十数年前に旭川のM文学記念館で、M夫妻と交流のあった詩人の方からお伺いした話をもとに書きました。ずっと書きたいと思っていて、段ボールの中からノートを引っ張り出して書いたものです。





『神様から貸してもらった子』


                            

 結婚して初めて授かった子供がクリスマスの夜遅く、早産した。七ヶ月だった。生まれたての子は翌朝、吐物を喉に詰まらせ、一晩の命を終わらせた。
 看護婦さんが駄目だったと伝えに来ようが、夫が火葬を終えて来ようが、私は我が子が生き返って戻ってくるのでは、長い長い夢の中の出来事なのではと、ただただ夢なら覚めてくれることを待ち望んだ。

 留萌市立病院を退院する朝、主治医の藤田医師が病室に来た。
 「いいか、涙を流すんじゃねぇぞ。泣くのはウチに帰ぇってからにすれ。泣いたら、たった今、この窓からブンなげるぞ」
 恐い顔だったが、藤田医師の目は泣いているように思えた。

 落胆の底にいる私に、夫は火葬場への通りの花屋で可愛らしい花を、幾つか買って柩に添えたと教えてくれた。
 火葬場の住職夫婦が、そっとそっと骨を拾い集めて届けてくれた。

 両手にのる我が子の姿、泣き暮らすうちに私はいつか自分を失っていった。食事も喉を通らず、買い物でお金の計算も出来ない。レジで財布ごと渡して必要な分だけとってもらうという生活。やがて一歩も家の外には出られなくなった。

 こんな私の近況を知った友人が、 留萌の市場で惣菜屋をしている知人に頼んで毎夕、二人分の副食を届けさせてくれた。友人からの手紙とともに。

 手紙には、私は幸せだと書いてある。たった一晩の命しかもらわずに死んだ子の母親に向かって幸せだと言うのだ。
 彼女の手紙を読み進めるとこう書いてあった。
 <もし五歳で亡くなったら五年間のよろこびと同時に五年分、十歳なら十年分、二十歳なら二十年分の哀しみが残される>
 <どうしてもつらくなったら夜空の星をみてごらん、いっぱいの星空の下で自分の哀しみの小ささを思い知るから>と結んであった。
 いったい何がわかるの?私は内心、彼女を罵った。
 しかし、後日彼女が涙ながらに述懐した話は私の想像を超えるものだった。
 事業で失敗した父親が、夕食後に家族で聞いていたレコードの終わりと同じくして自らの命を絶ったという。彼女が中学三年生の冬のことだった。以来、彼女は笑いを無くした少女期と青春時代を送った。
 それを聞いてから、彼女の手紙を読み返すと一文字一文字が深く私をとらえて離さないようになった。

 その後、私は二度妊娠し子を失った。三度目の時は、病院の廊下にうずくまり
 「助けると約束したのに、先生の嘘つきぃ!先生も殺してやる!」と泣き喚きながら、口汚く罵った。
 四度目の妊娠の時、もうすでに生みたいという気持ちは失せていた。そして主治医の藤田医師に子供は欲しくない旨を告げた。すると、
 「あんたが、ホントに赤ん坊欲しかったとわかったら、神様は必ず一人は授けてくれる。いや、貸してくれるさ。
 だから頑張ってみんべか?この子を助けられねかったら、俺ぁ、病院閉めて大学さ戻って勉強やり直す、だから俺ぁに賭けてみんか」
 市立病院から独立して開業したばかりの藤田医師の真剣な眼差しに、私はもう一度頑張ってみることを決意した。

 大事をとって五ヶ月に入ってから入院生活を始めた。そんな私を襲ったのは、突然の陣痛。七ヶ月だった。
 注射も効かない。
 この子が駄目だったら私は生涯子供が持てない。私は半分諦めていた。病室のベッドからシーツやタオルを剥がし、洗面所でゴシゴシと洗濯を始めた。駄目ならせめて、身の回りをきれいにしておきたかったのだ。周りの誰もが、そんな私をだまって見ていた。ところが、ベッドに戻るとあれだけ注射が効かなかった陣痛がおさまっているのに驚いた。

 八ヶ月を過ぎた頃、春の人事異動で夫が三笠市に転勤になることが決まった。私は考えた末、夫について行くことに決めた。万が一、また早産で短命な命だったとしたら、せめて一時だけでも生まれてきた子を抱かせてあげたい。そんな気持ちからだった。

 三笠市へ移って二週間、私は男の子を産んだ。九ヶ月の始めの早産で、その子は一声泣いたまま保育器の中で生死をさまよっていた。
 骨に皮が付いただけの、ミイラのような赤ん坊。鼻にチューブを入れられ、首は注射の跡で腫れ上がり死んだように動かない。私は、諦めの足で病室に戻り窓から外を眺めた。
 青い空。草むらにはタンポポがぽつりぽつりと咲いていて、北海道の遅い春を告げている。そよ風が優しく草むらを撫でていた。そして病院脇の植え込みの桜は、枝から蕾をのぞかせている。
 私にとって最後の子を送るのに、ふさわしいほど澄んだ背景が整った気がした。

 そんな時、夫の勤務先のパートのおばあちゃんがお見舞いに訪れた。
 「今、赤ちゃん見てきたよ。首にいっぱい痛そうな跡あって………可哀相だね。どうせ駄目な命なら、あんな痛い思いさせないで送ってあげたら良いと思うよ。何もしなくても授かる命なら必ず助かるものだから」独り言のようにぽつりと漏らす。
 私は看護婦さんに赤ん坊をベッドに連れて来るよう頼んだ。いや、哀願した。私の中の狂気を感じ取ったのだろう。誰も皆、取り合わなかった。

 数日して、息せき切りながら看護婦さんが病室に駆け込んできた。
 「生きるわよ。助かるわよ」
 生まれて二週間あまり、どんなに痛い注射にもピクリともせず大小便もしなかった我が子が突然、泣き、動き、手足をばたつかせているというのだ。

 私は再び頼み我が子を連れて来てもらった。
 「勇気があるのね」
 私に小さな命を抱えさせた看護婦さんが、しみじみと言った。
 (この子は、いったいいつまでの命をもらって来たんだろう)
 私は家に帰りたいと再び懇願する。一日でも夫に父親としての生活をさせたかったのだ。誰もが咎める中、私たちは我が家に戻った。

 後日、検診で訪れた私に看護婦さんが明かしてくれた。断固として止めなかったのは、誰もが長く生きるとは思わなかったから、だから私の無理を通したのだと。
 我が子を抱きながら外に目を向けると病院の桜が、満開の花を咲かせていた。

 そんな時、留萌の藤田医師から大きな文字で書かれたハガキが届いた。
 <子供が欲しいお前さんのために、神様が貸してくれた命。大切だからと甘やかしたり、わがままに育てて返す時にとんでもない子供にしてくれたと叱られるような育て方すんじゃねぇよ。
 その子ぁ、あんたのもんじゃない。神様があんたに貸してくれた子だ>
 こんな内容で、ハガキはその後も度々届いた。
 私はその度に姿勢を正し、藤田医師の言葉を偉大な育児書の一冊として、私の教育方針にしていった。

 私は今でも、桜が花をのぞかせるこの時期になると、感謝の気持ちと共に当時の状況に思いを馳せる。
 その後たくさんの方々の温もりの中で、私に恵まれた赤ん坊は呼吸を続け、未熟児に関わらず病知らずで成長していった。
 桜の木に見守られたその子も、今では父親となっている。

                               (了)