『雨上がりの街で』





 私は交代の時間が来るのを待っている。いつも店側からあてがわれている、この部屋で。
 交代と言っても、別に引継ぎがあるわけではない。時間までに、客が入らなければ、この部屋を後にするだけだ。逆に、時間ぎりぎりに客が入ってくれば、そこから私の勤務時間は延長になる。特に手当てがアップするわけじゃなく、そして断ることも出来ない。
 私の部屋は十畳くらいのスペースに六畳分を使ったジェットバスを設置した浴室と四畳分のベッドルーム、形ばかりのドレッサーと内線電話が引き込まれている。
 ソープ嬢、「泡姫」とも呼ばれる。それが私の仕事だ。

 この仕事を始めたのは、二十五の時だった。
 大手百貨店に勤めていた私は、会社の付き合い上で数々のクレジット会社のカードを作り、また日ごろからブランド商品に囲まれて目が肥えてしまったのだろう、次々とカードで買い物をしてしまった果ての姿が、今の私だ。
 客は、受付で入浴料として五千円を支払い、事が済んだ後に私に一万五千円を渡してくれる。そのお金が全て私の手元に入ってくるわけじゃない。マネージメント料、リネン代など色々差し引きされ、9千円。指名客なら1万円が私に残る。そんなことを、一日五~六人のペースで隔日で、
週三日働いている。
 けたたましい音で、内線電話のベルが鳴る。
 私はいつも、この瞬間が嫌でたまらない。気が狂いそうになる。
 電話に出ると、同じ昼の部のケーコだった。
 「日曜日の休み代わっておくれよう。子供を動物園に連れてってやりたいんだよう」
 またか。いつもの手だ。どうせろくでもない男に、引っかかったにちがいない。「他の人に当たって」取り付くしまを与えず断った。


 結局、店を出たのは夜八時だった。昼の部は六時までだが、五分前に客が入り、後片付けと売り上げの精算を済ますとこの時間になる。
 すすきのの街はネオンに包まれているが、朝から降り続く雨が陰鬱な雰囲気をかもし出していた。私は客が忘れていったビニール傘を広げ、歩き始めた。

 五丁目、六丁目の間の通りを道庁方面に向けて歩くと、小林薬局がある。私は、たいていこの店で買い物をする。明るすぎない照明、店員もいなく人付き合いの下手そうな主人が一人でやっている。
 店に入ると聞き覚えのある若い男の声で
 「いらっしゃい」
と迎えられた。その声の主を目で追うと、若い男はこちらを見もせず少年誌のマンガ本を読んでいた。
 確かに見覚えがある。私は声をかけていた。
 「マコっちゃん?……だよね」
 男は、近視なのだろう藪にらみのように目を細めて
 「北島……か?」
 札幌からJRで50分くらいの幌向という土地での同級生だった。
 「あんた、ここでなにしてんのさ?」私はいつになく饒舌になる。
 「店番、テキトーに買ってって」
 そこに店主が帰ってきた。
 「マコトぉ、また商売もん読みやがって!おまけに、お客さんナンパしてんじゃないだろな?」
 「同級生だよ。中学ん時の。」
 彼は、マンガ本をビニール袋に詰め、「復元完了」と言って、陳列棚に戻しに行った。店主は、頭を掻きながら
 「すんませんねぇ。あいつだったら」とまるで肉親のように挨拶した。
 「ご親戚の方ですか?」たしか、彼には両親がいないことを聞いたことがあったような覚えがあった。店主は私の買った生理用品を精算しながら
 「幼いころ近所の子でね。近頃、ひょいと顔出して戻ってきたって。ほんとだったら、どっかの体育の先生でもしてる筈なんだけどねぇ」
 その言葉で、《ドーピング。ついに日本にも》と言う見出しの新聞記事と、同級生だったヒロミの顔が思い浮かんだ。
 「おーい。何ぃ、くっちゃべってんだよぉ。北島ぁ、いくぞ」雑誌の陳列棚の方から声がした。「行くってどこへ?」私が聞いた時には、彼はもう外に出ていた。

 彼は小林薬局横の住居用入り口付近に立っていた。
 「おい。これ見てみろよ」指差した先には、壁に埋め込まれた牛乳箱があった。「毎朝、ここでコーヒー牛乳を立ち飲みしてたんだ。あのオヤジ文句も言わないでそっとしといてくれたんだ。まったく、頭があがんねーわけだよ」そう言いながら可笑しそうに笑い、親指を突き立ててタクシーを停めた。「飯まだなんだろ。付き合えや」文句言う暇もなく、彼はタクシーの中に乗り込んでいった。



 タクシーに乗り込むと、「金玉横丁」と彼は運転手に告げた。
 え、なにそれ?ふざけてるの?

 そんな私の思いをよそに、運転手も「あいよ」と気のいい返事をして車を走らせる。何だか狐につままれたような気分だ。雨に滲んだネオンが、車窓を流れていく。
 車は、すすきのを離れ石山通りを右折して中央区民センター横の路地に到着した。メーターは基本料金。彼は、ポケットから裸の千円札を出してお釣を固辞している。
 タクシーを降りた私は、「格好つけて」と揶揄した。彼は肩をすくめて応じる。

 「ここが金玉横丁。通りに金富士って店と、たまやって店あるんだけど、飲んべえの人が
 今日はお金あるから、たまやにしようかな。安く済ませたいから金富士にしようかなって迷ったことから、そんな名前になったんだ」
 彼は私のビニール傘に、少しだけ頭を入れて横丁の名前の由来を語った。
 「それで今日はどっちに行くの?」
 「ロクデナシには、金富士で十分」と言って、あの店だと言うように行き先を指差して私を促す。

