ると柴田さんの復帰戦は成田さんでよかったですね。
 
──成田選手は新日本LA道場で柴田選手の指導を3年間受けてきた柴田さんの愛弟子ですよね。
 
長井さん  そうですよね。この試合前に柴田さんのマイクパフォーマンスがあって、これがカッコよかったんです。柴田さんの「ルールを変更しよう。プロレスだ。やれんのか?おい!」というマイクからグラップリングルールからプロレスルールになって、あのシーンがカッコよくて…。柴田さんの復帰戦を現地で立ち会えたのが本当に嬉しかったですね。
 
──柴田選手は急性硬膜下血腫という怪我があって、頭部にダメージを負うことでさらなる事故が[k3] 起こることを考慮して、グラップリングルールになったという経緯があったので、まさかプロレスルールになるとは想像してなかったですね。
 
長井さん 試合後に成田さんが泣いていて、柴田さんが抱きしめるんですよね。うん。僕が理想とする男のカッコよさがあの日の柴田さんの試合に全部凝縮していたように感じました。

──ありがとうございます。では3試合目をお願いします。
 
長井さん 2023年2月21日ノア東京ドーム大会の武藤敬司VS内藤哲也です。武藤さんの引退試合です。僕は武藤さんの全盛期は見ていませんが、プロレスの歴史を知っていくと絶対に武藤さんの名前は出てくるじゃないですか。長い間、プロレス界を支えてきたレジェンドの引退試合。これは書泉のプロレス担当者として、その場にいなければいけないなと思いまして現地で観戦しました。しかも対戦相手が僕の好きな内藤さんだったので余計に見に行かなければと思いました。
 
──そうだったんですね。
 
長井さん 内藤さんは元々、武藤さんに憧れてプロレスラーになって、その武藤さんの引退試合の相手になるというのが凄いですよね。
 
──さまざまな選択肢もあって、やりたかった選択がある中で内藤選手が選ばれたわけですから。
 
長井さん 内藤戦の後に、武藤さんが蝶野正洋さんを呼んで、タイガー服部さんをレフェリーで呼んで、エキシビションマッチをやったじゃないですか。あれは感動しましたよ。ノアのリングなんですけど、1990年代新日本の世界でしたね。
 
──あれは今のノアだからこそできたと思います。もし武藤さんの引退試合が新日本でやったとしてもあれはできないでしょうね。新日本の猪木さん追悼興行を見ると、色々な試合の中のひとつに猪木さん追悼というテーマがあったような気がします。ノアでやった武藤さんの引退興行はさまざまな試合が組まれていましたが、武藤さん引退という大きなテーマで勝負していて、そこまで振り切れたのは今のノアだったからだと思います。
 
長井さん この日は平日で、僕は仕事を休んで行ってグッズを買うために早めに行ったんですけど、朝からすごい人が多かったですよ。
 
 
──武藤さんの引退試合を見るために地方から密航している人も多かったんですよ。
 
長井さん そうだったんですか!僕は友達と一緒に行って、その友達はそこまでプロレスを知らなかったんですけど、そこからプロレスにハマっているんですよ。

──素晴らしいです!
 
長井さん あと演出がよかったんですよ。過去に使っていた武藤さんのテーマ曲を繋いでいくところとか。
 
──あれは昭和プロレステーマ曲研究家のコブラさんに確認すると、「あれは恐らく全日本プロレスの木原文人さんが作ったものだと思われる。細かい繋ぎ方とかは木原さんにしかできない」と言ってましたね。
 
長井さん よくそれが分かりますね(笑)。
 
──プロレステーマ曲の奥深さはコブラさんから色々と教えていただきましたよ。
 
長井さん コブラさんはディープですよね。
 
──プロレス本はただでさえディープな世界なのに、さらに奥底にある世界を探求されているのがコブラさんなんですよ。
 
長井さん うちでもコブラさんが出された『昭和プロレステーマ曲大事典』(辰巳出版)のイベントをやってもらったんですけど、途中で何の話をしているのか[k5] わけがわからなくなりましたから「この試合だけ使われた選手のテーマ曲」とか「この選手のテーマ曲となったこの曲は原曲じゃなくてアレンジが使われた」とか。本当にいい意味で変態ですよね(笑)。
 
 
──ハハハ(笑)。同感です。プロレスを愛しているという以前に、プロレステーマ曲を愛しているんですよ(笑)。ただこの世界はテレビや映画の映像業界、ゲームや音楽とか知っていないと研究できなくて、当時の時代背景とかも押さえていないといけないので、ディープで奥が深いんですけど、プロレスだけの知識ではテーマ曲研究はできないんですよね。
 
 
長井さん 本当に凄い世界ですね…。
 
 
今後について
 
 
──ではここで長井さんの今後についてお聞かせください。
 
長井さん もちろんやれるところまでプロレス担当を続けます。あと僕の夢は書泉がスポンサーになってプロレス団体を作れたらいいですね。メガネスーパーみたいに(笑)。
 
 
──ハハハ(笑)。
 
長井さん 書泉が認定するチャンピオンベルトが創設されて、僕が試合前にリングに上がって認定証を読むとか。書泉プロレス発のプロレスラーを生み出したり。
 
──マスクマンとかいいかもですね。「マスクド・書泉」とか。
 
長井さん いいですね!クラウドファンディングで資金を募ったりとか。
 
 
長井さんにとってプロレスとは?

 
──素晴らしいアイデアです。是非実現させてほしいところです。では最後に長井さんにお聞きします。あなたにとってプロレスとは何ですか?
 
長井さん ありがたいことにプロレスは僕の人生の中心になっています。プロレスを知って、書泉でお仕事するようになって、プロレス担当となり、色々な皆さんと出逢って、色々な企画を開催してきました。あとフリーターの時期があってふらふらしていた僕が書泉で正社員になることができました。プロレスに集中できて、正社員になって生活できている。そう考えるとプロレスは…人生であり、趣味ですね。今はそれが仕事になっているんです。プロレスから離れようとも思わないですし、離れないと思います。多分これからもずっとプロレスのことが好きでいるような気がします。僕がプロレスの書籍を売ることで、プロレスファンが増えてほしくて、知らない人がプロレス書籍からプロレスを好きになってくれたら嬉しいでしょうね。
 
──ありがとうございます。これでインタビューは以上となります。長井さん、長時間の取材にご対応いただきありがとうございます。今後のご活躍とご健康を心よりお祈り申し上げます。
 
長井さん こちらこそありがとうございました。
 
(「私とプロレス 長井義将さんの場合」完/第3回終了)
 
 
 
 
 
 
 


 

 ジャスト日本です。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 今回のゲストは、東京にある「雑誌・書籍の聖地」書泉グランデ / ブックタワーにおいて格闘技(統括)担当をしている長井義将さんです。

 

 
 
(画像は本人提供です) 

 

長井 義将(ながい よしまさ)

1992年2月17日、兵庫県生まれ。2018年に株式会社書泉に入社。書泉ブックタワーのプロレス(格闘技)担当となる。2020年には『書泉制定 プロレス本大賞』を企画し好評を得る。2023年9月からは書泉グランデ、書泉ブックタワーの両店舗のプロレス(格闘技)担当を兼任。書籍の刊行記念企画を中心に両店舗にてイベントの企画運営を行っている。

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(書泉グループ)

書泉グランデ

〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-3-2

TEL:03-3295-0011(代表)

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秋葉原・書泉ブックタワー 4F プロレス&格闘技コーナー

 

 

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「書泉」が本気で作ったカレーです!

「神田カレーグランプリ2023」×「北斗の拳」コラボカレー販売中!

 

8月1日から神田界隈で開催されている「神田カレーグランプリ」に、今回は、今年40周年を迎える「北斗の拳」とのコラボ企画の一環として、書泉では36チャンバース・オブ・スパイス(渋谷区)と共同開発した「ケンシロウ愛のビーフカレー(ビーフビンダルーカレー)辛口」及び「ラオウ悔いなしチキンカレー(バターチキンカレー)中辛」(各税込950円)を連載開始記念日の北斗の拳の日にあたる9月13日から販売しております。

カレーのスパイシーな「熱さ」と「北斗の拳」の作品の「熱さ」、そして神田の街を盛り上げたいという「熱さ」が組み合わさり奇跡のコラボカレーが誕生しました!

他にも「コラボキービジュアル入り ステンレスマグカップ」(税込1,650円)を始めとした各種グッズも販売中です。

書泉グランデ、書泉ブックタワー、書泉オンライン、芳林堂書店高田馬場店、芳林堂書店みずほ台店でお買い求めできます。

書店が本気で作ったカレーです。是非とも皆さま、この「熱さ」を体感して下さい。

 

 

 

 

 

(画像は本人提供です) 

 

 

 

 

書泉さんといえば、かなりマニアックなジャンルの本を多数販売している「雑誌・書籍の聖地」で、プロレス本もめちゃくちゃ豊富で、また数多くのイベントも手掛けているので、プロレス界にとって本当にありがたい存在です。

 

「私、プロレスの味方です」と言わんばかりの活動をされてきた書泉さんにおいて、グランデさんとブックタワーさん双方でプロレスや格闘技を統括している長井さんは、プロレスや格闘技部門における書泉の番人なのです!

 

 

 
今回はそんな長井さんのプロレス話をお聞きしました。
 
 
是非ご覧ください!




 
 
私とプロレス 長井義将さんの場合「第2回 『書泉制定プロレス本大賞』誕生秘話」
 




『書泉制定プロレス本大賞』が誕生した理由

──長井さんが書泉に入社されたのはいつ頃ですか?
 
長井さん 6~7年くらい前ですね。 最初はバイトで入りまして、レジ業務や接客を担当してました。入ってから2年後にプロレス担当になりまして、そこから『書泉制定プロレス 本大賞』を2020年に立ち上げました。

──ちなみに『書泉制定プロレス本大賞』はどのような経緯から誕生したのですか?

長井さん 上司から「新しい企画を考えてほしい」と言われまして、プロレス担当になって人脈もでき始めて、色々な経験を積みまして、「じゃあ、何をするのか」ということですよ。プロレス界の大きなイベントでパッと思い浮かんだのが『東京スポーツ制定プロレス大 賞』だったんです。


──確かに『東京スポーツ制定プロレス大 賞』は毎年恒例の風物詩になってますね。

長井さん はい。本屋業界には『本屋大賞』(2004年にNPO法人・本屋大賞実行委員会が運営。新刊を取り扱う書店員の投票でノミネート作品と受賞作が決まる文学賞)があるじゃないですか。ならば、『プロレス大賞』と『本屋大賞』を組み合わせればいい。それで生まれたのが『書泉制定プロレス本大賞』だったんです。


──これは名案だと思います。『書泉制定プロレス本大賞』はプロレス本を手掛ける皆さんからすると、目標を設定していただき、モチベーションを上げてくれたような気がして、本当に感謝しかないですよ。受賞者のコメントとか掲載されたり、イベントもあったり、プロレス本の価値を高めてくれたと思います。

長井さん ありがとうございます!



──この『書泉制定プロレス本大賞』は2020年の第1回が『引きこもりでポンコツだった私が女子プロレスのアイコンになるまで』(岩谷麻優 著/ 彩図社発行)、2021年の第2回が『グレート・ムタ伝』(武藤敬司 著/ 辰巳出版 発行)、2022年の第3回が『白の聖典』(中野たむ 著 / 彩図社)がMVP(最優秀プロレス本大賞)を獲得しています。

長井さん 3回のうち2回は彩図社さん、編集者のGさんがMVPを取っていて、ワニブックスの編集者さんから「また彩図社さんじゃないですか」と言われましたよ(笑)。

──彩図社さんとGさんは今のところ、ミスター『プロレス本大賞』ですよ(笑)。私も2冊出させていただきましたので、いつもお世話になっていますよ。

長井さん ひとつお聞きしてよろしいですか?ジャストさんにとって、Gさんはどんな編集者ですか?


──Gさんはやりやすいですよ。

長井さん 書き手から見て、やりやすい編集者とやりにくい編集者はいるのですか?

──私は運がよくて素晴らしい編集者さんに恵まれていますけど、Gさんは一番やりやすい編集者です。こっちが望んでいることを一旦、受け入れてくれるんですよ。そのうえで、うまい具合に最終的にはGさんが導きたい方向にこっちが導かれているような感じがして、相手を自然と納得させて作品の最良の方向に誘導する。それはGさんが思い描いている正解で、しかもちゃんと書き手により沿っている人だから、こっちも乗り気になっているんです。そんな編集者は私が出会った限りはGさんだけでした。


長井さん そうなんですね!それは興味深いですね。

──彩図社さんはエッジの効いたプロレス本が多くて、読者に刺さっているような気がしますね。あと著者に優しいのが彩図社さんですね。去年、書泉さんで著書『プロレス喧嘩マッチ伝説』のサイン本を置かせていただいて、私が東京遠征の際に書泉さんにGさんと営業の方と訪問して、控室でサインを書かせていただきましたよね(笑)。


長井さん あのサイン本、お陰様であっと言う間に売り切れましたよ。
 
 
 

「趣味の本屋」書泉がプロレスに力を入れる理由


──ありがたい話です!では次の話題に移りますが、書泉で実際に働いてみてどのような職場でしたか?

長井さん 書泉って普通の書店とは違いますよね。本当に「趣味の本屋」と謳っているだけあって、いい意味でスタッフも変わってる人が多いですね(笑)。僕もプロレス・格闘技担当として自由にやらせてもらってます。あと最近は社長が変わったんですけど、その社長が「もう新しいことをどんどんやっていけ」という方針なので、新しいことにどんどんチャレンジできる自由な環境で働いていますよ。


──素晴らしいです!あと今年、安納サオリ選手の写真集イベントがあったじゃないですか。長井さんがかなり気合が入っていたという話を小耳に挟みましたよ(笑)。

長井さん 一日がかりでやりまして、相当な数が売れましたよ。安納さんの ファンへの対応がものすごく丁寧でした。安納さんのイベントはアイドル本担当の責任者が主となって動いたイベントで、僕は担当者に「絶対に一日会場を押さえた方がいいですよ」と言って開催した 即売会イベントでした。



──実際に安納さんの写真集はかなり売れましたよね。

長井さん そうですよ。書泉のアイドル本ランキングでも上位に入りましたから。

──書泉さんは割とプロレスに力を入れている印象があるのですが、なぜプロレスに力をいれているのでしょうか?

長井さん これは話を聞くと、元々プロレス好きの担当者がいらっしゃったみたいで、それでプロレスコーナーがあったという理由なんですけど、その方が辞めた後も、たまたまプロレス好きの店員が入ってきて、そこからプロレス担当の人間が途切れることなく、僕に繋がっていったんですよ。

──数珠繋ぎみたいですね!

長井さん 本当にたまたまですよ(笑)。


思い出のイベント

 
 
──たまたまがずっと繋がっているのが凄いですね!では長井さんがこれまで関わってきたプロレス関係のイベントやキャンペーンの中で思い出に残っているものはありますか?


長井さん 一番印象に残っているのはアントニオ猪木さんが2022年に亡くなられて、追悼企画をカメラマンの原悦生さんをゲストに呼んでやらせてもらったんですよ。僕ともうひとりプロレス担当者が神保町と秋葉原にいて、猪木さんの訃報を聞いて、「どうする?うちで何かやる?」と話し合いがあって、「書泉が亡くなった猪木さんを使って、金儲けをしていると取られてしまうのはどう なのだろうか」と考えると大々的にやるべきではないのかもしれないという話がチラッと出たんですよ。


──確かに猪木さんの死を商売道具にするというのはどうの なのだろうとお考えになるのはよく分かります。

長井さん 実は猪木さんが亡くなる少し前にうちは社長が変わって新体制になってたんですよ。その社長が「書泉はプロレスに力を入れてる書店と謳ってるんだから。猪木さんを追悼する企画をうちがやらないとダメだよ。ファンの方は書泉が猪木さんの追悼企画をやったことを金儲けとは考えないよ。書泉が猪木さん追悼企画をやることに意味があるのだから」と言われて、追悼企画を後押ししてくれたのが大きかったですね。


──素晴らしいです!

長井さん 少し前に原悦生さんが『猪木』(辰巳出版)という本を出されていて、刊行記念イベントを書泉でやったことがあったので、辰巳出版さんに繋いでいただいて原悦生さんにご連絡しまして、写真展やトークショーをやらせていただきました。あと神保町の店舗に「ありがどう、燃える闘魂」という垂れ幕があるんですけど、これは社長の発案でした。猪木さんの追悼企画をやり終わったときに「やってよかった」と実感しました。


──猪木さん追悼企画に反響はいかがでしたか?

