ずいぶん前に書いたものだけどアップしてみました。




『彼女の願い』




札幌市白石区にある国立ガンセンター。
 彼女は六人部屋の通路側通路側に入院していた。骨肉腫という癌で、発症した部位を切除し、また転移した部位ををまた切除という「いたちごっこ」のような治療によって、彼女の右手、左足のパジャマの裾を風が揺らしていた。
 ぼくはとある事情で大学を退学になり自衛隊に入隊し、前期教育隊の市ヶ谷から北海道への異動の希望が認められ、故郷に帰ってきた。
 彼女には言えなかった。
 両親のいないぼくの進学を、誰よりも喜んでくれたからだ。
 日曜の外出の度に、適当に選んだ公衆便所で自衛隊の制服から大学のジャージに着替え病院に行く。それがぼくの休日の過ごし方になった。

 夏の近いある日曜日、その頃には彼女のベッドは通路側から窓際になっていた。心地良い風が白いカーテンと彼女のパジャマの裾をゆらゆらと揺らしている。
 ぼくが訪ねると彼女は残った左手で手鏡を持ち、音が出てきそうな笑顔で手鏡を見ていた。
 ぼくは思わず吹き出しながら声をかける。
 「なんだか調子良さそうだね」
 彼女はぼくに気づくと、手鏡を布団の上に置くと、とっておきの話があるのというような感じでぼくに手招きをした。
 ぼくはその仕草に破顔し、彼女の口許に耳を寄せる。
 「内緒だよ」
 「あ、うん。内緒」
 彼女は少しだけ甘い香りと消毒液の匂いがする。
 「鏡の前でね、なりたい自分を想像するの。それが出来たら、楽しい事を三つ考えるの」
 「楽しい事を三つ?」
 「そう、三つ。例えば、目の前に最高のティラミスがあるよとか、今日の晩御飯にはミートローフが入ってるよとか、今度氷室さんのライブに行くんだとか……」
 そこで彼女は咳をした。とても年頃の子がしているとは思えない、老婆のような咳だ。
 彼女は、ごくんと飲み込んでから続ける。
 「それからね、鏡の向こうの私に代わってあげようかって聞くの。うんって頷いたら、なりたい自分に変わってるの。私のなりたい自分は骨肉腫なんて変な病気じゃないから、もう入院なんかしてなくていいんだ……」
 「それはいい事聞いたな。ぼくも試してみるよ」
 「内緒だよ」
 「うん。内緒」
 ぼくは彼女の左手の小指と指切りをした。そこで、どうしても堪らなくなって病室を駆け出し階段脇のトイレに逃げ込んだ。
 ぼくは手洗いの鏡を見ながら祈るように泣いていた。

 あれから長い月日が経ち、ぼくは鏡を見ながらつくづく考える事がある。
 ぼくはなりたい自分を思い浮かべられるのだろうか。もし仮に思い浮かべられたとして、彼を誘いだすために三つも楽しい事を考えつくのだろうかと。
 






                                         (了)