サリン事件とぼくらの世代について | 十姉妹日和

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つれづれに書いた日記のようなものです。

昨年の3月11日は多くの人にとって、忘れることのできない日になったと思います。

あれからもう一年が経ったと思うと、時間の経つのは本当に早いものだと感じずにはいられません。


3月にはもう一つ、平成の日本にとって忘れることのできない大きな事件がありました。

事件が起きたのは今から17年前の3月20日。

通勤ラッシュで混雑していた複数の路線に「サリン」という猛毒の化学兵器が一斉に撒かれた事件です。

狙われたのはいずれも地下鉄の路線で、霞ヶ関やお茶の水といった利用者の多い駅が中心だったとされています。

死者十三名。重軽傷を含めた被害者はおよそ六千人。

世界規模で見ても、化学兵器が「テロ」という形で使われたはじめての事件とされ、その規模と民間人を無差別に狙ったことから、社会に極めて大きな影響を与えた事件でした。


当時、ボクはまだ小学生でした。

もうすぐ春休みが目前にせまったその日、いつも通りに学校から帰って来てテレビをつけると、そこに映っていたのは今までに見たこともないような凄惨な映像でした。

地下鉄の入り口の前に倒れている大勢の人たちを、タンカに乗せて次々に運んでいく救急隊の姿。

防毒マスクをつけた物々しい捜査員。

それは後に「地下鉄サリン事件」と呼ばれ、この事件の首謀者であったオウム真理教が関与したとされる事件の中でも、最も印象的なものになりました。


日々ワイドショーでとりあげられる情報や、教団が起こしたとされる事件の数々が明るみに出ると、ボクたちは一種の熱狂でもってそれを迎えました。

日本中の小学生があちこちでオウムの流していた歌を歌い、優等生も勉強のできないやつも関係なく、「オウム」というのはボクたちにとっては共通の話題になっていったのもその頃です。


あのとき、なぜオウムの歌をボクたちは歌っていたのか、それは今となってはもうわかりません。

周囲を取り巻いていた大人たちへの漠然とした反発だったのか、それとも得体の知れないオウムという組織に何か、ちょうど特撮に出てくるような「悪の組織」のような面白さを感じていたからかも知れません。


最近になってですが、ボクは自分にとってあのときの出来事は何だったのか、ボクらにとってあの頃はどういう時代だったんだろうと考えることが増えました。

そして、できれば自分なりにあの頃のことを思い出して、小説のようなものにしてみたいと考えて、少しずつ書きはじめたんです。

ですが、それは事件について詳しく調べようとか、何か事件を別の視点から見ようというのではありません。

ただ、自分たちがその頃にどうしていたのかを書いてみたいと思ったんです。

それはたぶん、あの震災があってから自分の「世代」というものを意識するようになったからだと思います。


ボクだけでなく、おそらくこれは今の二十代の人たちにとっても、ある程度共通したことだと思いますが、ボクらは自分たちの世代の「カラー」というものを持っていません。


ボクらが生まれたのは、昭和も終わりの頃でした。

世界では、その頃から見ますとベルリンの壁の崩壊ですとか、ソ連の解体。それに湾岸戦争や、先述のオウム真理教の事件、そして2001年のアメリカ同時多発テロと、大きな事件はいくつもありました。

しかし、そういった事件に対してボクたちはほとんど当事者ではありませんでした。

すべての事件は、ブラウン管の向こうで起こっている遠い世界のことのようで、ほとんどリアルというものがなかったように思うのです。


ボクたちが中学、高校生になった頃には、すでに冷戦も終わっていて、学生運動ですとかそういったものも、もうはるか昔の物語のようになっていました。

政治とか、思想というものもすでに魅力的ではなかったと思います。

それどころか、国や民族というものさえ、いずれは消えていくようなものだと信じられていました。

「個人」の尊重や自由こそが正しいのだと、人間はそうあるべきなのだという考え方が当たり前のようにどこでも受け入れられていたからです。

おかげで、ボクたちはほとんどどこにいっても「無敵」でした。

学校で制服が嫌だといえば、話し合いで私服を認めてもらうようなこともできましたし、むしろそういった主張をする学生は「真面目だ」と好んで受け入れられたくらいです。


しかし、それだけの自由があったにも関わらず、むしろ学校の成績のような競争という基準では、価値観は今よりも狭かったようにも思うのです。

できるだけいい学校にいって、いい就職をした方が幸せだ。

これは、今も代わらない現代社会の「約束事」のようなものなのかも知れません。

今、「ゆとり教育」は間違いだったのではないかという意見が、広く社会に受け入れられるようになったのも、おそらくはその「約束事」がかなりの部分で正しかったんだということなのだと思います。


お金を稼いで生きていかないといけない。

いい成果を出すには努力が必要だ。

そんな当たり前の現実の前には、「何をしてもいいんだ」という言葉はもう過去のように通用しないのだと、みんな時間が経つに連れて次第にわかってきました。


この社会と教育のギャップのようなものは、確かにボクたちの世代にも大きな課題でした。

あまりにも、大人に教わる理想の社会と、現実の社会のそれが違い過ぎたからです。

「キミたちは何でもできるんだ」

そういわれ続けた人が、今はパソコンの前に一日座っているだけのニートになっている。

そんなことはいくらでもあるんだと思います。

ボク自身もあるいはそんなものかも知れません。

別にニートに限らなくても、社会の中で自分の居場所がない。

やりがいや、生きがいというものが見出せない。

それでも現実には適応しないといけないのだという制約はある。

そこに苦しみを感じている人は今もきっと大勢いるのではないでしょうか。


あるいは、オウムという組織があのとき、あそこまで大きくなったのも、その部分を的確についていたからなのかも知れません。

彼らはいいました。

「今の世界はおかしい」のだと。

だから「世界を変えないといけない」のだと。

それは一種の使命感だったように思います。

修行によって得た力で、みんなが幸せになれる理想郷をこの世界に作り出す。

そうすれば、すべての人間がもうそんな「現実」にとらわれる必要はなくなってしまうのですから。

「人間にはみんな素晴らしい力がある」という言葉は、そこでもう一度繰り返されることになりました。

「人間は生まれながらにして誰でも特別なのだ」と。

「そんな個人を押しつぶしてしまう社会は間違っている」と。


子供の頃には、誰でも空を飛べるんだと考えることはあります。

実際に、夢の中ではそれができる。

けれどその夢から覚めた瞬間にはもう飛べなくなる。

何の力もない、ただの人間に戻らないといけません。




あのとき、サリンを散布した人々は自分たちが空を飛べると、信じていたんでしょうか。

その行為が、世界を変えるために必要なものなのだと本当に思いながら。

あるいは、教祖に絶対に逆らうことができず、おかしいと思いながらも従っていたのか。

それはわかりません。

おそらく、今後もボクにはわからないと思います。


ただ、それがどうであったにせよ、事件の犠牲になった人たちはみんな、社会の中で生きていたごく普通の人たちばかりでした。

何の罪があるわけでもなく、自分たちの生活を懸命に生きていた被害者や、その家族にとって、そんな理屈は理不尽なものでしかなかったに違いありません。


事件から17年。

いまだに後遺症に苦しんでいる多くの人たちが、一日も早く回復されることを心から願います。


今回も読んでいただき、ありがとうございました。