長井さん 書泉で展示した猪木さんの写真を見て、猪木さんを思い出していた方が結構いらっしゃったようです。「子供の時に見ていた猪木さんはこんな感じだったよな」「猪木さん、この選手と試合をしていたな」とか。結構、いい方面の反響が多かったです。


長井さんが語る木村光一さんの新刊『格闘家 アントニオ猪木』
 


──恐らくファンの皆さんも猪木さんを追悼できる場がなかったんですよ。猪木さんのお別れの会は2023年3月で、猪木さんの追悼興行を謳っていたIGFの両国国技館大会(2022.12.28)と新日本の東京ドーム大会(2023.1.4)は年末年始でしたので、それまでは猪木さんを弔うことができない中で書泉が猪木さん追悼企画をやったことで大きな反響もあったのではないでしょうか。

長井さん ありがとうございます。結構急ピッチで仕上げたので、準備は本当に大変でした。準備期間があまりない中で開催した猪木さん追悼企画だったので、達成感が凄かったですよ。

──ちなみに猪木さんといえば、木村光一さんの『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)ですよね。書泉ではサイン本フェアを開催したり、トークショーもありますよね。ちなみに長井さんはこの本を読まれましたか?もしよろしければこの場をお借りして、感想をお聞きしたいです。

長井さん アントニオ猪木さんの強さを追求する信念が深く書かれています。力の強さだけではなく、異常なまでの心の強さをもった猪木さんだからこそ、皆が熱狂したのだと感じました。また、正直僕の感想よりも、男のロマンBlog/Live!主宰の宮﨑晃彦さんが書いた序文である[はじめに]をぜひ読んでいただきたいです。この本の魅力が詰まってます!!本文に入る前にもちろん読んで、読み終わった後にぜひ振り返ってほしいです。それだけの言葉が上手くまとめられています!!

──素晴らしいレビューですね!

長井さん あとは、もちろん原悦生さんの写真も素晴らしいです!!特にアントニオ猪木さんが技を繰り出す、掛けようとしている一瞬の鬼気迫る表情を逃さず撮っているのはスゴイとしか言えないです!! 

(第2回終了)







 

 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回のゲストは、東京にある「雑誌・書籍の聖地」書泉グランデ / ブックタワーにおいて格闘技(統括)担当をしている長井義将さんです。

 

 
 
(画像は本人提供です) 

 

長井 義将(ながい よしまさ)

1992年2月17日、兵庫県生まれ。2018年に株式会社書泉に入社。書泉ブックタワーのプロレス(格闘技)担当となる。2020年には『書泉制定 プロレス本大賞』を企画し好評を得る。2023年9月からは書泉グランデ、書泉ブックタワーの両店舗のプロレス(格闘技)担当を兼任。書籍の刊行記念企画を中心に両店舗にてイベントの企画運営を行っている。

X(旧Twitter):書泉_プロレス(@shosen_prowres)

 

 

(書泉グループ)

書泉グランデ

〒101-0051 東京都千代田区神田神保町1-3-2

TEL:03-3295-0011(代表)

FAX:03-3295-0019    

神保町・書泉グランデB1F プロレス&格闘技コーナー 

 

書泉ブックタワー

〒101-0025 東京都千代田区神田佐久間町1-11-1

TEL:03-5296-0051(代表)

FAX:03-5296-0059

秋葉原・書泉ブックタワー 4F プロレス&格闘技コーナー

 

 

(インフォメーション)

「書泉」が本気で作ったカレーです!

「神田カレーグランプリ2023」×「北斗の拳」コラボカレー販売中!

 

8月1日から神田界隈で開催されている「神田カレーグランプリ」に、今回は、今年40周年を迎える「北斗の拳」とのコラボ企画の一環として、書泉では36チャンバース・オブ・スパイス(渋谷区)と共同開発した「ケンシロウ愛のビーフカレー(ビーフビンダルーカレー)辛口」及び「ラオウ悔いなしチキンカレー(バターチキンカレー)中辛」(各税込950円)を連載開始記念日の北斗の拳の日にあたる9月13日から販売しております。

カレーのスパイシーな「熱さ」と「北斗の拳」の作品の「熱さ」、そして神田の街を盛り上げたいという「熱さ」が組み合わさり奇跡のコラボカレーが誕生しました!

他にも「コラボキービジュアル入り ステンレスマグカップ」(税込1,650円)を始めとした各種グッズも販売中です。

書泉グランデ、書泉ブックタワー、書泉オンライン、芳林堂書店高田馬場店、芳林堂書店みずほ台店でお買い求めできます。

書店が本気で作ったカレーです。是非とも皆さま、この「熱さ」を体感して下さい。

 

 

 

 

 

(画像は本人提供です) 

 

 

 

 

書泉さんといえば、かなりマニアックなジャンルの本を多数販売している「雑誌・書籍の聖地」で、プロレス本もめちゃくちゃ豊富で、また数多くのイベントも手掛けているので、プロレス界にとって本当にありがたい存在です。

 

「私、プロレスの味方です」と言わんばかりの活動をされてきた書泉さんにおいて、グランデさんとブックタワーさん双方でプロレスや格闘技を統括している長井さんは、プロレスや格闘技部門における書泉の番人なのです!

 

 
 
 
今回はそんな長井さんのプロレス話をお聞きしました。
 
 
是非ご覧ください!
 
 
私とプロレス 長井義将さんの場合「第1回 プロレスの味方・書泉の番人、登場」
 


長井さんがプロレスを好きになったきっかけとは?

──長井さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
 
長井さん こちらこそよろしくお願いします!

──まずは長井さんがプロレスを好きになるきっかけを教えてください。
 
長井さん 僕は今の仕事をする前にある新聞社でアルバイトをしていまして、そこがプロレスに力をいれているところで、会社にプロレスラーがよく来ていたんですよ。実際に目のあたりにすると「すごいデカい人がいる!」と思って(笑)。当時はそこまで詳しくなか ったのですが、色々な人に「あれは〇〇選手だよ」「生で見るプロレスは超スゲーぞ」と言われて、そこから段々プロレスに興味が出てきて、調べていくうちに好きになりました。

──それはいつ頃ですか?

長井さん 20代前半の時です。

──大人になってからプロレスに目覚めたのですね。

長井さん そうですね。僕は1992年生まれなんですけど、小学生や中学生の時はK-1やPRIDEが地上波テレビのゴールデンタイムで流れていて、プロレスはどちらかというとちょっと人気が落ちていた頃だったと思います。

──この時期はプロレスラーが格闘技のリングに上がって敗退していったイメージが強いですよね。

長井さん 当時はあまりプロレス好きじゃなくて、全然興味がなかったんですよね。友達と「ロープ振って戻ってくるのがありえない」とか言ってました。

──ではここからアルバイト先でプロレスに目覚めた長井さんが初めて好きになったプロレスラーは誰ですか?

長井さん 新日本プロレスの内藤哲也さんです。ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンをやり始めた頃の内藤さんが好きになりました。傍若無人で自由でしたよね。ベルトをぶん投げるわ、リング上でずっと寝ているし、全然入場しないですし、こんなプロレスラーを今まで見たことがなかったんです。

──内藤選手はテーマ曲の尺分は入場に時間をかけるイメージがありますね(笑)。ちなみに実際に初めて会場でプロレス観戦したのはいつ頃ですか?

長井さん 実はバイト先でよく全日本プロレスの招待券をもらってたんですよ。確か曙さんが出ているビッグマッチで、2013年10月27日・両国国技館大会だったと思います。メインイベントで曙さんが諏訪魔さんを破って三冠ヘビー級王座を獲得した大会です。調べるとこの大会はザ・ファンクスが出てました(笑)。

──凄い大会じゃないですか!

長井さん そうなんですよ。初めて生でプロレスを見て、音が凄かったんです。受け身の音、肉体がぶつかる衝撃音とか。ただこの頃は今ほどプロレスが好きではなかったかも。

──では本当にプロレスが好きになってからはどれくらいですか?

長井さん 書泉で働くようになってからプロレスにどっぷりハマりました。だから5~6年くらいですね。そこから仕事とかじゃなくて、自分の意志でプロレス会場に足を運ぶようになりました。


「ザ・レスラー」柴田勝頼選手の凄さと魅力とは?


──仕事がきっかけでプロレスを好きになるケースはありますよね。次に長井さんの好きなプロレスラーである柴田勝頼選手の凄さと魅力について語ってください。

長井さん 男らしさがあって武骨で、「ザ・昭和のレスラー」という感じがするじゃないですか。試合が飛んだり跳ねたりせずにキック、エルボーといった打撃を中心の組み立て方をしていて、相手も対応して柴田さんの世界観に入っていって、自分だけじゃなくて相手も光らせるんですよ。本当にカッコいいです。あとマイクパフォーマンスも一言、二言で終わるところも好きで、強い男はあまり語らないというところも体現していますよね。

──どのようなタイミングで柴田選手が好きになったのですか?

長井さん 新日本プロレスでどのようなレスラーがいるのか調べた時に、柴田さんの顔が目につきました。顔がイケメンじゃないですか。髭を生やしたダンディな人がいると。だからビジュアルから好きになりました。僕は元々格闘技が好きで、柴田さんも総合格闘技のリングに上がっていた時期もあって、試合の中に格闘技の要素を入れ込んでいる感じがするんですよ。U系の試合のような。

──おっしゃっていることはよく分かります。

長井さん 柴田さんは格闘技色の強い試合をされるので僕にハマりました。

──柴田選手は割と序盤のグラウンドの攻防で、格闘技のグラップリングの ような寝技の取り合いみたいなことをされますよね。長井さんは格闘技がお好きということですが、K-1やPRIDEで応援していた選手はいますか?

長井さん K-1はマーク・ハントが好きでした。

──おお!「サモアの怪人」じゃないですか。

長井さん あとHERO'Sだと山本"KID"徳郁さんのアグレッシブなところが大好きでした。ハントなんて全身の力を使って殴ったりとかが最高なんです。

──ハントは驚異的な打たれ強さを誇ってますからね。

長井さん レイ・セフォーVSマーク・ハント(K-1 WORLDGP2001/2001年10月8日マリンメッセ福岡)は凄かったじゃないですか。お互いの顔を突き出して殴りあうとか。あれに近いことを柴田選手はプロレスでやっているのかなと思います。

──確かにそうですよね。長井さんは基本的に真っ向勝負をされる方がお好きというところはありますか?

長井さん それはあります!

──やっぱりそうですか!プロレスファンになる以前の趣向がいざ、プロレスファンになったときに生きてくるわけですね。

長井さん インタビューを受けて話しながら「そうかもな」と感じてます(笑)。

新日本プロレスの凄さと魅力とは?

──では、長井さんの好きな団体・新日本プロレスの凄さと魅力について語ってください。

長井さん あまりプロレスを知らなかった頃から僕にとってプロレスはアントニオ猪木さんのイメージが強いんです。その人が作った団体・新日本プロレスは日本プロレス界の象徴的な存在だと思います。、 ずっとトップを走り続けて、今も業界のトップに君臨している。しかもコロナでなかなか試合ができない中で業界の先頭を走って、みんなを引っ張ってプロレス人気回復に務めた。時代が変わっても、時代に合わせながらトップに立っているのが新日本の凄さだと思います。

──同感です。

長井さん ファンの皆さんへのインフォメーションやプロモーションの仕方も変えたり、その柔軟性も新日本は凄くて、業界の盟主として立ち続ける体力と精神力みたいなものが本当に凄いなと。ほかのスポーツでひとつのチームや団体がずっと業界のトップであり続けるということは。

──確かにそうですね。

長井さん あとブシロードさんが新日本のオーナーになって売り方がうまいですよね。僕も書店員として商品を売る時にあんなに次から次へと企画は出てこないですよ。

──長井さんがご覧になった頃の新日本はブシロード体制になってますよね。

長井さん はい。

──ちなみに書泉さんで新日本の選手のイベントはありましたか?

長井さん 何回もありますよ。去年は棚橋弘至選手のイベントを神保町でやりました。

──『その悩み、大胸筋で受けとめる-棚橋弘至の人生相談』(中央公論新社)出版記念イベントですよね。

長井さん そうです。ジャストさんはあの本はご覧になりましたか?

──読みました。あれはプロレスファン向けの本ではないかもしれません。でも人生相談というテーマで意欲的なチャレンジを されたという印象を受けました。女性からの相談メールに対して、棚橋選手が回答していくのですが、棚橋選手のアンサーが色々な手段を使ってくるんですよ。だから棚橋選手はさすがだなと思いました。

長井さん そうなんですね!今更ですが、めちゃくちゃ気になってきました。

──この本は190ページぐらいで結構、読みやすかったですよ。深刻な相談内容に対して、きちんと捌いて、その方に合った答えを提示できるプロレスラーは棚橋選手ぐらいじゃないですか。

長井さん やっぱり棚橋選手は頭がいいですね。

──棚橋選手は現役プロレスラーの中で一番書籍を出していると思いますよ。

長井さん 確かにダントツで多いですね!

──棚橋選手は文章表現を武器にしている数少ないプロレスラーで、しかもそれを業界のエースがやっているというのも凄いですよ。

長井さん 本当にそうですね。あとこれは新日本といっていいのか分かりませんが、堀江ガンツさんが出された本に鈴木みのるさんがゲストに登場したイベントは僕が担当しました。

──『闘魂と王道』(ワニブックス)という本ですね。

長井さん 本のボリュームが凄いですよね。

──500ページくらいあったと思います。ワニブックスさんは分厚い辞書のようなプロレス長編を近年。手掛けてますよね。

長井さん 編集者の岩尾雅彦さんがやり手の方なんですよ。

──岩尾さんは確かに優秀な編集者です!

長井さん でも実際に鈴木みのるさんを見た時は怖かったですね。凄いいい人なんですけど、独特のオーラがあって、街で会ったら目は合わせられないですよ(笑)。

──ちなみに堀江ガンツさんの本はめちゃくちゃいい本でしたよ。

長井さん 僕はガンツさんの文章が好きなんですよ。とにかく外れがないですから。

──確かに!続きまして長井さんは新日本と同じくブシロードグループであるスターダムのイベントを手掛けているそうですね。

長井さん はい。スターダムの選手は色々と本を出されるようになって、うちでも色々な 企画をやらしてもらって、実際にその選手とお会いすること結構ありますよ。

──スターダムの選手の印象はいかがですか?

長井さん とにかくめちゃくちゃ可愛いんですよ(笑)。プロレスラーという感じがしなくて、僕の中で女子プロレスといえば全日本女子プロレスのダンプ松本さんやアジャ・コングさん、ブル中野さんとか見た目が怖くてオーラが凄いというイメージがあったんですけど、スターダムの選手は皆さんリング外では普通の女の子なんです。

──スターダムのイベントで印象に残っているものはありますか?

長井さん やっぱり直近でやったスターライト・キッドさんのイベントです。

──『SLK STYLE~スターライト・キッド スタイルブック~』(彩図社)ですね。

長井さん それこそジャストさんとゆかりがあるんじゃないですか。

──この本の編集者のGさんは書籍における僕のタッグパートナーですよ。読ませていただきましたが、Gさんは頑張ったと思います。実はスタイルブックを(手掛けた)のは初めてだったそうです。なかなか慣れないスタイルブックの構成と編集にGさんは苦心されてました。でもキッドさんを筆頭に企画とかも含めてみんなで頑張った本だったと思います。

長井さん そうなんですね!あの時、キッドさんのコスチューム を書泉2店舗で展示させてもらったんですよ。キッドさんのマスクを生で見ると超カッコよくて、凝ってますよね。

──そうなんですよ。その試合だけとか限定ものが多いんですよね。あとキッドさんの素顔も可愛いですよね。

長井さん その通りです!可愛いです(笑)。

──書泉さんは女子プロレスのイベントもされている印象がありますけど、売上とかも考えるとスターダムの存在は大きいんじゃないですか。

長井さん めちゃくちゃ大きいです。スターダムもそうですけど、女子プロレス関係の皆さんの人気の出方がアイドルと一緒なんですよ。例えば本の特典が5種類くらいあるとしたら、 ひとりで5冊買ってくれる方が多いですね。

──まるでAKB商法みたいですね。

長井さん そうなんですよ。『書泉制定プロレス本大賞』は基本的に売上から決めているので、そうなってくると女子プロレス関係の本が上位に来てしまうんです。

──そうだったんですね!なぜ『書泉制定プロレス本大賞』でスターダムの本が多いのか疑問でしたが、そういう理由があったんですね。

長井さん だからスターダムには本当にお世話になっております。

(第1回終了)


 
 


恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が64回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。



商品説明
本書は単なる自伝ではない。三沢光晴というフィルターを通して、プロレスとは何かという大命題に対する答を導く「真」ノンフィクション。

プロレスリング・ノア旗揚げの夜、初めて剝き出しの三沢の感情が、そして全存在が明らかになる。全日本プロレス社長をやめ、ノアを旗揚げするまでの苦悩と葛藤の日々を語る。

著者
中田 潤(なかだ じゅん)
1959年岡山県生まれ。立教大学卒業。『平凡パンチ』記者を経て、フリーライターに。少年時代から、阪神タイガースと夢路いとし・喜味こいしの熱烈ふぁん。プロ野球、競馬、格闘技などをテーマに『ナンバー』、『月刊現代』などで執筆活動を続けている。主な著書に『新庄くんは、アホじゃない!』、『男、清原どこへ行く』、『競馬怪人』『NO MONEY BALL 野球愛を叫べ!!』などがある。



今回は2000年にBABジャパンさんから発売されました中田潤さんの『三沢さん、なぜノアだったのか、わかりましたー。』を紹介させていただきます。

この本は1997年〜2000年までのプロレスラー・三沢光晴さんを追ったフリーライターの中田潤さんによるノンフィクション本です。

全日本プロレスのエースから、ジャイアント馬場さん死去後に全日本プロレス社長就任、オーナーサイドとの対立により団体を離脱、プロレスリング・ノアを旗揚げするまでの激動の3年間。

三沢さんの独白と中田さんの視点が加わったこれぞ「プロレス・ノンフィクション」という作品です。

中田潤さんは個人的に作風が好きなライターさんです。以前『Number』で中田さんが書いた元プロボクサーのグレート金山さんのノンフィクションを読んでことがあって、ものすごく入り込んで読むことができて、読者に没入感をもたらしてくれる文章だったんです。しかも中田さんのフィルターを通すと、取材対象の素顔や本音がより浮き彫りになるのです。金山さんは日本タイトルマッチに敗れた後に倒れて亡くなってしまいます。そこのショッキングな結末もどこまでもドラマチックでありながら、どんより漂う現実を描くのが中田さんは天才的でした。


実はこの本は後に2009年に三沢さんが急逝後に緊急増補改訂版が発売され、冒頭に中田さんによる書き下ろしの追悼文が掲載されています。この内容に関しては増補改訂版を買われた方だけが味わえる中田さんの世界観が炸裂した三沢さんへの追悼文になっています。

思えば三沢さんも2009年にリング禍で帰らぬ人となりました。しかし、中田さんが取材した頃からあまりにも壮絶な四天王プロレスを見て「いつか死人が出るぞ」と何度も恐怖に襲われていたそうです。

それでも中田さんは三沢さんに向き合いました。三沢さんから出てきた想い、本音、信念…。中田さんが見事に三沢さんという人間をあぶり出したこの本は「もっと評価されていい」プロレス本なのです。



今回は『三沢さん、なぜノアだったのか、わかりましたー。』の魅力を各章ごとにプレゼンしていきたいと思います!


