イランと日本と | 十姉妹日和

十姉妹日和

つれづれに書いた日記のようなものです。

今回は、時事問題だったのでキュゥべえの方でほとんど書いてしまったんですが、このところはしばらくイランの本を色々と読んでみていました。


イラン情勢は先日の選挙で保守派とされる最高指導者ハーメネイー師の支持派が75%の議席を獲得する圧倒的な勝利に終わったことからも、今後かなりの動きがあると思われます。

また、それを踏まえてのものか欧米との核開発をめぐる疑惑についても、IAEAの査察に前向きな姿勢を示すなど、国内外での駆け引きも活発になっているようです。


ボク自身もこのイランという国について、これまであまり興味を持って調べようと思ったこともありませんでしたし、現在のイランや中東諸国の情勢についてもけして詳しいわけではありませんでした。


しかし、自分で少しずつ調べているうちにイランと日本との間には古来からシルクロードを通じて、間接的であったにせよ長い交流の歴史があることもわかってきましたし、そしてまた、ボクはそれ以上にイランと日本には何かもっと深い共通点のようなものがあるのではないかと思うようになりました。

イランの近世史に関する部分は、少しキュゥべえの方でも書きましたが、イランは古代のペルシア帝国から現代のイランまでの歴史を自分たちの民族の歴史としてとても大切にしている国であるように思いました。

中世にイランの国民的詩人フィルドゥスィーが、イランの神話を『王書 ――シャー・ナーメ――』という壮大な叙事詩にまとめたことも、イスラム文化の影響下の中にあって、なおもイラン(ペルシア)の詩人たちはきちんと自分たちのアイデンティティーのありかを民族の中に求めていたのかも知れません。

十九世紀になりますと、日本も、そしてイランも、西洋化と欧州列強の進出という問題に直面にすることになりました。

この時代の激動の中で、日本は明治維新を得て、「文明開化」といわれる西洋化、近代化の路線を急激に推し進めていくことになります。

一方で、イランは当時の王朝の基盤がすでに脆弱だったこともあり、また大国間の勢力に挟まれた結果外国の干渉に常にされされながら、近代化の道を模索していくしかありませんでした。

そんな中でクーデターによってイラン最後の王朝を開いたレザー・シャーによる改革を、おそらく当時の国民は、かなり期待を持って見守っていたのではないかと思います。

実際、第二次世界大戦を挟みながらも皇帝主導によるイランの近代化、そして欧州との積極的な交流の姿勢は、欧米からも、そして日本からも中東の国々の中にあって最も成功したものだろうと、革命前は考えられていたといいます。

ですが、その後にイランを襲った国内経済の危機を前にしたとき、またしてもイランは大きな岐路に立たされることになりました。


ホメイニ師はいいます。

西洋人による近代化の目的とは、イスラムを堕落させることに他ならない。

もっとも富を得ている皇帝はかつてのイマームたちとは違い、自分たちの贅沢三昧のために国民に回るべき金を蓄えているではないかと。


この呼びかけはイスラムの神学者たち、そして何よりも経済の危機と皇帝の独裁的な権力に不満を持っていた人々に、おそらくは強烈に響いたのもまた確かだろうと思うのです。

西洋の価値観や学問こそが、もっとも進歩的なものであるという潮流の中にあって、イランのした選択は間違いなく特異なものであったに違いありません。


ですが、同じようにもともと欧米とは違った価値観、歴史の中で西洋の価値観を受け入れてきた日本にとっても、イランのこういった歴史は異なる価値観をもった国、文明とが付き合っていくことの難しさをよく示してくれるように思うのです。


グローバリズムという言葉が、もうすっかり当たり前になってしまった中で、国や民族はただの障壁にしか成りえないのかといえば、ボクはけしてそうだとは思いません。

日本にとってこれからこの国がどんな方向を向いていくのか、そして震災の復興を踏まえて産業を、生活をどう再建していくのかもまた重要な課題だと思います。そのためのプランが一日も早く動き出すことを願ってやみません。


今回も読んでいただき、ありがとうございました。