 店の外には、『金富士酒場』と書いた看板に電気が灯っていた。旭川の男山酒造の直営店らしい。彼が暖簾をくぐると、「らっしゃい」と店主の快活な声がした。
 店の中はとても混んでいたが、店主の奥さんらしい人がカウンターに二人分の席を用意してくれて「女の子連れてくるなんて珍しいわね」と彼に話しかけた。
 彼は頭を掻きながら、「同級生」とだけ言った。


 壁に掲げられたメニューを見ると、焼き鳥が三本で二百三十円、一番高いイカ焼きでも二百八十円だ。メニューを見て目を丸くしている私に、「ビールでいんだろ」と彼が訊く。
 私は店の雰囲気にただただ圧倒されて、頷くばかりだった。
 彼はビールの他に、焼き鳥数種類と卵焼きと『あげ』を頼んだ。
 「あげって?」私の問いに、彼は指差して応じる。
 油あげのことか。あげは、オーブントースターでカリカリに焼いた油あげを
丁度良い具合にカットして醤油と味の素をかけただけのつまみだ。皿の端には、和からしが添えられている。
 私達は、サッポロラガービールと書かれた瓶ビールをグラスにつぎあい乾杯した。
 彼は何を訊いてくるのだろう。仕事のこと?普段の生活?
 私は身構えていた。

 もしかしたら彼も同じ事を考えていたかも知れない。二人とも何だか口が重かった。

 「お葬式、来なかったね」
 「あぁ」私の問いに彼は、予期していたかのように濁した返事をする。
 触れられたくないものを持っているのは、彼も一緒。私はそれを触れようとした自分を恥じた。

 折よく注文していた卵焼きが運ばれてくる。
 葱の入ったとろとろの卵焼き。私の身体は最近の拒食の傾向を忘れたようで、いつの間にか「美味しい」と呟いていた。
 よく考えたら最近、食べ物を美味しいと思って食べたことが無かった気がする。いつも、吐き気と戦いながら身体に収めていた。
 気がつけば焼き鳥にも、何度も手が伸びている。

 「クズみたいな安い肉でも、ちゃぁんと手ぇ掛けたら旨くなるだろう」私を見た店主が言った。
 「え、んじゃあ俺たちクズ肉を食わされてんのか?」他の常連客らしき人が絡む。
 「俺が手ぇかけてんだ。価千金でぃ」と店主はからからと笑った。
 「私、この店、気に入っちゃった。また来てもいい?」
 「あんたも物好きだね。いつでも来てくんな」

 横を見るといつの間にか彼は席をたって、入り口のところで猫とじゃれていた。
 「ロクデナシは子供と動物にゃモテるみたいだな」店主は言いながら、またからからと笑っている。私もいつの間にか笑っていた。
 久しぶりにお腹いっぱいになった。
 「私、帰るわ」彼に声をかける。彼は「格好つけさせろ」と言って勘定を済ませた。

 店を出るとさっきまで降っていた雨はあがっていた。
 通りに停まっていたタクシーで帰ることにする。
 一緒の方向だからと彼を誘うと、
 「歩きながら飲み直し」と指で盃を作って見せる。

 私は運転手に「中の島まで」と告げ、シートに深く座り込む。ラジオからは、マイケル・ボルトンの歌声で『I"ll be over you』が流れている。
 雨上がりにはピッタリの選曲だ。センスがいい。誰のカヴァーだっけ?
 思い出そうとすると中学校の放送室の光景を思い出していた。私とヒロミと彼の三人で給食を持ち込んで流した『お昼の放送』。

 「車、停めてください」私はいつの間にか告げている。
 「中の島までは、だいぶありますが…」運転手は戸惑ってる様子だ。私は千円札を出し、お釣りはいらないと言って車を降りた。

 来た道を戻って行くと彼は左手にコンビニ袋、右手に缶ビールといった姿で歩いてきた。彼は、「よぉ~」と言ってコンビニ袋から缶ビールを取り出して、「飲むか」と私に差し出した。
 「I"ll be over youって誰の曲だっけ?マイケル・ボルトンがカヴァーしてるやつ」
 彼は、私の顔をまじまじと見つめながら応じる。
 「お前、わざわざそんな事を訊くために戻ってきたのか?変なやつ…」
 「あんたには言われたく無いわよ」と私は反撃をした。

 と、彼の様子が変わった。『鳩が豆鉄砲』と言う表現がピッタリだ。
 「どうしたの?」
 「あ、いや。昔、そんな言葉を聞いた気がして…」
 彼は、一口ビールを飲んでから真顔で
 「あのさ。これから一緒に、二人で…」

 え、なに?今日、久しぶりにあったばかりじゃない。
 仕事柄、男の裸なんか腐るほど見てきた私が、不覚にもドギマギ取り乱してしまいそうになる。

 「縁切り橋、渡りに行こっか」
 何かのドラマで聞いたような台詞だ。真顔の彼の小鼻がピクピクと震え、ついには堰をきったように、腹を抱えて笑いだした。

 私も釣り込まれて笑いだしたが、何だか悔しいので缶ビールを思い切り振って、彼に向けて発射した。
 彼はまだ大笑いを続けながら、私のビールの飛沫を浴びた。

 空を見上げるとネオンの明かりのもっと上に、十月の月。

 「この街で、もう少し頑張ってみようかな」いつしか呟いてる私。
 「何か言ったか?」片足で跳ねながら耳に入った滴を落とそうとする彼に
 「何でもない。独り言」と返した。

 そうだ、日曜日の休み交代してあげよう。なんて思いながら、私は歩き始めた。


                               (了)