よろしくお願い致します!



★1.プロローグ 壮大な実験の始まり 2000.8.5 ディファ有明 


この本の始まりは全日本プロレスを離脱した三沢さんが旗揚げしたプロレスリング・ノア旗揚げ戦を中田さんがリポート。

2000年。ちょうどプロレスラーが総合格闘技のリングに上がり惨敗し続け、プロレス最強神話が崩壊した時期に中田さんの文章には強烈なアンチテーゼが漂う。

「『なんでもあり』系の格闘技大会の成功。その頂点で、日本人レスラーは惨敗を続けた。三沢ら、本物のプロフェッショナルが築きあげてきた『洗練』『高度さ』は、格闘技の側から『純粋に強さを測る場では無意味なもの』とされてしまった。しかし、『ビジネスとしてのなんでもあり』は、プロレスラーを中心に今も行われている。なんとも奇妙な構図である。プロレスラーが一番強い。単純にそうは言い切れない状況を作るために、プロレスラーは消費されている。プロレスラーの惨敗が札束に変わる」


そして、中田さんによるノア旗揚げ戦リポートは、プロレスマスコミにはとてもじゃないけど書けない領域のものでした。これはよくも悪くも。



★2.1プロレスへの疑問―ルー・テーズの批評

雑誌『ブルータス』のプロレス特集で「鉄人」ルー・テーズを招聘し、中田さんは担当ライターとして立ち会うことになりました。伝説のプロレスラーが今の日本プロレスについて批評するという企画で、テーズにあらゆるプロレスや格闘技の試合映像を見せ、最後に1998年10月31日全日本・日本武道館大会で行われた小橋健太VS三沢光晴の三冠ヘビー級選手権試合を見てもらうこと。

すると途中からテーズが居眠りをしてしまいます。なぜなのか?テーズは語ります。

「私は疲れて寝てしまったわけではない。この試合には見るべきものが何もないからなあ」
「批評しようにもレスリングの動きがほとんどないんだから、レスラーの私が何を言ってもいいのかわからないよ」

そして小橋さんがスリーパーホールドで絞め上げ、三沢さんの右手がタイツにかかったときにテーズは声を上げます。

「関節技を決められているのに、なぜ、三沢はタイツを上げているのか。小橋の技に力が入っていないからだろう。試合中に休むのはいい。しかし、タイツを上げているのはどう考えてもナンセンスだ」

「20世紀最強のプロレスラー」テーズから1990年時点ではあるが、今のプロレスに対して呈せられた異論に中田さんは困惑してしまいます。

中田さんはアントニオ猪木さんや前田日明さんの引退、プロレスラーが総合格闘技で次々と惨敗していく現実に、プロレスを見るのを辞めようと考えていました。そんな中でテーズとの邂逅。そして、ジャイアント馬場さんの訃報。

「俺はどうすればいいんだ!?」

中田さんは過去の自分をプレイバックしていました。

大学生の時はテレビでプロレスを見るだけの男だった中田さん。
村松友視さんの『私、プロレスの味方です』を読んで「馬場さんのやっていることを『プロレス内プロレス』などと規定してひとり悦に入っているやつのどこがプロレスの味方なんだ」と違和感を覚えていた中田さん。
ジャイアント馬場VSスタン・ハンセンで馬場さんの奮闘に「脳天唐竹割りを放つ馬場さんの背後に、大漁旗がはためいているのを見た」と興奮していた中田さん。

日本海にはためく大漁旗。そこに浮かび上がったのは、「馬場さんの全存在」だったと中田さんは綴ります。中田さんはプロレスを卒業するはありませんでした。そして全日本プロレスと三沢光晴さんを追い続けました。


この回は中田潤さんのプロレスへの想いが爆発しています。そしてなぜ自身が三沢さんを追うこと荷なったのかもよく分かります。

「三沢さん、プロレスってなんですか?」



★3.2 リアリスト三沢光晴の礎―プロレスとの出会いとタイガーマスク

いよいよ三沢さんと中田さんの取材というロックアップが始まります。中田さんが投じた初めての質問はなんと「三沢さんが、生まれて初めて、誰かを殴りたい、暴力で組み伏せたい、と思ったのはいつ、どんなときでしたか」。変化球にも程があるこの質問に三沢さんはきちんと答えています。さすが真っ向勝負の人生を歩んできた三沢さんです。

中田さんが「苦労話になると、三沢はいつもそれを笑い話に転化してしまう」という記述は確かにその通り。三沢さんはリングに上がる時は哀愁も悲壮感も漂うのだが、自身の壮絶な人生を語る時はどこかあっけらかんとしているような印象があります。

そしてプロレスを初めて見た時に三沢さんは「こらは観るもんじゃなくて、やるもんだ、と」「他の格闘技にないものがプロレスにはある。そう思ったんですよ。柔道とかだと投げ技、寝技だけでしょう。プロレスは飛ぶこともできますよね。まず、縦の動きがある」と感じ、ファンでもなんでもなく、最初からやる側目線でプロレスを見ていたというのは興味深いです。

また全日本に入団した三沢さんが新日本プロレスについてどう思っていたのか?これがかなり本音が出ています。

「新日本はなんか作り過ぎてるという感じがしてね。俺が一番、うちが一番、とか言うやつって嫌いなんですよ。うちはストロングスタイル?ほざいてろって」

ちなみにテーズが全日本プロレスと関係を持っていた頃に、若手リーグ戦「ルー・テーズ杯」が開催され、そこで準優勝したのが三沢さん。なんとテーズからは「全日本の若手で、本物のスープレックスを使えるのは三沢だけだな」と言葉をかけたそうです。

三沢さんの本でありながら、ケーフェイ、シュート、ワークといったプロレス隠語が飛び交う中でも三沢さんの本音が出ている。中田さんはあらゆる話題や刺激物を導入しながら、その当時のプロレス界の混迷ぶりをダイレクトに伝えているようにも感じました。


★4.3 地層の変化―1991・9・4日本武道館三沢&川田vs鶴田&田上

中田さんはジャイアント馬場さん、ジャンボ鶴田さん、三沢さんの流れを「鮮やかな地層」と評し、そこから馬場さんの歴史、鶴田さんの歴史を綴っています。2人が嫌というほど味わった「貫禄のプロレス」(存在感や恐怖感、威圧感の怪物に圧倒的に屈伏されるプロレス。プロレスラーが必要以上に存在を誇張すること)。そこに三沢さんが「攻防のプロレス」で立ち向かい、鶴田さんを撃破したことによって、プロレスの地層が変化したというのが中田さんの主張。これは納得しました。

また三沢さんには「貫禄のプロレス」に対するコンプレックスなどあるわけがなく、「次やったら殺してやる!とか、昔のレスラーは言うんだけど、殺すのかい、ほんとに(笑)。そら、お前、裁判になったら負けるぞ」「世間じゃ許されないことをやってもレスラーなら許されるとかね。俺の感覚からすると、それ、人間の道理じゃないよ、ってなりますよ」と理論整然に言うところは三沢さんらしく、この人は本当にリアリストなんだなと実感しました。




★5.4 全日本プロレスを襲う閉塞感―1998・5・1東京ドーム/5 一見さんとの闘い―1998・10・31日本武道館三沢vs小橋


4と5で強烈に印象に残っているのが1993年7月29日の日本武道館大会での三沢光晴VS川田利明の三冠ヘビー級選手権試合。この試合から、過激で危険で王道プロレスの極みとも言える四天王プロレスのスタートとも言われています。試合終盤、三沢さんが川田さんに投げっぱなしジャーマン3連発で川田さんが失神。それでも強引に川田さんを引き起こしてダメ押しのタイガースープレックスホールドで勝利。試合後に解説の馬場さんが「三沢と川田の勝因なんて、テレビ解説者として恥ずかしいが、高度な展開すぎて、俺にはわからないよ」と語り、勝者の三沢さんが「最後は本当にいやだったよ。自分で自分に言い聞かせたもん。ここでやらにゃいかん、って」と語るほど壮絶な一戦。

なぜ三沢さんは「やらにゃいかん」となったのか?馬場さんにも鶴田さんにも天龍源一郎さんにもできない試合をやるには、これをやるしかなったのか?

三沢さんのアンサーはどごまでも現実的でした。

「川田は、中途半端にやると、中途半端なことを言い出すやつだから。『この次やったら、絶対、負けない』とかね。それまで、積もり積もったものもあったんですよ」

 あともう一つ、1998年春の時点で全日本に内向的で保守的で予定調和に伴い閉塞感に襲われていることに三沢さんは気づいていました。この閉塞感によって客足も鈍り始め、リング上もマンネリ化していることも。だからこそこう語ったのです。

「普通の人にプロレスを見てもらいたいですね。見てもらえるように最大限の努力をしたい。客層の顔を変えたい。もちろん、今のファンも大切にしながら。むずかしいとは思いますよ。客が望んでいるものと、レスラーがここを変えていきたいというものが違う場合もありますから。でも、内部から変えていかないと、よくはならないですから」

そこから三沢革命、馬場さんに代わりマッチメーカー就任に至っていくのですから、1998年の全日本はまさに変革期だったのです。

そしてあのルー・テーズが異論を唱えた「スリーパーをかけられているのに、タイツに手をかけた」一件について三沢さんがしっかりアンサーしています。時空を越えたルー・テーズVS三沢光晴のイデオロギー闘争がここにあります!


★6. 6 防波堤の崩壊―1999・1・31ジャイアント馬場逝去

馬場さんが亡くなり、喪失感を抱えていた三沢さんの苦悩の日々が始まります。


印象に残ったのは三沢さんが馬場さんに直談判するくだり。「マッチメイクとか自分の思うようにやらしてほしい」と伝えた時に馬場さんからは「いいよ」と言い、レスラーの給料底上げのために「もう少し、給料を上げてください。みんな一生懸命やっていますから」と直訴した時は「わかった。これからは、三沢が若い者をまとめてやっていけばいい」と言われたそうです。

三沢さんは馬場さんに「そこまで信頼してくれたのか」と感激していました。だが、馬場さんの死後、「いいよ、と言ってくれたけど…馬場さんのやりがいとかね、…そういうのを取ってしまったんじゃないかと…」と複雑な気持ちになりました。


読んでいて感動と悲しみが交錯し、こちらも複雑な気持ちになりましたね。



★7.7 やりたいようにやる。―1999・6・11/9・4日本武道館三沢vs小橋/三沢vs高山/ 8 秋山が抜いた刃―2000・3・11後楽園ホール秋山vs志賀

ここからは三沢体制時代の全日本について中田さんが切り込んでいます。めちゃくちゃ面白い!

そして、ここで三沢さんと猪木さんの暗闘というものが浮き彫りになります。

新日本1999年1月4日橋本真也VS小川直也のドーム事変により、プロレス界は大混乱に陥ります。この不穏試合についてなんと全日本の三沢さんが「プロレスラーが弱いと思われるのは、本当にくやしいよね」と言及する事態となります。

実は水面下で新日本と全日本の交流に動いていた1999年。新日本の新社長となった藤波辰爾さんについて三沢さんは「藤波さんとは何もないですよ。藤波さんとなら話ができます。でも、藤波さんの上にまだ誰かいるんじゃないのか、という部分でね」と語っています。藤波さんより上とは、新日本オーナーの猪木さんのこと指しています。

あるイベントで素人から「エルボーを受けたい」と言われると「俺は猪木さんじゃねえよ」と言い、プライベートでお寺に行って、滝に打たれた時は、「猪木さんなら、取材陣引き連れて行くんだろうな(笑)」と語った三沢さん。三沢さんにとって猪木さんは「なりたくない人間」ということかもしれません。実際に2000年以後、格闘技がプロレスを侵食してきた時もプロレスの最後の砦となったのは武藤敬司さんと三沢さんでした。

これだからプロレスは面白い!

また三沢さんが「プロレスラーはどんな状況に立たされても強くなくてはならない」「プロレスラーが格闘技の世界で一番強い」と語っています。これは意外かもしれませんが、案外三沢さんは「プロレス最強論」の持ち主。だからといって総合格闘技のリングに上がるというのは別物と考えていたようです。

ここら辺から三沢さんのプロレス論がエンドレスに続きます。もうお腹いっぱいになるほど。しかし、どれも深くて核心をついているのです。



★8.  9 全日本プロレス退団―2000・6・16ディファ有明
 
全日本社長時代の三沢さんの本音を引き出していた中田さん。その本音が最終的にノア旗揚げに繋がることに「やっぱりそうだったのか」と感じたそうです。


「俺が社長でなかったら、俺は全日本を辞めていた」「やりたいようにやる。ある意味強引でも」「新しいものを打ち出していきたい…ただ、全日本ではやりたくないんですよね」という謎掛けのような三沢さんの発言も。

三沢さんと馬場元子夫人の確執。その内幕の一部が書かれています。

また、三沢さんが馬場さんの死後に、馬場さんの偉大さに改めて気がつくのです。

「馬場さんに言いますよね。俺はこうしたいんですけど。ダメなとき、馬場さんは、何でダメなのかちゃんと言ってくれました」


そして、三沢さんがノアでやりたい「理想のプロレス」とは?

「選手とファンがどっちも楽しめるプロレスを目指していきたいと思います」


今のノアの姿を天国の三沢さんがどのように見つめているのでしょうか?




★9.10 小橋、秋山の主張―2000・8・6ディファ有明プロレスリング・ノア旗揚げ第二戦

ノア旗揚げ2戦目を中田さんがレポート。試合前のリング上では丸藤正道選手とKENTA選手(当時は小林健太)によるレスリングの練習が行われていました。全日本にはほぼなかったという練習メニュー。KENTA選手のタックルは丸藤選手にことごとく潰されるも、10数回目のタックルで丸藤選手をテイクダウンさせたKENTA選手。すると「おお、いいねえ」と声掛けしたのが高山善廣選手。文章を読んだだけでもいい光景ですね!


そして、中田さんは三沢さんに「もしヒクソン・グレイシーと対戦した時にどう攻めますか?」という質問にしっかりと答えています。レスリング国体優勝という実績を持つ三沢さんは格闘技にも造詣が深く、だからこそ「根本的に間違っているのは、格闘技の人たちが、やったことがないものを否定することなんです」と語るのです。

「ノアは格闘技か、エンターテインメントか?」

三沢さんの答えはどごまでも深い。

「この質問自体、成立しない。どっちにも行けるんですよ。(中略)ノアは常に選手のうしろにある。誰も『こうしろ』とは言わないんです。ノアの上で選手は何をやってもいい。自分の好きな方向に進めばいい。色は一色じゃない。一色じゃないのがプロレスですよ。格闘技もエンターテインメントも大きくひっくるめたのがプロレスですからね」

かつて「プロレスに答えはない」と語った三沢さんのプロレス哲学は中田さんというフィルターを通してもブレないのです。




★10.エピローグ まだ見ぬ三沢がいる/あとがき


中田さんによる三沢さんを追う旅もいよいよフィナーレ。

三沢さんについて中田さんはこのように綴ります。

「これまで、私が相対していたプロレスラーは、ほとんどが『かっこいいことを言う人』だった。かっこいいことばかり言いすぎて、あんなの真意はどこにあるの、と言いたくなる人もたくさんいた。三沢光晴はまったく違う。嘘をつけない人、ということを超えて、『かっこいい三沢光晴』については、照れちゃって話が続けられない人なんだと思う。この本を書きながら、わかってきたことがある。人の悪口が世間以上に流通しているこの業界で、なぜ、三沢光晴を悪く言う人がいないのか。少なくとも、三沢の悪口を言う人に私は出会ったことがない。そういえば『三沢は弱い』という発言は、プロレスを否定する格闘技側からも一度も出てきていないのではないか。なぜ、そうなのかー。その謎は、三沢光晴に会えば解かる」

中田さんのこの文章はまるで三沢さんというプロレス界の盟主と一騎打ちを行った試合後のコメントに見えて仕方がありませんでした。


思えば中田さんが描く文章の世界観は、どんなにスーパースターでも、自身のフィルターを通して、等身大の姿をあぶり出し、彼らの本音がむき出しになるのがフリーライターとしての中田さんの凄みでした。

しかし、三沢さんは中田さんを相手でも微動だにせずに真っ向勝負を続けて、中田さんのフィルターが通らなくても、本音を次々と語ったのです。

この本はフリーライター中田潤さんとプロレスラー三沢光晴さんの一騎打ちを文章化したものだと私は捉えています。

そして、中田さんはさまざまな手法で三沢さんに揺さぶりをかけても三沢さんは泰然自若で動かなかった。例え、さらに予測のつかない本音を引き出すために無人島に連れて行っても、三沢さんは微動だにしなかったでしょう。

三沢さんからすると「もし、中田さんの取材なら、無人島でもどこでも行って受けてやる!」という豪胆な心意気があったのかもしれない。


無人島にいたふたり。
プロレスについて考えすぎた中田さんの質問にどこまでも親切丁寧に本音で答えた三沢さん。
ライターとしての中田さんのスタンスもお見事!

