『月明かりの差し込む部屋で』





    これから、きっと夜空の月を見る度に
    あなたのこと思い出すわ。たぶん、きっと




 ぼくが、その部屋を借りてから二ヶ月ほど経ったと思う。
 借りることになったきっかけは、銭湯での事だ。


 ぼくは、小学校時代の昔を懐かしみ、当時住んでいた場所の近くの銭湯に足を運んだ。
  昔ながらの富士山のタイル画。ペンギンのオブジェの口から出る湯。『ケロリン』の黄色い風呂桶。
 すべてが懐かしかった。
 風呂から上がり、脱衣所を見回す。
   大きな鏡、木製の差し込み錠のロッカー、頭をすっぽり覆うドライヤー、壁に張ってある映画の広告ポスターは、三日後の封切りの日付と上映する映画館の名が印されている。
 雪印コーヒーの瓶を手に、ゆっくりと映画のポスターを見ていると後ろから声をかけられた。

 「マコちゃん。マコト君じゃないかい?」
 亡くなった父の親友のアビコさんだった。
  かなりのご高齢のはずが、いぜんかくしゃくとしていて元気そうだった。
 ぼくは積年の不義理を詫び、現在札幌で自動車販売の営業をしてること、住まいは会社の独身寮であること、また営業であることで寮の食事時間や入浴時間に間に合わないので、いつも銭湯で風呂をいただくことなど近況をはなした。
 アビコさんは、すすきので数件の雑居ビルのオーナーをしてらっしゃる方でよかったら自身が以前住まれていた物件を格安で良いから住んでみないかと申し出てくれた。
  銭湯から歩いても、ニ、三分の距離ということで風呂上がりに「一応、見せていただくだけ」と念をおして拝見させてもらうことにした。



 すすきのの界隈の中ほどに建つ、アビコビルディングのテナントは飲食店や風俗店でほぼ満室になっており、ぼくらはエレベーターを七階まで上り、階段をさらに上って屋上に出る。屋上にはプレハブ式住居が建っていた。
 一言にプレハブ式住居といっても外壁もしっかりしていて、ガス、水道、電気はもちろん、ちゃんとユニットバスも設置されている。
  アビコさんは現在、息子夫婦と暮らしているので、家具もそのままでよかったら使って欲しいとのことだった。有人の駐車場と併せてもタダ同然の金額を提示され、ぼくは有り難くこの雑居ビルの住人となることになった。
 入居する上での条件は、一つ。屋上に通じる扉の戸締まりに気をつけることである。この街の性質上、もっともだと独りごちて、この屋上生活を満喫した。
 天気の良い日には、「眠らない街」を下界に見下ろし、月明かりと下からのネオンの光を楽しんでビールを飲んだり、寝室兼居間には明かり取りの大きな天窓があったので月を眺めながら眠りを貪った。


 初秋の風を感じ、いくぶん日が短くなった頃だ。
 ぼくは会社から帰宅し、屋上に通じる扉に手をかけると鍵が開いている。
  「鍵かけわすれちゃったかな?」
  今朝の出勤時の戸締まりを反芻しながら、屋上にでると二十代中頃くらいの女性が屋上の手摺り近くに立っている背中が見えた。
  厄介だな。
  ぼくは天を仰ぎたい気持ちを抑え、彼女に声をかけた。

 「あのさ。なにがあったか知らないけど、ここは困るなぁ」

 彼女は、びくっと背中を震わせて驚いた様子だった。手の甲で顔を拭って振り向き、小鼻を膨らまして抗議の声をあげた。
 「そんな言い方って無いんじゃない?仮にアタシが自殺しようとしてたとして、フツーだったら自殺なんかダメだよとか言って止めるもんじゃ無いのっっ!」
  声を荒げる彼女に、ぼくは冷めた声で応じる。
 「だって、ぼくは君のこと知らないし止めだてする理由もないから・・・。それに、帰宅するたびにぼくの知らない自殺した人のこと思い出すのも嫌だな」
  ぼくは、一度ため息をついてからつづけた。
 「もし、仮に君がここから飛び降りたとして、最初に通報するのはぼくだし、君の人格をも知らないぼくが君の身体の一部一部をパーツとして知ることになるのは、やっぱり嫌だな」
 彼女は手摺りから下を見下ろし一瞬たじろいだ表情になった。
 「アタシだって、そんなのはイヤ」
 ぼくは、顎をしゃくってみせて
 「入んなよ。何か作るから」と彼女を招いた。
 「変なことする気じゃないでしょうね」
  彼女は半ば怯えながら応じる。
 ぼくは、もう一度ため息をついてから胸ポケットから手鏡を出し、彼女に見るよう手渡した。
 泣き腫らした彼女の顔は、化粧がほとんど剥がれ落ちアイシャドーの黒い流れを手で拭ったものだから、鼻のところが何やらパンダのようになっていた。
  アメリカのロックバンド、キッスのメイクにも少し似ている。
  彼女は、自分の顔を見て、クスクスと笑い出した。とりあえずは安心だ。