凄い一騎打ちでした!
最高に好きなプロレス本です!



恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が63回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。





書籍の概要
プロレス界の寵児であり、レジェンドとしてその名を刻んだ伝説の男はなぜその地位を不動のものとしたのか?
時代を越えて歴史に爪痕を残した猪木イズムを解き明かす!

”燃える闘魂”アントニオ猪木。プロレス界に爪痕と歴史を刻んだ圧倒的な強さ、技術の源流と進化を、猪木自身の言葉で解き明かすことで「アントニオ猪木の強さと格闘技術のリアル」を後世に遺す、

前人未踏・空前絶後、完全無欠の”格闘技術論”。  

彼の強さと格闘技術の奥深さを、客観的な事実を交え、より丹念に検証。 四半世紀の時を超えて蓄積された情報や取材結果に基づいて再び執筆作業を進めるなかで見つけた真の『格闘家・アントニオ猪木』の実体とは。

伝説のレスラー、アントニオ猪木の軌跡と彼をめぐるレスラーや関係者たちの証言をもとにプロレス界に燦然と輝くその強さの秘訣を紐解く。

目次
第1章 猪木の源流
日本プロレス・最強格闘家集団の実態
柔術・アマレス・高専柔道・相撲〜猪木に格闘技を伝授した指導者たち
ゴッチが学んだ格闘技プロレス キャッチ・アズ・キャッチ・キャン
新日本プロレスの原点がカール・ゴッチである理由
発展途上にあった猪木のプロレス・スタイルを補完したレジェンドレスラー
第2章 猪木の格闘奥義
禁断の果実〟異種格闘技戦~プロレスと真剣勝負の狭間にある恐怖
〝バーリトゥード王者〟イワン・ゴメスとの邂逅 なぜ両雄は闘わなかったのか
猪木が認めた最強レスラーたち
第3章 猪木と格闘技ブーム
〝虚構〟vs.〝現実〟 空前絶後の70年代格闘技ブームの正体
原点は『チャンピオン太』〜梶原一騎とアントニオ猪木の出会い
〈年表〉 梶原一騎vs.アントニオ猪木/第一次格闘技ブームの誕生から終焉まで
第4章 猪木、ライバルを語る
絶体絶命からの逆襲~モハメド・アリ
猪木も認めた最強の男〜柔道王ウイリエム・ルスカ
〝熊殺し〟ウイリーを超えた蹴り~ザ・モンスターマン
アルティメット大会に出したかった男~チャック・ウェップナー
なぜ相手の腕を折らねばならなかったのか~アクラム・ペールワン
殺人的スケジュールだった欧州遠征~ローラン・ボック
第5章 スパーリング・パートナーが語る猪木の格闘術
検証インタビュー1 佐山聡
検証インタビュー2 藤原喜明
検証インタビュー3 山本小鉄
検証インタビュー4 石澤常光
検証インタビュー5 北沢幹之
第6章 プロレスと格闘技
猪木と格闘技とプロレスと
猪木が語ったプロレスの定義
<写真解析>格闘技術解説
<独占インタビュー>アントニオ猪木かく語りき

著者プロフィール
木村光一(きむらこういち)
1962 年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科卒。広告企画制作会社勤務を経て、'95 年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KK ベストセラーズ)企画を機に出版界へ転身。'98 〜'00 年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生 全撮/ルー出版)、『朋友 GOAL AFTER GOAL』(宮澤正明 全撮/ルー出版)、『My Bible』(蝶野正洋著/ルー出版)、『実録地上最強のカラテ〜ゴッドハンドの系譜』(真樹日佐夫著/いれぶん出版)他、プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力した。編著作に『ふたりのジョー』(木村光一著/梶原一騎・真樹日佐夫 原案/文春ネスコ)、『アントニオ猪木の証明〜伝説への挑戦』(アートン)、『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KK ベストセラーズ)、『闘魂戦記〜激白 格闘家・猪木の真実』(KK ベストセラーズ)、『格闘ゲーム リアル研究序説』(東京ポリゴンズ名義/ KK ベストセラーズ)、『INOKIROCK』(百瀬博教、村松友視、アントニオ猪木、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)がある。




今回は2023年に金風舎さんから発売されました木村光一さんの『格闘家 アントニオ猪木 〜ファイティングアーツを極めた男〜』を紹介させていただきます。

木村さんといえば、ブログにも度々登場してくださり、お世話になっている作家さんです。

私とプロレス 木村光一さんの場合


「第3回 蜜月と別離」  




プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた孤高の闘魂作家による対談という名のシングルマッチ!

プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 





木村さんはこれまで数多くのアントニオ猪木さんに関わる書籍を出されてきました。また猪木さんのプロレス論や格闘技論に最も迫ったインタビューを世に送り出してきた孤高の闘魂作家なのです。

2022年10月1日に逝去された猪木さん。そこからさまざまな形で猪木さん関連書籍が発売されましたが、猪木から亡くなってからちょうど1年後の2023年10月、いよいよ最後の切り札とも言える木村さんの新作が発売されました。


「猪木さんの強さとは何か?」
「なぜ猪木さんは凄いのか?」
「猪木さんと他のプロレスラーの違いは何なのか?」



1996年に発売された木村さんの著書『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実〜』を全面的に見直し、猪木さんの強さと格闘技術の奥深さを、客観的な事実を交え、より丹念に検証。 四半世紀の時を超えて蓄積された情報や取材結果をまとめ上げたのがこの『格闘家 アントニオ猪木』なのです。


YouTube『男のロマンLIVE』TERUさんと木村さんのコラボから派生した「シンINOKIプロジェクト」として誕生したこの本は「俺たちの猪木祭り」と題して、SNSを使った劇場型プロモーションを展開。ある意味、猪木信者たちが次々と「ワッショイ」「ワッショイ」と神輿を担ぐように盛り上がったのは木村さんに対する信頼感と期待感、そしてまだまだ猪木さんについて語り尽くせないという飢餓感もあるのかもしれません。


今回は『格闘家 アントニオ猪木』を各章ごとにこの本の魅力をプレゼンしていきたいと思います!


よろしくお願い致します!



★1.まえがき 猪木のプロレスの正体とは何だったのか

まえがきを書かれたのはこの本のプロデューサーを務めたのは『男のロマンBlog/Live』を主宰するTERUさん。

読んで感じたのはこれはいい意味でネット民だから書ける文章だったような気がしました。自分の言いたいことがあるが、途中で「◯◯なのだが」とか挟んできたり横道がそれる感じとか。でもそれはネットでブログとかYouTubeで配信してきたTERUさんだからこそ書ける一文だと思います。そして核心に迫るときはやはりストレートでした。

「だって、プロレスなんでしょ?」

我々プロレスファンが長年向き合ってきた偏見と先入観。そこに誰よりもずっと「なんだとこのヤロー!」と抗っていたのが猪木さんだったという論調はその通りだと思います!

これまでの木村光一さんが手掛けた書籍とは異質なのは、TERUさんのまえがきから伝わってくるのです。つまり、これは令和の猪木本なのです。
 



★2.第1章 猪木の源流

いよいよ本編となる第1章。猪木さんの生い立ちから日本プロレスでプロレスデビューという過程を木村さんが綴っています。

基本的にこの本はまずは木村さんがテーマに沿ってコラムのように文章があり、その次に木村さんがインタビュアーを務めた猪木さんのコメントが掲載とというスタイル。恐らく木村さんの文章も、過去の猪木さんのインタビューに基づいた上での論理なので、大風呂敷や誇張が控え目のリアリズムに満ちたものです。



ここで特に注目したのは、日本プロレスに対する新しい見方を提示したことです。

これまで日本プロレスといえば、「国民的英雄」となった力道山の活躍、力道山死後に低迷した日本プロレスを復活させたBI砲の活躍、馬場さんと猪木さんの離脱から最終的に内ゲバによる団体の崩壊といったところがクローズアップされがちでした。

しかし、木村さんは日本プロレスが世界的に稀なエリート格闘家集団だったと評したことにより、日本プロレス幻想を高める内容に仕上げたのです。言われてみればそうかも知れません。大相撲幕内まで進んだ元力士も多数いて、柔道有段者もいて、レスリングの猛者もいる。レフェリーの沖識名さんはハワイアン柔術の猛者で、大坪清隆さんは高専柔道の達人。

そして猪木さんは当時の最強格闘家集団・日本プロレスが鍛え抜いた最高傑作だったのかもしれません。相撲、柔術、アマレス、高専柔道とさまざまなバックボーンを持つ格闘家との練習を経たことにより、この本で言うところのプロレスにおける特異点となった猪木さんの源流となったわけです。

まず日本プロレスにスポットを当てたのはさすが木村さんです!

またキャッチ・アズ・キャッチ・キャン、新日本プロレス旗揚げの背景、ストロングスタイル誕生についても踏み込んでいます。

新日本プロレスの原点がカール・ゴッチである理由について、木村さんが新しい提議を示しています。これは必見です!


★3.第2章 猪木の格闘奥義 

第2章は猪木さんが手掛けた異種格闘技戦。こちらで特に面白かったのは「バーリ・トゥード王者」イワン・ゴメスとウィルフレッド・デートリッヒ。この本を読むとさらにイワン・ゴメス幻想とウィルフレッド・デートリッヒ幻想が高まりました!



★4.第3章 猪木と格闘技ブーム 

第3章は1970年代格闘技ブームについて木村さんが切り込んでいます。梶原一騎VSアントニオ猪木年表というものが掲載されているのですが、これが圧巻です!めちゃくちゃ面白いです!



★5.第4章 猪木、ライバルを語る

第4章は猪木さんが異種格闘技戦で対戦したライバルについて語っています。


個人的には猪木さんがモンスターマンがすきなんだろうなという再認識しました。恐らく自身にとって理想の格闘技戦だったのではないかと推測しています。






★6.第5章 スパーリング・パートナーが語る猪木の格闘術


第5章は猪木さんの歴代スパーリングパートナーに木村さんがインタビューしています。佐山聡さん、藤原喜明選手、山本小鉄さん、石澤常光(ケンドー・カシン)選手の4人。石澤さんのインタビューなんてめちゃくちゃ貴重で、彼が技術論を真面目に語っているだけでプレミア感が満載です。

4人のインタビューはどれも必見です!

また日本プロレス時代の猪木さんの強さに迫る証言者として北沢幹之さんにインタビューしているのも注目です。猪木さんの強さの源流について北沢さんの証言によって確固たる答えに導いているような気がしました。

★7.第6章 プロレスと格闘技

第6章は猪木さんが語ったプロレスと格闘技について。猪木さんが1996年1月4日東京ドームで行われたビッグバン・ベイダー戦の意味について語っています。また近未来のプロレスとして、レスラーが素人の挑戦を受ける観客参加型のプロレスもいいのではと語っているのは斬新でした。やはりこの人、凄いです。発想も超人なのです。
 



★8.アントニオ猪木かく語りきと格闘技術解析

この本では猪木さんの心に残る言葉が掲載された「アントニオ猪木かく語りき」と猪木さんのテクニックを古武術の視点から検証している「格闘技術解析」が所々で登場するのですが、これが面白い!!

特に「格闘技術解析」は名アイデア。猪木さんの格闘技術を整体師兼スポーツトレーナーの山内大輔さんが、古武術の観点から詳細解きあかすというもので、これだけでもお腹いっぱいで、猪木さんの技には格闘技術としての理に適った動きや所作があることを山内さんによって証明されています。これは技術オタクは生唾もので、ペンダフ先生好みですよ(笑)




★9.おわりに

木村さんによるあとがき。この本に対する木村さんの執念と信念を感じます。長年、猪木さんを撮り続けたカメラマンの原悦生さんによる闘魂写真の数々が彩ったことによりこの本に圧倒的臨場感をもたらしました。

私がSNSで「この人のプロレス論は鋭いな」と感心しているpasinさんが木村さんをサポートしていたことも判明。さまざまな人たちの協力があったからこそ、俺たちの猪木本として世に出たのが劇場型プロレスという感じがします。

TERUさんがまえがきで「猪木さん、あなたの闘魂は連鎖し続けています」と綴り、木村さんは「いまも心に生き続ける、アントニオ猪木に本書を捧げる」とあとがきを締めくくりました。

二人の想いは一緒、猪木さんのために、猪木さんの凄さを満天下に伝えるためにこの本を出したのだということです。


改めてリスペクトしかありません!





★10.偏見と虚構を凌駕し、幻想を高めるリアリズム


「だって、プロレスなんでしょ?」「プロレスは八百長」「プロレスは出来レース」という偏見や先入観。梶原一騎さんが描いたイマジネーション溢れる虚構の世界。そこに対して勝負を挑み凌駕してきたのが猪木さんだったというのが木村さんの考えだと私は感じています。

ただ、ここで木村さんは自身の考えを立証するために、猪木さん本人のインタビューを元にしながら、日本プロレスやイワン・ゴメス、ウィルフレッド・デートリッヒと令和の時代に新たな幻想を生み出したのは、まさに革新作!また猪木さん自身の強さの立証をすることで幻想を越えた伝説に仕立てた木村さんの凄さです。

でもそこには梶原一騎さんばりの虚構はない。柳澤健さんのような「柳澤史観」はない。先入観も固定観念も決めつけもない。理に適い、現実に即したリアリズムから導き出した極論なのです。
 


この本、人それぞれの感じ方があると思ったので、そこまで内容には深くは踏み込まずにプレゼンさせていただきました。

読めば読むほど味わい深くなるこの本を多くの皆さんに読んでほしい!獣神サンダー・ライガーさんの解説のように「スゲェ!」を連呼したくなる読後感!とにかく凄い作品でした。それに尽きます。 


『格闘家 アントニオ猪木』は「だって、プロレスでしょ?」「プロレスは八百長」「プロレスは出来レース」という世間からの色眼鏡に対して、木村さんは猪木さんの圧倒的強さと確かな技術を立証し、「じゃあ、猪木さんの試合を見てくれ!考え方が変わるぞ」と文章表現による反論をすることで、猪木さんとプロレスを死守する大作です!

そして木村さんの確かな取材力、鋭い考察力、確信をつく文章力に裏打ちされた実力があるからこそ、この本は大作になったのではないでしょうか。

是非、チェックのほどよろしくお願いします!



恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が62回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。






ジャイアント馬場、アントニオ猪木、長州力、藤波辰爾、天龍源一郎、闘魂三銃士、プロレス四天王、ユニバーサル、みちのくプロレス、ハヤブサ、……その熱い闘いをリングサイドで撮影してきたプロレスカメラマン・大川昇が、秘蔵写真ととっておきのエピソードでつづる日本プロレス黄金期。
プロレスカメラマンの楽しさを教えてもらったジャパニーズ・ルチャ、特別な縁を感じたメキシコでの出会い、引退試合で見せた素顔、レジェンドたちの知られざる逸話、そして未来のレジェンドたち……。ジャイアント馬場、アントニオ猪木、長州力、藤波辰爾、天龍源一郎、闘魂三銃士、プロレス四天王、ユニバーサル、みちのくプロレス、ハヤブサ、……その熱い闘いをリングサイドで撮影してきたプロレスカメラマン・大川昇が、秘蔵写真ととっておきのエピソードでつづる日本プロレス黄金期。 プロレスカメラマンの楽しさを教えてもらったジャパニーズ・ルチャ、特別な縁を感じたメキシコでの出会い、引退試合で見せた素顔、レジェンドたちの知られざる逸話、そして未来のレジェンドたち……。
「ブッチャー・フィエスタ~血祭り2010~」など数々の大会をともに手がけた盟友・NOSAWA論外との対談、さらに伝説の「天龍殴打事件」の真相が語られる鈴木みのるとの対談の二編も収録!
「あとがき」は『週刊ゴング』の元編集長のGK金沢が執筆!
本書を読めば、プロレスに夢中になったあの時代が甦る!「ブッチャー・フィエスタ~血祭り2010~」

など数々の大会を一緒に手がけた盟友・NOSAWA論外との対談、さらに伝説の「天龍殴打事件」の真相が語られる鈴木みのるとの対談の二編も収録! 「あとがき」は『週刊ゴング』の元編集長のGK金沢が執筆! 本書を読めば、プロレスに夢中になったあの時代が甦る!

著者
大川昇(おおかわ・のぼる)
1967年、東京都出身。東京写真専門学校を中退し、『週刊ファイト』へ入社。その後、『週刊ゴング』写真部で8年間、カメラマンとして活動。1997年10月よりフリーとなり、国内のプロレスだけでなく、年に3、4度はメキシコへ行き、ルチャ・リブレを20年間撮り続けてきた。現在、東京・水道橋にてプロレスマスクの専門店「DEPOMART」を経営。著書に『レジェンドプロレスカメラマンが撮った80~90年代外国人レスラーの素顔』(彩図社)がある。



今回は2023年に彩図社さんから発売されました大川昇さんの『プロレス熱写時代〜プロレスカメラマンが撮った日本プロレス黄金期〜』を紹介させていただきます。

大川さんは以前、『レジェンド』という本を出されていて、素晴らしい本でした。


この本で圧巻だったのが「伝説のプロレスカメラマン」大川さんによるプロレス史を彩った数々の写真と、記者顔負けの文章力でした。

大川さん待望の第2作は、日本人選手を中心に取り上げています。そこには大川さんならではの秘蔵エピソードが満載。これは「おすすめプロレス本」として紹介するしかありません。

またこの本の編集者は前回の『レジェンド』と同じくGさん。私もいつもお世話になっているあのGさんと大川さんのタッグなので、クオリティーは保証済み。あとはこの本がどこまでの高みにいくのかです。


今回は『プロレス熱写時代』を各章ごとにこの本の魅力をプレゼンしていきたいと思います!


よろしくお願い致します!



★1.はじめに

まえがきは、手短に書かれていますが、きちんとこの本がどのような内容なのかを簡潔に説明されていて、しかも前作の内容も紹介しているので、何気に両作品も宣伝しているところは正直、「うまい!」と思いました。

あと大川さんの爽やかさと情熱を感じるまえがきでした。


★2.第一章 我が青春のジャパニーズ・ルチ

ユニバーサルやみちのくプロレス、大阪プロレスといった団体によって確立されていったジャパニーズ・ルチャ。

大川さんが考えるユニバーサルの功績として、テクニコ(ベビーフェース)とルード(ヒール)を同時招聘して、メキシコからの抗争をそのまま日本に輸入してきたこと、日本のマスクコレクション文化を本物思考へと導いたことを挙げています。言われてみれば確かにそのとおり!!

この第一章ではやっぱりザ・グレート・サスケ会長ですね。ここ15年以上は、バラモン兄弟絡みの宇宙大戦争の影響もあり、エキセントリックな部分がどうしてもクローズアップされますが、メジャーを凌駕した空中殺法によって日本、いや世界のプロレス界を変えたプロレスラーだと思います。

そしてサスケ会長のラ・ケブラーダを最高のポジションで撮影するために試行錯誤と研究を重ねる大川さんのプロ魂が綴られています。私は『アメトーーーク!!』でカメラマンを務めている辻稔さんのプロ魂とダブりました。辻さんも演者さんが最高のパフォーマンスが映えるように、常に試行錯誤と研究を重ねていて、大川さんと辻󠄀さんのスタンスが酷似しているように感じました。

そして、ふたりともプロレス、お笑いがとにかく大好きだということです。ちなみに辻󠄀さんはめちゃめちゃプロレス好きです(笑)




★3.第二章 メキシコに渡ったジャパニーズレスラー

この章はメキシコで活躍した日本人レスラーのエピソードが満載です。

やはりハヤブサさんの回がよかったですし、感動しましたね。大川さんが手掛けた最初で最後のビッグイベントとなった2011年10月7日後楽園ホールで行われた『仮面貴族フィエスタ2011』でちょうど10年前の2001年に不慮のアクシデントで頸椎損傷の大怪我を負ったハヤブサさんが仲間たちに支えられてリングインするドラマも綴られています。

あのハヤブサさんのリングインは…感極まりましたね…。プロレスの神様、いたのかもしれません。

★4.【特別対談その1】NOSAWA論外×大川昇

前回の本でもありました大川さんの対談コーナーは今回も健在。NOSAWA論外さんは公私に渡り大川さんと繋がっているいわば盟友といっていいかもしれません。それは論外さんが対談の中で「大川さんとは気付いたら一緒に何かをしているって感じでしたね」と語るほど。

あと大川さんが語る論外さんの凄さはかなり唸りました。

「引退前の天龍さんが誰よりも強いパンチを叩き込んでいたのはNOSAWA論外だった。大仁田さんがサンダーファイヤーパワーボムを誰よりも高い角度から落としたり、机で頭をブッ叩いていたのもNOSAWA論外だった。これって、ベテランからホンモノだと認められた証だよね」

ここがプロレスラーという特殊な世界で生きる人たちだからこその感覚なのかもしれません。

誰よりも強く殴られたり蹴られること、誰よりも強く投げられたり叩きつけられること…。それは攻め手が受け手を「コイツなら受け止められる」と認めているからこそ行っているわけで、受け手となったプロレスラーにとっては最高の栄誉なのだと。

これは学びの多い対談です!


★5.第三章 格闘写真館


この章はまずは大川さんのプロレスラーの生き様が詰まった写真の数々を堪能してください。もう見惚れてしまいます。

そして『週刊ゴング』表紙物語と題して、大川さんが表紙に採用された写真について撮影秘話を記しています。

個人的には全日本1992年6月5日・日本武道館大会で行われたスタン・ハンセンVS川田利明の三冠戦に敗れた川田さんが、試合後に控室にいるハンセンに握手を求めにいくシーンが表紙になったゴングがめちゃめちゃ好きなんですよ。よくあれを撮りましたよね。

「プロレスは人間ドラマである」

このことを当時12歳の私はこの表紙から学びました。


★6.第四章 去る男たちの素顔



こちらは引退したレジェンドレスラーたちのオフショットとエピソードが同時に味わえるチャプター。個人的にはやっぱり天龍さん。大川さんは天龍プロジェクトのオフィシャルカメラマンとして関わり、引退試合の日は全エリア出入り可能のプレスパスをもらっていたので、会場入りから一挙手一投足をカメラに収めることができたそうです。

30歳でゴングを発刊していた日本スポーツ出版社を退社してフリーになった大川さんに天龍さんが「オマエ、絶対負けるなよ!」と声をかけたというエピソードがいいんですよね。さりげなく優しくて温かい天龍らしいなと。


★7.第五章 レジェンドたちの肖像
 
350ページに及ぶこの本において後半に持ってきたのはジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんといったプロレスの神々の回。

そこでも大川さん独自のエピソードが登場します。馬場さんが言った「ゴマを擦られて嫌な人はいない」はかなりのパンチラインとして印象に残りましたし、猪木さんのサイン色紙のエピソードも猪木さんらしくて。やっぱりこの2人は偉人ですね!

あと前田日明さん。大川さんと前田さんってあまり接点がないように見えたのですが、こちらも前田さんらしいエピソードがありました。


大川さんによる選手たちのエピソードからは「やっぱり◯◯選手は凄い!」「実は◯◯選手は優しい!」といった印象をリアリティー経由で伝わり、それは「プロレスラーは凄い!」「プロレスラーは素晴らしい!」と思わせる効果があります。これは文章における大川さんの強みではないでしょうか。



★8.第六章 未来のレジェンドたち

この章は現在進行形で活躍しているプロレスラーたちの回。

これはダントツで棚橋弘至選手&中邑真輔選手の回が素晴らしい!短編としても名文。この回に2人のレスラー人生が凝縮しているかの印象を受けました。




★9.【特別対談その2】鈴木みのる×大川昇

大川さんの対談コーナー。二人目は鈴木みのる選手。あの一部で伝説となっている天龍殴打事件について、鈴木選手と大川さんが語っています!

この対談はめちゃくちゃ面白いです!鈴木選手が「ルチャ・リブレのジャベとカール・ゴッチの関節技と仕組みが同じということに気付いたんよ」という話はね、これは唸っちゃいました(笑)

あと大川さんから鈴木選手に対して「天龍源一郎がやることがないだろうってことを実現させて、しかもそのすべてに説得力がある」と評したのは、新発見でした。これも言われてみればそのとおりです!

鈴木選手からは「死ぬまで一選手としてプロレスを続ける」という宣言もあり、やっぱり鈴木選手は面白いなと感じた対談でした。



★10.あとがき 元『週刊ゴング』編集長 金沢克彦

この本のあとがきは大川さんではありません。大川さんの戦友であるプロレスライター・金沢克彦さんが担当しています。

このあとがきが、ものすごくて…。「金沢克彦、ここにあり!」と見事に印象付けています。

どのような内容なのかはこの本を読んでご確認していただきたいのですが、個人的な感想は金沢さんが過去に出された著書『子殺し』『元・新日本プロレス』を執筆されていた頃のあの金沢さんの熱筆だったんです。魂が注入されていました。大川さんの爽快感ある文章の世界観が、最後の最後に金沢さんの情熱ジャーナリズムが持っていったとさえ感じました。

凄いものを読みました。7ページで主役をかっさらい強烈なインパクトを残した金沢さんは凄い。そして恐らくこうなるだろうと予測しながらも金沢さんにあとがきを託した大川さんと編集者のGさんもまた凄いなと。プロの仕事を見ました!




この本は数多くの日本人プロレスラーたちのエピソードが満載です。またその爽やかな文章は読み心地はよくて、入魂の写真は圧巻です。鈴木みのる選手、NOSAWA論外さんとの対談も必見なので、もっとプロレスが好きになる一冊として自信を持っておすすめします!

金沢さんがあとがきで「写真は嘘をつかない」と綴っていますが、大川さんの写真からは「写真はすべてを物語る」という境地を感じました。またプロの妙技による熱写とは対象的に文章は爽やかで、二面性があるのも著者として大川さんの魅力ではないでしょうか。



ジャスト日本です。

 

今回は特別企画として、さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開する場を立ち上げました。それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

 

今回はプロレスラー・棚橋弘至選手と作家・木村光一さんによる激論対談をお送りします。

 

 

 

(写真は御本人提供です)

 

棚橋弘至

1976年11月13日岐阜県生まれ。立命館大学法学部時代にレスリングを始め、1999年に新日本プロレスに入門。同年10月、真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー。2003年に初代U-30無差別級王者となり、その後2006年に団体最高峰のベルト、IWGPヘビー級王座を初戴冠。第56代IWGPヘビー級王者時代には、当時の“歴代最多防衛記録”である“V11”を達成した。プロレスラーとして活動する一方で、執筆のほか、テレビ番組等に多数出演。2016年にはベスト・ファーザー賞を受賞、2018年には映画『パパはわるものチャンピオン』で映画初主演など、プロレス界以外でも活躍している。「100年に一人の逸材」と呼ばれるプロレス界のエースである。

 

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「プロレス界の一年の計はイッテンヨンにあり!!」

新日本プロレス2024年1月4日・東京ドーム大会

 

新日本プロレス「WRESTLE KINGDOM 18 in 東京ドーム」 特設サイト 

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)

 

 

木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある

 

木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)がいよいよ発売!

 

格闘家 アントニオ猪木【木村光一/金風舎】

 

 

 

 

 

YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談

 

https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 

 

 

 

https://youtu.be/FLjGlvy_jes 

 

 

 

https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 

 

 

 

https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 

 

 

 

 

棚橋選手は長年、所属する新日本プロレスだけではなくプロレス界のエースとして活躍してきたプロレスラー。木村光一さんはアントニオ猪木さんに関する数々の書籍を世に出し、猪木さんのプロレス論や格闘技論に最も迫った作家でした。

 

なぜこの2人が対談することになったのか。そのきっかけとなった出来事がありまして、詳しくは私のnoteで経緯や諸々をまとめております。こちらをご覧いただければありがたいです。私と棚橋選手、私と木村さんについてもこちらの記事で説明させていただいています。

 

 

昔もいまもプロレスは面白えよ!|ジャスト日本 

 

 

 

私は棚橋選手と木村さん双方と繫がりがあり、立場やお気持ちも理解できました。だからSNS上で妙にザワついてしまった状況があり、「何とか打開策はないのか」と考えたりしてました。

 

 

そんなある日、棚橋選手とやり取りをしている中でこのようなことを言われたのです。

 

 

「木村さんと、直接、話したいですね」

 

 

 

棚橋選手はシンプルに木村さんという人物に興味を持ったのかもしれません。これまでまったく接点がなかった棚橋選手と木村さんが、新日本プロレスや猪木さんというキーワードを元に言葉を交わす場として今回、僭越ながら私のブログ上で対談することになりました。

 

私にはこの2人に対談していただくことによって棚橋選手にも、木村さんにも、そしてプロレス界にも少しでも恩返しする機会になればいいなという想いがありました。

 

 

そして、棚橋選手と木村さんの対談は、こちらの5つのテーマに絞って行いました。ちなみに私は進行役としてこの対談に立ち会いました。

 

1.映画「アントニオ猪木をさがして」について

2.棚橋選手が新日本のエースとして歩んできた生き方

3.新日本道場にある猪木さんのパネルを外した理由とパネルを戻した本当の理由

4.棚橋選手と木村さんが考える新日イズムと猪木イズムとストロングスタイル

5.これからのプロレスについて

 

 

これは永久保存版です!プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた孤高の闘魂作家による対談という名のシングルマッチはどのように決着したのか!?


最後まで見逃せない対談、是非ご覧ください!



プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 前編「逸材VS闘魂作家」 


 


プロレス人間交差点 

棚橋弘至☓木村光一

 後編「神の悪戯」

 


 

 

 


 


猪木パネルを外した理由「誰かがそれをやらねば…」

「猪木ファンと棚橋選手、あるいは新日本プロレスとの溝を決定づけた出来事」(木村さん)

「パネルを外すという行為によって『新日本は次のステップに進むんだぞ』と世間にアピールしたかった」(棚橋選手)




──では次の話題に移ります。新日本道場にあった猪木パネルを外した理由と戻した理由についてです。こちらに関しては猪木パネルを外した棚橋選手がさまざまな媒体のインタビューで理由を語っておられますが、個人的にはその説明があまり足りてなかったように感じました。


木村さん 猪木ファンと棚橋選手、あるいは新日本プロレスとの溝を決定づけた出来事でしたから、私もその真意をきちんと伺いたいと思っていました。


棚橋選手 今でもその件に関しては色々と言われてます。「あの野郎、猪木さんのパネルを外しやがって!」と。でも、あの当時、新日本の誰かがそれをやらなければいけなかったんです。


木村さん といいますと?  


棚橋選手 パネルを外したのは猪木さんがIGFという別団体を旗揚げしたからです。そのとき、僕は猪木さんから「俺も好き勝手やってんだからいつまでも飾っておくなよ」と言われたような気がして。決して猪木さんが憎いとかじゃなくて、むしろそれが筋だし礼儀だと思ったんです。あとは、それをすることによって、新日本が猪木さんとは別の道でやっていくんだという意思表示でもありました。パネルを外すという行為によって「新日本は次のステップに進むんだぞ」と世間にアピールしたかったんです。




猪木パネルを戻した理由「王の帰還」

「帰還した王が戻る場所はやはり新日本プロレスの道場しかない。『ここに戻さないでどこに戻すんですか!?』というのが僕の偽らざる心境」(棚橋選手)

「このままでは猪木さんの帰る場所がないですね。だとすれば、過去の経緯はどうあれ、あのパネルが飾られるのに相応しい場所はたしかに新日本プロレスの道場しかありません」(木村さん)





──木村さんはどう思われていたんですか?


木村さん 私は棚橋選手がパネルを外したという行為については、今おっしゃったことが真意なら正当だったと思います。猪木さんは新日本に対するアンチテーゼとしてIGFを旗揚げし、はっきり対立姿勢を示したのですから。むしろ、それに呼応しなければ猪木さんのいう「プロレスは闘いだ」という根本原則に反しますし嘘になります。そこまでは納得できました。しかし、『アントニオ猪木をさがして』の中で、その棚橋選手がパネルを道場の壁に戻すシーンはあまりにも唐突で違和感がありました。


棚橋選手 たしかにパネルを戻したのはあの映画の演出の一部です。でも、嘘のない僕の正直な想いでもありました。


木村さん といいますと?


棚橋選手 2020年からコロナ禍になって、プロレスも含めてあらゆる娯楽やイベントで集客するジャンルはどん底まで落ち込みました。そこからもう一度這い上がって盛り上げていこうという矢先に猪木さんが亡くなられて…。都合のいい話ですけど、「猪木さん、もう一度、力を貸してください」と、素直にそういう気持ちになれたんです。


──今、新日本道場には再びアントニオ猪木のパネルが飾られ、その前で選手は練習をされています。何か変化はありましたか?