 部屋の中に入りぼくは冷蔵庫の中を見て、またため息をつく。
  なにも入っていない。わかっていたことなのにだ。
 物干しからバスタオルをむしり取り、わざとぶっきらぼうに彼女に投げて渡した。
 「ちょっと餌を買ってくる。その間に身体温めとけば良い。バスタブにお湯溜めても良いよ。歯ブラシは洗面台にビジネスホテルからくすねたものある。洗濯したかったら、そこのスウェットを着ればいい。洗濯してあるから」
 彼女は頷いて脱衣所に向かい、扉を閉める前に悪戯っ子のような目をこちらに向けた。
 「見たいなら見てもいいわよ。サービスしとくから」
 ぼくはキッチンペーパーのロールを彼女に向かって投げたが、ぴしゃりと閉めた脱衣所の引き戸に跳ね返って床に転がった。


 二十四時間営業のスーパーで買い物をする。若干ツマミになりそうなものと食パンとポテトチップス、ベーコンと蟹風味かまぼこ。ビールは国産メーカーか迷ったが、ドイツビールにすることにした。
  一応、相手が女性であることに配慮したんだ。ぼくだって。


 帰るとぼくのスウェットを着た彼女が、タオルを頭に巻いていた。そして胸にプリントされた「JAPAN WRESTLING」のロゴを指差して、
 「何かしていたの?」と聞いた。ぼくは、「昔な」と軽く返した。
 
 皿にキッチンペーパーを敷き、ポテトチップスを半分だけ盛り付け、残りを袋を閉じて音をたてながら砕く。さすがに彼女はびっくりしたようだった。
 「一体、何をしているの?」その質問には応じず、
 「皿に食パン並べてマヨネーズを塗ってくれないか」と指図した。
  少しふて腐れたようだったが、ちょっとだけ期待感があるのか、すぐに従った。
 マヨネーズを塗った食パンに砕いたポテトチップスを振り掛け、上にベーコンをのせてオーブントースターで焼く。あと、もう一枚は蟹風味かまぼこをのせて焼いた。彼女は、初めて見るたべものらしく、
 「これなんていうの?」と聞いた。
 「ススキノ0番地の朝鮮人に聞いたんだ。朝高サンド」
 「ちょんこう・・・・・・」彼女は反芻するように頭の中に銘記したようだった。

 焼き上がった朝高サンドを頬張り彼女は「おいしい・・・」と舌鼓を打った。そして、ぼくに「何も聞かないのね」と呟いた。
 「他人の不幸自慢には、あいにく耳を貸さないことにしてるんだ。話したいなら一番幸せだったころの話しを聞かせてよ」とぼくは促した。


 彼女はリエコという名前で北海道の東、佐呂間町の出身であること。
  家族は牡蛎やアサリ漁をする漁師で冬の流氷の季節にはトド猟をすることもあると話始めた。
  短大で札幌に出てきた時は、あまりの人の多さにびっくりしたそうだ。
  バイトで始めた水商売に、どっぷりと浸かり現在に至ると締め括った。

 ぼくはクローゼットから折りたたみ式の野営用ベッドとOD色のシュラフを取り出し、「そのベッドを使うと良いよ、月明かりが邪魔かも知れないけど五分もすれば慣れるさ」と言って部屋の電気を消し、シュラフの中にすっぽりと入り込んだ。

 ベッドの上の彼女は、天窓から見える月を凝視してるようで、目が爛々と光っていた。ぼくは、シュラフの中で寝返りを打ち狸寝入りをしていた。
 「ねぇ、起きてる?」
 「・・・・・・・・・」
 「アタシやり直せるかな?」
 「・・・・・・・・・」
 「ねぇ、聞いてる?」
 「もうすでに、やり直すつもりなんだろ」
 「あんたって、ホントに難しい人ね」
 「君には言われたくないな」
 「なんですってっっ!」
 「zzzzzz・・・・・・」
 「んもぅ!」
 ぼくは、いつしか眠りに落ちていた。いつの間にか彼女との会話を、楽しんでいたのだろう。心地良い眠りだった。


 翌朝、出勤前に彼女に合い鍵を渡しながら言った。
 「とりあえず、渡しとく。いくらでもいても良いけど出掛ける時は、玄関と階段の扉の戸締まりをちゃんとして、階段扉のマットの下にいれてくれ。君みたいな人が何人もくると、ぼくは破産してしまうから」
 彼女はふて腐れた顔を見せながら、合い鍵を受け取った。


 その晩、二人分の食材を買い込み帰宅すると階段扉の下のマットに合い鍵があった。「出て行ったんだな」と独りごちて、部屋に戻る。
  彼女の着ていたスウェットはきれいに畳んでベッドの上に置いてあった。部屋の中は、彼女の甘い香がほのかに漂っている。
 あての無くなった食材を冷蔵庫にしまおうと振り向くと、冷蔵庫の扉に鮮やかな紅色の口紅で、メッセージがしたたまれていた。


    マコトさんへ
    昨晩は一晩の宿、どうもありがとう。
    アタシは一度、佐呂間に帰ってみます。
    「ちょんこうサンド」美味しかった。
    これから、きっと夜空の月を見る度に
    あなたのこと思い出すわ。たぶん、きっと


 メッセージを読んだら、言いようのない寂しさが、ぼくの中を駆け巡った。ぼくだって
 「こんな色の口紅を見たら、きっと君のことを思い出すよ。たぶん・・・・・・」
 ぼくは、いつの間にか呟いていた。


                                (了)