棚橋選手 僕より猪木さんと関わりがあった上の世代の人は、道場に入るとピリッとしてますね。猪木さんに見られている感覚があるから練習にも熱が入ります。あとは新日本にいる新弟子の中には15歳の子もいるんですが、猪木さんのことは全然知らないと思います。そういう若い世代にもあの猪木さんのパネルから何かしら感じてほしいと僕は願っています。


木村さん 映画をきっかけにして、棚橋選手も心の整理がついたんですね。


棚橋選手 猪木さんは新日本プロレスを旗揚げして、激しい戦いで1980年代にプロレスブームを巻き起こして日本プロレス界を牽引するメジャー団体に成長させ、その一方で異種格闘技戦や総合格闘技の舞台で格闘技界全体を盛り上げ、国政にも出て参議院議員になって、あらゆることをやり尽くした上で自らが創設した新日本に帰ってきた。このシチュエーションはプロレスの領土をむちゃくちゃ広げた王が元にいた場所に凱旋した「王の帰還」のドラマのエンディングだと僕は考えたんです。そしてその帰還した王が戻る場所はやはり新日本プロレスの道場しかない。「ここに戻さないでどこに戻すんですか!?」というのが僕の偽らざる心境でした。


木村さん 「王の帰還」とは言い得て妙です。プロレス界も格闘技界も未だにまとまらず全体を統括する組織もできていない。そうなると棚橋選手がおっしゃった通り、このままでは猪木さんの帰る場所がないですね。だとすれば、過去の経緯はどうあれ、あのパネルが飾られるのに相応しい場所はたしかに新日本プロレスの道場しかありません。実は、私が猪木事務所のブレーンをやっていた頃、格闘技アリーナ(猪木記念館)を作ろうというプランがあって、その企画書を作成したことがありました。結局、実現には至らなかったんですけど、そこにはプロレスや格闘技の専用会場のほか、あらゆる格闘技や団体において貢献のあった選手たちのパネルや記念品を飾る記念館も併設し、後世にその功績を伝えていこうという夢のあるプランでした。




新日本が長年温めている常設会場計画

「僕が新日本の社長になったら『イノキアリーナ』を作ります」(棚橋選手)




──それはプロレス界や格闘技界のために今後も挑んでほしい素晴らしいプランです。


棚橋選手 新日本にはずっと温めているアイデアがあるんです。東京都内に2000~4000人くらいのキャパの後楽園ホールに代わるような常設会場を作りたいという夢があるんですよ。もし実現したら、僕はその施設を「イノキアリーナ」と名付けますよ。そうすれば大きな話題になりますし、世代を超えてプロレスファンが集える場にもなる。そしてプロレスが未来永劫、続いていくのならこんなにいいことはないですよ。


──その「イノキアリーナ」に猪木さんの資料や記念品なども収蔵して公開すれば、猪木さんの多岐にわたる功績もきちんと後世に伝えることができますね。


棚橋選手  いいですね!僕が新日本の社長になったら「イノキアリーナ」を作ります。


木村さん それは公約ですね。その言葉、忘れませんよ(笑)。



──話は少し戻ります。さきほど棚橋選手が猪木パネルを外した理由として、猪木さんのIGF旗揚げを上げていました。棚橋選手はIGFについてはどのようにご覧になってましたか?


棚橋選手 IGFは総合格闘技でもプロレスでもないという印象でした。有名な選手も出ているし、きちんと技術を持っている本物の選手もいるのですが、もし僕がひとりのプロレスファンだったとしたら乗れなかったと思います。さすがの猪木さんもIGF時代は迷走していたのではないでしょうか。




木村さんの猪木論

「猪木さんが考える理想のプロレスとは格闘技術をベースに緊張感を生み出しながら観客を魅了するプロレスだった」(木村さん)




──猪木さんでも混沌が続いたIGFをコントロールすることはできなかったのかもしれませんね。木村さんはIGFについてどのように感じてましたか?


木村さん うーん…。要するに猪木さんが考える理想のプロレスとは格闘技術をベースに緊張感を生み出しながら観客を魅了するプロレスだったはずなんです。つまりプロレスという大枠の中にどれだけリアルな要素を詰め込めるのかという。猪木さんは現役時代、プロレスと格闘技の両方でそれができてしまった稀有なレスラーでした。プロレスに格闘技を引きずり込み、異種格闘技戦もハイレベルなプロレスとして成立させたのは猪木さんの最大の功績のひとつであり、誰もできなかった離れ業なんです。猪木さんとしてはそれをIGFのリングで誰かに再現してほしかったんだと思います。しかし、残念ながらあまりうまくいかなかった。そこで猪木さんは苦肉の策として格闘家たちにプロレスをやらせる方向に持って行こうと考えたのでしょうが、やっぱりプロレスはそんな簡単なものじゃなかった。と、そういうことだったのではなかったかと。


──同感です。


木村さん 猪木さんが力道山に弟子入りした当時は、まだプロレスというジャンルが確立しておらず、先輩レスラーも格闘技の精鋭揃いでした。ズラリと幕内力士が揃っていて、他にも柔道の猛者、高専柔道やレスリングの実力者もいて、凄くスキルの高い格闘家が大勢いたわけです。そういう環境の中で猪木さんはプロレスの基本としてさまざまな格闘技の技術を叩き込まれた。だから猪木さんがよく言う「俺はプロレスと格闘技に分けたことがない」というのは、そもそも猪木さんの中で最初からプロレスと格闘技は同じものだったからなんですよ。



棚橋選手 なるほど。


木村さん その考え方をもとに猪木さんはずっとプロレスをやってきたのですが、時代と共にプロレスが変化してギャップが生じていった。今回、僕は『格闘家アントニオ猪木─ファイティングアーツを極めた男』と言う本を上梓させていただいたのですが、いちばん伝えたかったのがその点なんです。もしかすると、次の時代のプロレスのヒントの一つになるんじゃないかと。周知の通り、猪木さんはプロレスや格闘技に対して具体的なことはあまり語りたがらない人でしたが、幸いなことに私はお話を伺うことができましたので、それをもう一度整理し直して、「アントニオ猪木のプロレスとは? 格闘技とは何だったのか?」あるいは「アントニオ猪木はそもそも格闘家だったのか、プロレスラーだったのか」といったテーマで深掘りさせていただきました。


棚橋選手 猪木さんはプロレスラーだったのか、格闘家だったのか…。猪木さんはファイターですよ。炎のファイターだったんじゃないですか。


木村さん この本のサブタイトルは“ファイティングアーツを極めた男”。猪木さんにとって、プロレスも格闘技もファイティングアーツだったんです。


棚橋選手 格闘芸術!


木村さん 猪木さんにすれば、何をやってもいいけど、やるなら芸術と呼ばれるくらいの域まで高めてみろよと言いたかったんだと思ってます。


──芸術にまで昇華させられれば表現方法は問わないと。


木村さん 猪木さんも実はスタイルに関してはそこまでこだわりはなかったように思います。ただ猪木さんが身につけたプロレスのベースが格闘技だったので、志向としては格闘技寄りになりがちでしたが、ご本人はあまりジャンル分けに興味はなかったし、そもそも自分が若い頃に修得した技術に関しても「これがレスリング」「これがCACC」「これが柔術」「これが高専柔道」とか整理されていたわけではなかった。全部プロレスとして呑み込んで咀嚼してしまったのがアントニオ猪木なんですよ。したがって格闘技が上位概念だという考えもない。すべてをプロレスと捉えているからアメリカンプロレスだって誰よりも上手かった。


棚橋選手 タイガー服部さん(元・新日本プロレスレフェリー)も「アントニオ猪木はアメリカンプロレスだよ」と言っていました。シチュエーションを作り上げて正義と悪の対立構造をはっきりさせ、前哨戦で盛り上げて状況を整えてから決着戦という勧善懲悪の世界観をきっちり作り上げていたということですね。


木村さん 猪木さんはただ漠然と試合をするのではなく、その2人が闘うしかないというシチュエーションを作ることを重視してました。だから猪木さんのプロレスは感情移入できてなおかつ緊張感と爆発力があったんですよ。


棚橋選手 試合前のセットアップをするか、しないかでファンの方の試合への集中力や期待感も変わってきます。激しい過酷な試合内容で盛り上げた全日本の四天王プロレスとの対比にもなりますよね。試合で凄いことをして魅せるのも大事ですが、あらかじめ試合前に闘う必然性をはっきり打ち出すことを猪木さんは一番大事にしていたんですね。「お前は怒っているのか!?」と言っていたのも「怒っているから闘うんじゃないのか」という問いかけだった。全部、繋がるような気がします。




棚橋選手にとって新日本イズム、猪木イズムとは?




──ここからはお二人が考える新日イズム、猪木イズム、ストロングスタイルについて、持論をお聞きしたいです。木村さんは先ほど(前編 参照)新日イズムは「どんな手を使ってでも客を入れてやるという意気込み」、猪木イズムは「“できない”“やらない”は絶対に言わない決意」とおっしゃってましたが、棚橋選手が考える新日イズムとは何でしょうか?


棚橋選手 僕はプロレスというジャンルは昔も今もマイノリティーだとずっと思っています。なので、「もっと有名になってやる」「もっと強くなってやる」という反骨心が新日本プロレスと新日本プロレスのレスラーには一貫してベースにあったんじゃないでしょうか。世間や物事に対する反骨心が新日イズム。「こんな面白いものを何でみんな知らないんだよ!もっと知ってくれよ!」という想いなんじゃないかなと。


──棚橋選手はマイノリティーであるプロレスをもっと世の中に広めるために全力でプロモーション活動を長年、実践されています。そこにはそういう新日イズムが流れていたわけですね。


棚橋選手 猪木さんが言っていたように、プロレスというジャンルに市民権を得たいんで

す。




──では棚橋選手が考える猪木イズムとは何ですか?


棚橋選手 僕にとっての猪木イズムは「見る前に飛んでしまえ」「とにかくなんでもやってしまえ」です。結果を気にするなと。今の時代は保険をかけて行動するじゃないですか。みんなが忘れてしまっている「成功するかどうか分からないけど、やってしまえ」というのが猪木イズムなのかなと思います。だってそっちの方がワクワクするし、どう考えても面白いんですよ。結果が失敗に終わっても猪木さんは「別に死ぬわけじゃない」位の感覚だったんじゃないですか。


木村さん そうですね。チャレンジの結果、数十億の借金を背負ってどん底に落ちても何度だって這い上がった人ですから。




「ストロングスタイルはただの言葉です。企業のイメージ戦略だと思っています」(棚橋選手)



──では、棚橋選手はストロングスタイルについてはどのように考えていますか?


棚橋選手 ストロングスタイルはただの言葉です。企業のイメージ戦略だと思ってます。ストロングという強い響きにスタイルという言葉をくっつけるとスタイリッシュでかっこいい。実態は掴めないけど、何となく強そうというニュアンスが伝わるじゃないですか。散々「棚橋の試合はストロングスタイルじゃない」と言われてきましたけど、ストロングスタイルという言葉そのものが曖昧で抽象的でしかないんです。僕は以前、猪木さんと対談した時に「ストロングスタイルとは何ですか?」と聞いたことがあって、「そんなものは知らねぇよ」と言われました。「そういうもんですよね」と思いましたよ。


──ちなみにプロレスライターの流智美さんが『詳説!新日イズム』(集英社)という書籍の中で、「ストロングスタイルとは新日本プロレスは本物・本流であり、全日本プロレスはショーマンシップが主体の見世物プロレスとファンを洗脳するために新日本関係者によって作られた和製英語」と綴っていて、ショーマンスタイルの対義語としてストロングスタイルという言葉が生まれたのだと述べています。


棚橋選手 なるほど。やっぱりイメージ戦略なんですよ。新日本は企業イメージの持っていき方が抜群にうまかったんでしょうね。

    

  


「猪木さんから直接伺った言葉ですが『カール・ゴッチをプロレスの神様にしたのは俺だ』と、はっきりそう言っていました」(木村さん)




──木村さんはストロングスタイルについてどのようにお考えですか?


木村さん 旗揚げ当時の新日本には全く売りがなかったわけで、いい外国人レスラーも呼べないし、そして猪木さんがやろうとしていたもっとスポーツ寄りのプロレスも時代が早すぎて観客に受け入れられなかった。じゃあどうやって客を呼ぶか。そのために無冠の帝王と呼ばれて誰もがその強さを認めているカール・ゴッチを神棚に祀ることで新日本プロレスをブランド化しようとしたんです。これは猪木さんから直接伺った言葉ですが「カール・ゴッチをプロレスの神様にしたのは俺だ」と、はっきりそう言っていましたから。新日本の道場をゴッチさんの色で染めたのもそのため。意図的だったんじゃないかと私は見ています。その妥協なきゴッチ流プロレスをイメージさせるのにもストロングスタイルというコピーはうってつけだったんだと思います。


棚橋選手 ストロングスタイルはレスラーのためというよりファンに対する救済処置だったような気もします。「新日本はストロングスタイル」と言えば、ジャイアント馬場さんや全日本プロレスファンとのプロレス論争でも論破しやすいわけで。その言葉が全日本との対比として生まれたのなら、猪木さんと馬場さんとの関係もずっと続いているということなんですよ。




棚橋選手と木村さんが考えるこれからのプロレスとは?



──ストロングスタイルという言葉はファンからすると守り神のような心強いワードだったのかもしれません。では次にお二人にはこれからのプロレスについて語っていただいてもよろしいですか? まずは棚橋選手からお願いします。


棚橋選手 僕が新日本のエースだった時に、団体がV字回復と言われて、みんなに「ありがとう」と言われましたけど、実は僕のレスラー人生は一度、そこで終結していたんです。「もうやり切ったな」という想いがありました。でもコロナ禍があって、せっかくみんなで盛り上げてきたプロレス人気が下がってしまったので、幸いまだ身体を動くので、もう一回コロナ前以上にみんながプロレスを楽しめる状況を作って役目を終えたいというのが今、僕にとって一番のモチベーションです。


──プロレス界で成し遂げたいことは?


棚橋選手 先ほどちょっと触れましたけど常設会場を作ることですね。そういう突飛なことをやって、最後に僕なりに猪木イズムと決着をつけて終わりたい。僕は猪木さんから一字もらっています。名付けというのは一種の呪いですから。(棚橋弘至選手の至という字はアントニオ猪木さんの本名である猪木寛至が由来だと言われている)


──木村さんはこれからのプロレスについて何か意見はありますか?


木村さん 正直、現状のプロレス界はネガティブな感じがしてなりません。プロレス団体がファンの囲い込みに躍起になっているというか。そんなことをやっていては外に広がりませんし、とくに私のように何十年もプロレスを見てきたファンは、なによりそういう囲い込みを嫌います。プロレス界は一丸となって、もっと外に、世間に対してオープンに発信を行っていった方がプロレスというビジネスのためにもなると思います。そして、昔はプロレスマスコミが色々なことをリードしながら共にキャラクターを作り上げていたと思うんですけど、今はSNSでレスラーも自分から発信できる時代ですから、もっと自己プロデュース力を磨いて自己主張してほしい。プロレス団体も管理するばかりじゃなく、もっと個々のレスラーやマスコミに代わってプロレスに関する情報を積極的に発信しているファンを後押しする環境を整備してほしいですね。


棚橋選手 「プロレスは時代の写し鏡」とはよく言ったもので、僕もチャラ男という言葉が全盛のとき、うまく自分のキャラクターにハマったと思ってます。


木村さん 好みは分かれるところですが、棚橋選手は時代の空気を絶妙に掴んで自分のものにしたいちばんの成功例だったんじゃないでしょうか。それともう一つだけ言わせてください。2000年代半ば以降、新日本を筆頭に日本のプロレス団体の多くがWWEのような方向性を目指して今に至っていると思われます。しかし、私はWWE的なやり方は日本のプロレスには馴染まないとずっと感じています。それについては猪木さんも同意見で、根本的に西洋人の鍛えられた肉体美や豊かな表現力と勝負しても勝てない、日本のプロレスは独自の方向性を目指すべきだと語っていました。



棚橋選手と木村さんにとってプロレスとは?


──棚橋選手は今の木村さんの言葉をどのように受け止めましたか?


棚橋選手 僕はプロレスで盛り上がる状況というのはタイトルマッチ、世代闘争、団体対抗戦と限られたものしかないので、だからそういう自然発生的に生まれる選手の感情を、対戦カードに落とし込んでいく方が、日本のプロレスには合ってるんじゃないかなとずっと思ってます。盛り上がった試合が見たいというのはもちろんあると思いますけど、それ以前に「応援している選手に勝ってほしい」「この試合に負けてほしくない」という勝負論がないと駄目で、「なんで俺が勝ちたいのか」「こいつには負けたくない」という想いとか、闘う理由を後付けするのではなく、自然に理解してもらえたらプロレスがもっと盛り上がるし、もっと外に伝わるんじゃないかなと思います。世代闘争や団体対抗戦は、世間に置き換えると会社に嫌な上司がいたり、競合相手には負けたくないというリアルな実感にも通じて落とし込みやすい。自己投影や感情移入がしやすいところもプロレスの魅力なんです。


木村さん 棚橋選手は、かつて新日本プロレスが発散していた危険な匂いについてはどう思われますか?


棚橋選手 僕は選手の感情が極みに達した結果、図らずも不穏試合になるというケースもプロレスには必要だと思ってます。


木村さん それを聞いて胸のつかえがおりました。ありがとうございます。


──ではここで棚橋選手と木村さんにお聞きします。あなたにとってプロレスとは何ですか?まずは棚橋選手からです。



棚橋選手 プロレスは生き方です。それはずっと言い続けています。やられてもやられても歯を食いしばって耐えて、チャンスを狙って足掻き続けて反撃するという図式があって、やられてばかりじゃなくて、攻めているばかりじゃない。いいこともあれば悪いことがあるのがプロレス。プロレスは人生と言ってしまうと、プロレスラー以降の人生がなくなってしまうような気がするので、プロレスは生き方なんです。


──では木村さん、お願いします。


木村さん プロレスとは可能性じゃないでしょうか。猪木イズムもそうですけど、プロレスには、やろうと思えば不可能はないんですよ。「やるのか、やらないのか」だけで。やろうと思ったことができるのがプロレスで、ファンはそれを見てカタルシスを味わってきた。棚橋選手もおっしゃっていた挑戦する気持ちですね。「絶対に俺はこれを成し遂げるんだ」という想いをリングの上で表現してみせることが、いつの時代でもプロレスの醍醐味だったのではないでしょうか。その際、表現方法は個々に見つければいい。強さを見せるのか、華やかさを見せるのか。その覚悟と可能性を見せるのがプロレスラーの仕事なのではないかと私は思っています。


──棚橋選手は木村さんの言葉を聞いてどのように感じましたか?


棚橋選手 肝に免じておきます。コロナ禍になってプロレスは衣食住から必要な職業ではないという烙印を押された。でも人が生きていく上での衣食住には関係ないけど、エネルギーをもらえたり、プロレスからしか得られない栄養素はきっとあると思っています。僕がファン時代にもらった原体験があるわけで、これからも「プロレスを見て人生が楽しくなった。元気や勇気をもらえた」僕みたいな少年がひとりでも増えるようにこれからも頑張りたいですね。


2人の刺激的対談、決着!

「僕は古参のファンの皆さんにも現在進行形のプロレスに戻ってきてほしい」(棚橋選手)

「今回の対談で棚橋選手の想いは十分理解できました」(木村さん)




──そろそろ急遽実現したこの対談もエンディングの時間となりました。棚橋選手、率直にこの対談、いかがでしたか?


棚橋選手 楽しかったです。木村さんのお話を伺って、いろんなことが腑に落ちましたね。そして、これは本音として言わせてください。僕は古参のファンの皆さんにも現在進行形のプロレスに戻ってきてほしい。あの熱狂したプロレスの原風景を知っている皆さんにもう一度今のプロレスを盛り上げてもらえたら、プロレスはもっと世間に届くはず。そう思っているんです。


木村さん 私も今回の対談で棚橋選手の想いは十分理解できました。発端こそ棚橋選手のインタビュー記事に対する私の怒りでしたが、それがこんな思わぬ形の出会いになり、ここまで深く、お互いに腹を割って話し合うことができて本当に良かったと思ってます。棚橋選手、ジャスト日本さん、素晴らしい機会を作っていただき、ありがとうございました!


棚橋選手 こちらこそ、ありがとうございました!


──棚橋選手、木村さん、ありがとうございました!


木村さん いや、今、ふと、もしかするとこれって天国の猪木さんのイタズラ? と思いました(笑)。


──ハハハ、そうかもしれませんね。さて、猪木さんと新日本という名のもとに繋がった棚橋選手と木村さんの緊急対談は以上となります。本当にありがとうございました!お二人のご活躍を心からお祈りしております。


(プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一・完/ 後編終了)







ジャスト日本です。

 

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今回はプロレスラー・棚橋弘至選手と作家・木村光一さんによる激論対談をお送りします。

 

 

 

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棚橋弘至

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木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある

 

木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)がいよいよ発売!

 

格闘家 アントニオ猪木【木村光一/金風舎】

 

 

 

 

 

YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談

 

https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 

 

 

 

https://youtu.be/FLjGlvy_jes 

 

 

 

https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 

 

 

 

https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 

 

 

 

 

棚橋選手は長年、所属する新日本プロレスだけではなくプロレス界のエースとして活躍してきたプロレスラー。木村光一さんはアントニオ猪木さんに関する数々の書籍を世に出し、猪木さんのプロレス論や格闘技論に最も迫った作家でした。

 

なぜこの2人が対談することになったのか。そのきっかけとなった出来事がありまして、詳しくは私のnoteで経緯や諸々をまとめております。こちらをご覧いただければありがたいです。私と棚橋選手、私と木村さんについてもこちらの記事で説明させていただいています。

 

 

昔もいまもプロレスは面白えよ!|ジャスト日本 

 

 

 

私は棚橋選手と木村さん双方と繫がりがあり、立場やお気持ちも理解できました。だからSNS上で妙にザワついてしまった状況があり、「何とか打開策はないのか」と考えたりしてました。

 

 

そんなある日、棚橋選手とやり取りをしている中でこのようなことを言われたのです。

 

 

「木村さんと、直接、話したいですね」

 

 

 

棚橋選手はシンプルに木村さんという人物に興味を持ったのかもしれません。これまでまったく接点がなかった棚橋選手と木村さんが、新日本プロレスや猪木さんというキーワードを元に言葉を交わす場として今回、僭越ながら私のブログ上で対談することになりました。

 

私にはこの2人に対談していただくことによって棚橋選手にも、木村さんにも、そしてプロレス界にも少しでも恩返しする機会になればいいなという想いがありました。

 

 

そして、棚橋選手と木村さんの対談は、こちらの5つのテーマに絞って行いました。ちなみに私は進行役としてこの対談に立ち会いました。

 

1.映画「アントニオ猪木をさがして」について

2.棚橋選手が新日本のエースとして歩んできた生き方

3.新日本道場にある猪木さんのパネルを外した理由とパネルを戻した本当の理由

4.棚橋選手と木村さんが考える新日イズムと猪木イズムとストロングスタイル

5.これからのプロレスについて

 

 

これは永久保存版です!プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた闘魂作家による対談という名のシングルマッチ、いざゴング!


プロレス人間交差点 

棚橋弘至☓木村光一

前編「逸材VS闘魂作家」


 

 

 


 「猪木さんの功績をこの世に残したいという多くの人たちの想いが映画という形に結実したのはベストだった」(棚橋選手)




──棚橋選手、木村さん、今回の「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!プロレスの今と過去をテーマに、未来に繋がり、実りのある対談になればと考えています。よろしくお願いいたします!


棚橋選手 よろしくお願いいたします!


木村さん よろしくお願いいたします!


──まずは10月6日に映画『アントニオ猪木をさがして』が全国公開され、賛否両論の声があがりました。「いまを生きる中高年に改めて、『おめぇはそれでいいのか?』と覚悟を突きつける人生の応援歌」「猪木ビギナーにやさしいつくりの映画」「めちゃくちゃ元気をもらった」といった高評価がある一方、「観る価値なし」「猪木の魅力が伝わってこない」「何度席を立とうとしたか。観る側に何を伝えたかったのかサッパリ分からん」という厳しい意見もありました。そこでお聞きします。まず、出演者として関わった棚橋選手はこの映画についてどのように捉えていますか?


棚橋選手  映画化するという話を聞いた時は「この手があったのか」と思いましたね。スペシャルDVDを制作するとかドキュメンタリー番組を放映するとか色々な打ち出し方がある中で、かつて猪木さんが言っていた「環状線理論」(業界人気を上げるためには環状線の内側がファンだとすれば、環状線の外側にいるファンじゃない人たちを引き込むことが必要だという猪木特有の理論)で考えるとプロレス界の外側に届けることができる映画という手段がよかったかなと思います。

僕はアントニオ猪木VSビッグバン・ベイダー(新日本プロレス/1996年1月4日東京ドーム大会)を見て、以前から好きだった猪木さんに心をあらためて鷲掴みにされて大好きになったんです。猪木さんの試合をオンタイムで見ていたファンの皆さんにはもう一度その素晴らしさを思い出してほしかったし、猪木さんを知らないファンの皆さんにも知ってもらいたかった。ですので猪木さんの功績をこの世に残したいという多くの人たちの想いが映画という形に結実したのはベストだったと思ってます。


──木村さんは映画『アントニオ猪木をさがして』をご覧になってどのように感じましたか?


木村さん 今、猪木ファンの間でも意見が分かれているようですが、率直に言って私にとってはすごく気持ちのいい映画でした。なにより、イベントが大好きだった猪木さんの一周忌に映画を公開していただけたことに対し、いちファンとして感謝しかありません。あまりマニアックに作り込みすぎても一般のお客さんは疎外感を味わうだけになってしまいます。再現ドラマのパートも、アントニオ猪木を理解するとき、やっぱりその時代背景もひっくるめて表現しないと僕ら猪木現役世代が味わった熱い思いは若い人たちには伝わりません。したがって1人の猪木ファンの人生ドラマとしてそれを表現するのはありだなと思いました。


棚橋選手 ありがとうございます。この映画を制作したプロデューサーや監督は木村さんが指摘した部分をかなり意識されてました。ドラマパートは昔からの猪木ファンの方々に「あの頃、よく家族や友達とプロレスの話題で盛り上がったなぁ」という記憶を呼び起こす効果があったんじゃないですか。


木村さん 家族間のテレビのチャンネルの取り合いのエピソードなどはまさにあの時代ならでは。好きな動画をいつでも自由に楽しめる今の若い人たちには想像もつかないことでしょう。


棚橋選手 しかも金曜夜8時に放送されていた『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日系)の裏番組も強力だったとか。(1970~1980年代、『ワールドプロレスリング』は日本テレビ系『太陽にほえろ!』、TBS系『3年B組金八先生』といった国民的人気番組と熾烈な視聴率競争を繰り広げていた)


木村さん ビデオデッキは高嶺の花で、一般家庭にようやく普及し始めたのが80年代半ば。ですからそれまではプロレス中継を見る私たちも一発勝負だったんですよ。だから見る側の集中力も高かったし、没入感がまったく違っていましたね。


棚橋選手 没入感!いいキーワードですね。まだエンターテインメントの選択肢が少ない時代、熱中せざるを得ないという状況でもあったわけですね。


木村さん 当時はプロ野球全盛の時代で、大人も子供もみんな野球に熱中していました。ゴールデンタイムのテレビは毎日、巨人戦。おまけに金曜8時は人気番組の勢揃い。でも私のようにプロ野球には乗れないタイプもいて、その人たちのためにプロレスはあるという感じもありました。


棚橋選手 なるほど、迷える人たちをプロレスが「俺たちが受け止めてやる!」と包み込んだという…プロレスは異端児たちの受け皿だったわけですか。まさに受けの美学ですね。




「棚橋選手、あの記事は本音ですか?炎上を狙ったものですか?」(木村さん) 



──棚橋選手は映画『アントニオ猪木をさがして』のプロモーションでかなりの数の媒体でインタビューを受けていました。実はその中の1つの記事が今回のこの対談のきっかけになったわけですが…。


木村さん それについて、一点、棚橋選手に確かめたいことがあります。よろしいでしょうか?


棚橋選手 はい。


木村 私は今のプロレスやレスラーに対して批判的なことを一切書かないことをモットーにしています。それを書いたところで何も新しいものは生まれないし、プロレスファンの世代間の溝が深まるだけ。そんな不毛な衝突を煽るようなことはやりたくないんですよ。でも、『アントニオ猪木をさがして』に関するある記事を読んで違和感を感じ、「これは違うんじゃないか」とX(Twitter)に投稿しました。棚橋選手が本当にそういう話をしたのかどうなのか、あるいはどのように発言が切り取られたのか、何らかの書き手の意図があったのか。棚橋選手の言葉が必ずしもストレートに反映されていない可能性があるとも思いましたが、オフィシャルに棚橋選手の意見として世に出てしまった以上、どうしても黙っていられなかったんです。はっきりお聞きします。あの記事は本音ですか? あるいは炎上をあえて狙ったものだったのですか? 


棚橋選手 僕がアントニオ猪木を越えたという発言ですよね。


木村さん いえ、プロレスラーは自己演出と自己主張をしてナンボですからそんなことは構わないんですよ。私がカチンときたのは、猪木さんが人生を懸けて取り組んでいた事業の数々を揶揄したようなくだり。そもそも事実関係にも誤りがあって、だから「知らないのであれば一切語ってほしくない」という趣旨の意見を書いたんです。


──「試合をして、ファンの喜びを自分の喜びにしたら、『永久電機』ですよ。猪木さんが(アントン・ハイセルで失敗して)作れなかった永久機関を実はもう作っている。猪木超えを果たせたのかもしれません(笑)」という棚橋さんのコメントですね。


木村さん はい。



──アントン・ハイセルは1980年代に猪木さんがブラジル政府を巻き込んで取り組んでいた国際的な事業で、サトウキビからアルコールを精製したあとに残る大量の産業廃棄物であるバガス(サトウキビの搾りカス)をバイオ技術で家畜の飼料に生まれ変わらせ、エネルギー不足と食料不足を一挙に解決するという夢のプロジェクトでした。永久電機は、アントン・ハイセルの失敗から約20年を経て再び猪木さんが手がけた「スイッチを入れたら永久に自力で駆動し続ける発電機」の開発。そもそもアントン・ハイセルで失敗して永久電機を作れなかったというのは時系列からして事実とは違っているということですね。


木村さん その通りです。要するに、アントニオ猪木を否定するなら否定するで、もっときちんと知ってから発言して欲しいんですよ。事業についてもそうですが、プロレスラーとしてのアントニオ猪木をどれだけ理解しているのですかと。私が言いたかったのはそれだけのことでした。


棚橋選手 炎上を狙ったかどうかについては、まったくそんなつもりはなかったです。僕は猪木さんがやってきた数々の事業は本当に凄いことだったと尊敬してます。ただ猪木さんに時代が追いついてなかっただけで。今のプロレスラーで環境問題とかエネルギー問題とか、世界規模で物事を考える選手は1人もいませんよ。「自分がどう強くなるのか」「チャンピオンになってスターになるのか」とか自分主体になってしまうのに猪木さんはどういう頭の中をしているのだろうと思ってました。結果的に事業はことごとく失敗しましたけど、猪木さんが誰もやっていないビジネスにチャレンジしたこと自体が凄いことなんです。だから、つまり、この記事からはその想いが全然伝わってなかったということですね…。


木村さん 印象としてまるで真逆でした。


棚橋選手 それは心外です。自分ができないことをされている方はもう無条件で尊敬の対象になるし、猪木さんの型破りな実行力はもちろん尊敬に値します。また、それを支え続けた坂口征二会長(現・新日本プロレス相談役)も凄いなと思います。


──もしかしたらこの記事で特に物議を読んだくだりも何かしら補足の言葉があれば印象がガラっと変わったかもしれませんね。


棚橋選手 そうですね…。一言、足りなかったのかも…。事業を失敗したことについて、馬鹿にしたようなニュアンスになってしまっていたのなら、僕の想いとは違った形で伝わってしまったのかなと思います。




「猪木さんの存在がいなければ『100年に1人の逸材』にはなれてなかった」(棚橋選手)    




──あらためて、最近の一連のインタビューで棚橋選手が伝えたかったことを教えてください。


棚橋選手 ポイントはいくつかあって、僕より上の世代である50~60代の皆さんとオンタイムで猪木さんを見ていない35歳以下の世代の皆さんにどのようにアプローチするのかを意識しながらインタビューを受けてました。ただ単に猪木さんの素晴らしさを語ると、いくらでも出てくるし、名勝負も多いです。でもそれは猪木さんの好きな方はご存知の話なので、そこじゃない部分でフックを作るということを意識してました。


木村さん 結果的にそのフックが思わぬ形のフックになってしまったと。


棚橋選手 そうですね…。違うところに引っかかったかもしれませんね(苦笑)。「賛否両論あって本物」という人もいるし、「これはちょっと…」という人もいて、それが猪木さんの偉大さで、プロレスの議論を熱くしていたと思うんです。その曖昧さも猪木さんの時代の魅力だったのかなと。今は何でもかんでも「白か、黒か」ときっちり分けてしまうところがあって、それは正しいということなんですけど、白と黒の中間の灰色があってもいいじゃないなというのがプロレスからずっと発しているメッセージなのかもしれません。



──ちなみに棚橋選手は猪木さんと試合をしたわけではないのですが、仮想敵国のような感じでずっとアントニオ猪木という存在と闘ってきたように感じます。ではどの部分で猪木さんに打ち勝ちたいという想いがありましたか?


棚橋選手 うーん…。「やる前に負けることを考える馬鹿がいるかよ!」という猪木さんの名言がありますけど、力道山先生が活躍した頃は戦後の日本復興という時代背景がありました。猪木さんも時代が生んだプロレス界のスーパースターでした。やはり時代に乗れないとなかなかスターからスーパースターには昇格できないんですよ。だから猪木さんに挑むというのは今のレスラーからしたら、負け戦なんです。もう敗退するのを分かっていて突っ込めるのか。新日本に入ってそれをやる選手、やらない選手の2種類に分かれて、やらない選手が圧倒的なに多かったんです。僕はそういう姿勢を打ち出したから、目立ったわけで。だから棚橋弘至というレスラーを作り上げていく中で、猪木さんの力を借りたということです。


木村さん 棚橋選手がアントニオ猪木という絶対的存在と闘うことを決意したのはいつ頃ですか?


棚橋選手 猪木さんが総合格闘技(PRIDE)のプロデューサーをやっていた頃です。正直、「なんでプロレスを助けてくれないんだろう」と思ってました。他力本願かもしれないけど、あの時に影響力がある猪木さんが「プロレスは面白い」と言ってくれたら多くの皆さんが振り向いてくれて、救われた人も多かったはずなのにと…。


木村さん そのときに怒りを感じたわけですね。


棚橋選手 じゃあ僕が猪木さんに負けない影響力を持つレスラーになればいいじゃないかという気持ちをずっと持ち続けて、ここまでプロレスをやってきました。直接的な関わりは少ないですけど、猪木さんの存在がいなければ「100年に1人の逸材」にはなれてなかったような気がします。


──アントニオ猪木という存在がなければ棚橋弘至もレスラーとしてステータスを上げることはできなかったと。


棚橋選手 もっとクセのないレスラーになっていて、ただカッコいいという評価で終わってましたよ。思えば2006年~2010年頃まで結構ブーイングされてましたから。新日本隊にいて、ベビーフェース側なのにブーイングを受けて、強烈に人に嫌われる経験したことが僕のレスラー人生にとって大きかったですね。片方がブーイングされるということは、もう片方に応援が集中するというプロレスの原風景ともいえる仕組みをより知ることができました。


木村さん 猪木さんも「ベビーフェースしかやれないヤツは駄目だ」とよくおっしゃってましたよ。


──私の大好きなレスラーであるブレット・ハートが「車で例えるとベビーフェースは助手席、ヒールはドライバー」という名言を残してましたよ。


棚橋選手 なるほど!


──試合はヒールが組み立てるという意味なのですが、逆にずっとベビーフェースというのもずっと御輿に担がれるという覚悟が必要なのかなと思います。


棚橋選手 確かにその通りですね。



猪木さんの本音

「『プロレス界は俺をまったく尊敬していない。それに対してPRIDEは最高の敬意を払ってくれている。それに対してきちんと応えているだけだよ』と…」(木村さん)





──木村さんは猪木さんがPRIDEエグゼクティブプロデューサーをされていた頃、猪木事務所のブレーンとして関わっていましたね。格闘技界と接触していく2000年前半の猪木さんの動きについてはどのように思われてましたか?


木村さん PRIDEの百瀬博教先生(作家。「PRIDEの怪人」と呼ばれプロデューサー的役割を担っていた。選手には小遣いや土産を渡すなどタニマチ的な存在でもあった)に同行してアメリカ・ロサンゼルスまで猪木さんの取材に行ったことがありました。その間、PRIDEサイドの考え方、猪木さんに対する評価を百瀬先生から直接伺ったんですが、無条件で猪木さんを称賛してましたね。そのあと、それについて猪木さんはどう感じていたのか本音を聞きました。「なぜ今、格闘技なのか?」と。で、これは言っていいのかな…。


棚橋選手 是非、聞きたいです!


木村さん 「プロレス界は俺をまったく尊敬していない。それに対してPRIDEは最高の敬意を払ってくれている。それに対してきちんと応えているだけだよ」と、ちょっと悔しそうでもありました。


棚橋選手 そうだったんですね…。猪木さんも寂しかったのかな…。


木村さん 孤独だったんだと思います。


棚橋選手 猪木さんはいつも元気でスーパーマンというイメージがあるから、そういう感情の起伏を人に読ませないじゃないですか。だから全然そういう感情には気づきませんでした。プロレス界の側もリスペクトを込めて「猪木さんはここにいてください。全部用意しますからお願いします」という姿勢があってしかるべきだったということですね…。



新日本が一番厳しかった時代で決めた覚悟

「『どうにかならないかじゃなくて、どうにかすればいいんだ』と。その時、映画のワンシーンみたいに円形の光が『ファー』と僕を包み込むように降りてきた」(棚橋選手)





──猪木さんの寂寥感というのは、1990年代から続く長州力さんの体制になってから続いていたものかもしれませんね。


棚橋選手 猪木さんと藤波辰爾さんの関係と猪木さんと長州さんの関係は違うんですよ。藤波さんはとにかく猪木さんが大好きだったんですけど、長州さんは猪木さんとは違うスタンスだったことも、影響したのかもしれませんね。


木村さん これは私の持論ですが、新日本プロレスの道場には猪木イズムがUWF勢が離脱するまでは受け継がれていたと言われていますが、こと技術に関して言えば、猪木の流儀は新日本の道場には最初からなかったと思ってます。そこにあったのはカール・ゴッチによるゴッチイズムであって、新日旗揚げ以降の選手たちは猪木さんへの尊敬の念は別として、実質的にはカール・ゴッチさんの弟子だった。ところが長州さんはゴッチイズムに馴染めずにあぶれた人で、平成に入って現場は長州体制となり、そこでゴッチイズムを完全否定して新日本道場も作り変えた。新日本はつねに根本から変わり続けていたんですよ。ただ、猪木さんとゴッチさんのプロレス観には隔たりがなかったからよかったのですが、長州さんがゴッチ色を一掃しようとして極端に逆の方向へ走った。だから長州体制になって猪木さんがプロレススタイルについて異議を唱え始めた。猪木さんは「なんで今の選手はラリアットばかりなんだ」と不満そうでしたね。


棚橋選手 たしかに、一時期、新日本にはラリアットプロレスというのが前提にありました。


木村さん 長州さんは猪木イズムやゴッチイズムを全部排除して、まったく新しい自分の世界を作ろうとしたのだと私は考えています。そこで生じた猪木さんとの軋轢が、そのまま2000年代はじめの混乱の源だったと。多くの選手が新日本を離脱する背景にはオーナーである猪木さんと現場トップとの対立がもろに影響していたんですよ。私は猪木さんと長州さんの両方に近い方との付き合いもありましたので、きな臭い話も色々耳にしていました。傍で見ていて、こういう状況では選手や社員の皆さんが疑心暗鬼になるのも当然だと思ってました。そしたら案の定、大量離脱が発生して新日本が経営危機に陥ってしまったんです。



──棚橋選手は大量離脱が発生した2000年代前半でレスラーとして頭角を現わすようになります。その頃の新日本の空気はどうでしたか?


棚橋選手 大量離脱は2000年の橋本真也さんから2006年の藤波さんまでの長期間、続くんですよね。長州さん、大谷晋二郎さん、武藤敬司さん、小島聡さん、佐々木健介さんとか多くの選手が新日本を辞めていきました。でも僕はラッキーと思ってましたよ。これであっという間にトップに行けると!


木村 そこはポジティブに捉えてたんですね。


棚橋選手 僕はIWGP・U-30無差別級王者だった2005年かな。新日本が一番厳しかった時代です。試合会場のドレッシングルームで、「誰かスーパースターが現れてプロレス界が盛り上がらないかな」と漠然と考えていて、先輩や後輩も含めて他のレスラーの顔ぶれを見た時に「俺かぁ!」と思って、そこで覚悟が決まりました。「誰かがやるのではなく自分がやればいいじゃないか」「どうにかならないかじゃなくて、どうにかすればいいんだ」と。その時、映画のワンシーンみたいに円形の光が「ファー」と僕を包み込むように降りてきた感覚があって…。今思うと我ながら、一番険しい道を選びましたね。


──棚橋選手は団体が激動に揺れていた1999年に新日本に入門されました。2000年代前半になると、オーナーである猪木さんの現場介入というのが顕著に目立つようになります。棚橋選手絡みでいいますと、2004年11月19日大阪ドーム大会で当初、ファン投票で棚橋弘至VS中邑真輔の初シングルマッチ(IWGP・U-30無差別選手権試合)が決まったのですが、直前に猪木さんの強権発動でカード変更。棚橋選手は天山広吉選手とのタッグでファイティングオペラ『ハッスル』代表チームの小川直也&川田利明と対戦しました。カード変更の一件も含めて、この時期の猪木さんの介入についてどのように思われてましたか?


棚橋選手 ウンザリしてました。でも、もし当初のカードをそのままやってもたぶん盛り上がらなかったような気がします。猪木さんはなんやかんやで新日本に気をかけてくれていて、意地悪とかじゃなくて、「これが最善策」だと思ってそういう行動を取られたのかと。今、振り返るとそう思います。




「棚橋選手の本音を伺って、猪木さんの新日イズムは継承されていたんだと感じた」(木村さん)




──新日本2001年4月7日・大阪ドーム大会。テレビ朝日は当日2時間ゴールデンタイム生中継が組まれていたのですが、新日本からなかなかカード発表がなくて、中継の目玉も提示してこなかったんです。それに対して業を煮やしたテレビ朝日サイドが猪木さんに「中継の目玉を作ってほしい」と直談判したそうです。


棚橋選手 そうだったんですね。


──猪木さんは、テレビ朝日からの依頼を受けて、新日本VS猪木軍という図式で、藤田和之選手に初代IWGPヘビー級王座を持参させて、当時のIWGP王者スコット・ノートンと「IWGP王座統一戦」を組ませたり、犬猿の仲である橋本真也さんと佐々木健介さんの一騎打ちを実現させたり、小川直也さんと長州力さんが一触即発の状況になったり、試合前のセレモニーでなぜか天井に「魂」と書かれた巨大な球体が浮かび中で猪木さんが「闘う魂をこのリングに呼び起こせ!」と叫んだりと、結果的には盛り沢山の話題を提供したとも言われています。


棚橋選手 猪木さんは本当にアイデアマンですよ。普通の人では思いつかない切り口でやってくるので、猪木さんを理解することは並大抵のことじゃないんです。そんな猪木さんを理解する前にシャッターを閉めたのが長州さんだったと思います。


木村さん 今の話を聞いていて、新日イズムって何なのだろうなと…。要するに新日イズムは「どんな手を使ってでも客を入れてやろうじゃないか」ということなんですよ。そして、猪木イズムとは、「“できない”“やらない”は絶対に言わない」こと。


棚橋選手 その意味でいえば、新日イズムや猪木イズムは僕にもありましたね。プロレスラーとしてつねに会場を絶対に満員にしてやるという気持ちはあります。



木村さん ええ、今日、初めて棚橋選手の本音を伺って、なるほど猪木さんの新日イズムは継承されていたんだと感じました。


棚橋選手 僕はプロレスと出逢うまで「このまま普通の生活をしながら人生を終えるのかな」と考えていましたが、高校3年生の時にプロレスが好きになって、「こんなに熱中できるものがあるのか」「プロレスがあるから生きていける」と思うくらい人生が1000倍、楽しくなったんです。逆に「こんな面白いジャンルを知らずにここまで生きていたのか」と後悔の念もありました。プロレスを好きになるというのは確率の問題で、「全国1000万人のプロレスファンの皆さん」と古舘伊知郎さんが実況で言っていた頃は毎週20%の視聴率を取っていましたから1000万人、2000万人がたしかに見ていたんです。今はそこまで多くの皆さんがプロレスと接していないんですけど、1人でも多くの皆さんにプロレスを好きになってもらいたい。そのためには自分たちが自信を持っているプロレスを見せるしかない。だからプロモーションにも力を入れたし、「もっと有名になりたい。有名になればもっとプロレスが世間に届く」とずっと思ってました。



ユークス時代の新日本を振り返る

「今、こうやって喋りながら、あの当時の情熱が蘇ってきました」(棚橋選手)




──それは2005年からのユークス体制になってから棚橋選手がやってきたことに繋がりますね。改めて、この時代について振り返っていただいてもよろしいですか。


棚橋選手 正直に言うと、現場の足並みはまだ揃いきってなかったです。僕がIWGP王者になって、メインイベント後にマイクで興行を締めることが多くてまだ『新日本プロレスワールド』がなかった時代に全国各地の会場で「有名になります!」と宣言してました。「僕が道を歩けないくらい有名になれば、プロレス会場が絶対に満員になるんだ」と…。なんか今、こうやって喋りながら、あの当時の情熱が蘇ってきましたよ。どうやったら有名になるのかずっと妄想してました。例えば、「散歩で通りかかった時に、川で子供が溺れているのを助ければすごく有名になるんじゃないのか」とか。


木村さん たしか猪木さんも代官山のマンションに住んでいた頃、火事から隣人を助けて表彰されたことがあったという記憶があります。でも、猪木さんの場合、いいことをやってもあんまり表に出なかった(笑)。


棚橋選手 猪木さんは奥ゆかしい方で、自分からそういうことを発信するようなことはしませんでしたね。


──では棚橋選手の中で新日本のエースとして試合からプロモーションに至るまで奮闘する中で「これはいけるな!」と思ったのはいつ頃ですか?


棚橋選手 大きく変わったのは2012年のオカダ・カズチカの凱旋ですね。あれから新日本のビジネスがワンランク上がりました。僕は2012年1月4日東京ドーム大会で鈴木みのるさんを破ってIWGP王座V11を達成したのですが、あの時点ではその先の展望があまり見えてなくて、その中で凱旋して僕を破って24歳でIWGP王座を奪取して、一躍スターとなったオカダの存在は大きかったです。農産物で例えると、荒れ地を僕が耕して、種をまいて、芽が出始めた時にオカダという大雨が降って、作物が育って、オカダから王座を取り返すことで僕という太陽によって作物がさらに大きく実った。雨と太陽が繰り返されたことで、一番作物が育ちやすい環境が何年も続いたわけですよ。


──棚橋選手にとってもオカダ選手の存在は特別だったんですね。


棚橋選手 僕と中邑真輔のライバル関係がひと段落した時に、オカダが現れて、4年間は棚橋VSオカダの物語で新日本を引っ張っていったので、あんな敵対関係はなかなかないですよ。だからオカダには「同じ時代に生まれてくれてありがとう」と言いたいですね。


──オカダ選手にとって棚橋選手というライバルがいたから、経験値が上がって自身の成長スピードが加速したという感じがします。


棚橋選手 「レインメーカー」を生んだのは僕かも(笑)。


──ハハハ(笑)。ちなみにこれはお聞きしたかったんですけど、2012年に新日本の親会社がブシロードに変わりました。ユークス体制の時は猪木さんというフレーズがどこかタブー視されていたように思います。ブシロード体制になってからちょくちょく猪木さんの名前が出るようになりました。こちらについてどのように感じてましたか?


棚橋選手 そこは全然意識はしてなかったんですけど、猪木さんに対するアレルギーが時間とともに薄れていった結果なんじゃないですかね。新日本の土台がしっかりしてきて、ビジネスとして盛り上がっていった状況で、猪木さんの名前を出しても揺るがないという自信があったのかもしれません。




「『できない・やれないを絶対に言わない』という猪木イズムに則ると、一度でも『できない』と言ってしまうと猪木さんから見切りをつけられてしまう」(木村さん)




──話は少しさかのぼりますが、2006年に猪木事務所が突然閉鎖します。木村さんは猪木事務所の外部ブレーンとして協力されていた時期があり、棚橋選手が新日本で浮上していく頃の新日本と猪木事務所の関係を見ていたと思います。木村さんは新日本と猪木事務所の関係についてどのように捉えてましたか?


木村さん あまりいい関係には見えませんでした。猪木さんではなく、猪木事務所が新日本をひとつ下に見ている感じはありました。これは猪木さんのやり方なんでしょうけど、猪木事務所以外にも猪木さんの側近の方々はそれぞれグループを形成していて、そこで猪木さんをめぐる綱引きがつねに繰り広げられていたんです。結果的には本家本元だと思っていた猪木事務所がある日突然また別のグループに取って代わられて、いきなり解散になってしまった。私は2005年の年末に猪木さんのバングラデシュ視察に同行し、記録ビデオを編集して2006年の正月明けに猪木事務所に届けに行ったのですが、すでに事務所は閉鎖されても抜けの空。青天の霹靂とはあのことでした。


棚橋選手 そうだったんですか…。


木村さん よくよく考えると、どんな言葉かは思い出せないんですが、空港で猪木さんから別れ際にちらっと何かを匂わせるようなことを言われたんです。後から考えるとそれが事務所の閉鎖を示唆してたんですよ。後から解雇された猪木事務所のスタッフから「全く寝耳に水だった。気配もなかった」と聞きました。猪木事務所を解散させるために、極秘裏にさまざまな権利関係の移行手続きが行われていたみたいで、その時、僕はある意味、猪木さんの神ではない悪魔の一面を見た気がしました。猪木さんはこんなふうに自分に群がる人たちをコントロールしてきたのかと。そうやって自分がより活動しやすい環境に乗り換えていく…。これもまた猪木さんの歴史の非情な一面なんですよ。




──言葉がでないですね…。


木村さん 日本プロレスから東京プロレス、また日本プロレスに復帰して、新日本プロレスを旗揚げするという歩みの中で、猪木さんの側近の方々は全部入れ替わっているでしょう。UFOからIGFの時もそう。ずっと猪木さんのそばにいた人はいないんです。猪木さんはプロレス界においては絶対に自分の周りの人間関係を固定しないということを意識的に徹底してやっていたような気がします。


棚橋選手 人間関係が固まると、多分、アイデアも枯渇するからじゃないですか。


木村さん 先ほど私が言った「できない・やれないを絶対に言わない」という猪木イズムに則ると、一度でも「できない」と言ってしまうと猪木さんから見切りをつけられてしまう。そのときに「やります」「俺ならできる」と言った人間がその後も猪木さんの周りについていくというサイクルの繰り返しだったような気がします。


棚橋選手 猪木さんは生い立ちや人間関係が複雑だったこともあって人を見抜く目がものすごく鋭かったんじゃないですか。


木村さん 肩書とか人気者かどうかだとかでは人を評価しない。自分がやろうとしていることに対して「乗れるのか、乗れないのか」「やる気があるのか、ないのか」それだけが判断の基準だったと思います。


棚橋選手 猪木さんは面白いことが好きじゃないですか。「面白いのか、面白くないか」というシンプルな判断基準が猪木さんにはあったんでしょうね。僕は2002年にあの事件があって、相当落ち込んでもうプロレスを辞めるしかないと思った時に、猪木さんにPRIDE(2002年12月23日・マリンメッセ福岡大会)に呼ばれて、初めて人前に出ました。猪木さんがどこかのインタビューで「面白いやつがいるじゃねぇか」と言ってくださって、あれでどれだけ救われたことか…。プロレスという間口の広い土壌がなかったら、僕は多分社会復帰が許されてなかった。あの時、僕は猪木さんにプロレスラーであることを、プロレスを続けることを許してもらえた。なんか「神」に出逢ったような気持ちでした。


──猪木さんには悪魔のような非情な一面もありますが、その一方で人情や心優しい天使のような一面もあって、棚橋選手はこれまでのレスラー人生で猪木さんの両極端な部分を味わったのですね。


棚橋選手 そうですね…。


(プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一前編終了/後編に続く)




後編はこちらです!

プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 後編「神の悪戯」