鎌倉・明月院、東慶寺の紅葉 | 十姉妹日和

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つれづれに書いた日記のようなものです。

鎌倉の明月院といえば、初夏の紫陽花の寺として知られる古刹だが、秋にはまた紅葉の名所ともなる。

この寺は南北朝時代に関東管領上杉憲方の創建したものというが、その前進である明月庵は、鎌倉幕府第五代執権北条時頼が隠居所としていたもので、今も境内にはその墓と廟が残っている。
円覚寺、建長寺などの大寺院に比べればいかにもそれは小さなものではあるが、その合間にあって鎌倉仏教の盛衰を見守ってきたこの寺院もまた、歴史の証人であるといえよう。



水曜日の朝。北鎌倉駅は大勢の人々で混雑していた。

すでに十二月。紅葉の季節も残りわずかともなると、どうしても今のうちに見ておきたいと思うものらしい。

円覚寺に向う大勢の人を避けて、線路沿いの道を建長寺へと向う。

やがて踏み切りの手前の路地に「明月院」の碑が見えてきた。
駅を降りたときにはあまりの人の数に、これはとてもゆっくりと紅葉を見ることはできないと思っていたところが、路地を入ってしまうと意外にもこのあたりは静かで、左手を流れる小川の水も気持ちを潤わせてくれる思いがする。

明月院の山門をくぐり、左手にいくと見えるお堂が北条時頼の廟。


明月院 北条時頼廟

墓は廟の左手にある。


明月院 時頼墓

時頼は元寇の来襲を防いだことで名高い北条時宗の父で、執権としては北条宗家の支配体制を確立し、宋の高僧蘭渓道隆を招いて建長寺を建立するなど、政治、文化の両面に大きな足跡を残した人物であった。

彼は幼少期に父の北条時氏と死別し、祖父の北条泰時によって養育される。

「名君」といわれた祖父の影響を受け、時頼もまた後には執権として手腕を振るうことになるが、その治世は前(四代)将軍藤原頼経との対立や、その対立に連座した反北条氏方の有力御家人三浦泰村、千葉秀胤を相次いで滅ぼすなど波乱に満ちたものだったようだ。


この時代の武士の墓には、将軍であろうと執権であろうとほとんど豪華なものはない。

同じ武士の時代ではあっても、後の江戸幕府の大名たちがいずれも競い合うように巨大な石塔を築いたことと比べると、いかにも質素なものであって、

この時代の人々の死生観の一端を垣間見ることができるように思えて興味深い。


ここで一度山門へ戻り、橋の向うにあるなだらかな階段を登った先に本堂がある。


明月院本堂

本堂の右手に大勢に人が集まっているところに、よく「明月院の紅葉」として紹介される丸窓がある。

こちらは上がってみることはできないが、大勢のカメラを持った人が思い思いにいい写真を撮ろうと狙っていた。


明月院 紅葉

丸窓は方円を通して庭を見る心境が仏教の境地にも通じるとされているためか、寺院建築に多く見られるもので、京都源光庵にも「悟りの窓」と呼ばれる丸窓があり、最近はテレビのCMもでよく紹介されている。

こうした窓は後に茶道が盛んになると多くの茶室にもまた好んで取り入れられたそうだ。


本堂から左手の階段を上ると仏殿に出る。

その脇のにあるのが「明月院やぐら」。

この寺を建立した上杉憲方の墓という。


明月院やぐら

「やぐら」は鎌倉の周辺に多く見られる墓の形式で、岩肌を掘り、そこに供養塔を建立して死者を葬るものだ。

鎌倉にはこうしたやぐらが、小さなものを含めれば数千もあるとされ、中には梵字(サンスクリット文字)や、石仏などが刻まれた見事なものもある。この明月院やぐらはその中でも最も規模の大きいものといわれ、遠目からも内部の彫刻などをうかがうことができた。


まら、本堂から裏手へ抜けると本堂後庭園がある。

通常は非公開だが、紅葉の時期には特別公開されているため、入場料を払えば拝観することができるそうだ。

本堂の丸窓から見えていた景色はこの庭園のもの。


明月院の紅葉

あまり広い庭園とはいえないが、周囲は岩肌に囲まれている中で、ここはちょうどその合間にあるため、またこの土地らしい趣がある。

そうして菖蒲田のあたりを歩いていたところ、ふいに山の方から「ごおおおおお」という音がした。

何かが地面を抜けていくような低い唸りのようだった。


鎌倉に住んだ川端康成の小説の題に確か「山の音」というものがあったと思うが、このあたりでは山肌を通り抜ける風が、こうした音を立てるものなのだろうか。

それからもう一つ不思議なことがあった。

庭園に注いでいる小川のそばを歩いていたときに、ふと沈丁花(じんちょうげ)の香りがして立ち止まった。

香水のように人工的なものではなく、鼻に抜けていく清々しい爽やかなものだった。

しかし、こんな時期に沈丁花の花が咲いているわけもないのにと、周囲を見回したが、それがどこから漂ってくるのかは結局わからないまま、それらしい花を見つけることもできなかった。


「鎌倉にはこうした不思議なことがときどき起こる」と、西岸良平の「鎌倉ものがたり」なら書いてありそうなことだが、普段人の入らない庭園だけに何かしら神秘というものが生きているのだろうか。


足元を見ると地蔵さんが冬支度をしていた。あまりおかしな感じもしないで似合のが面白い。


明月院 地蔵

明月院を出て、交差点の踏み切りを渡り東慶寺へ向う。

東慶寺は「花の寺」といい、また「縁切り寺」の別名がある。


「縁切り」という言葉は、今日ではあまりいい言葉とも思われていないが、人と人を結び「縁結び」と同様に、悪い人や、物事との縁を切ることもまた、古くは重要なご利益であると考えられていた。

とくに、夫婦間の離婚というのがまだまだ自由にはできなかった時代、女性を匿い、そうした手続きを手助けする寺の存在は非常にありがたいものであったそうだ。

そうしたことから縁切り寺、駆け込み寺の名が残る寺は各地にあるが、東慶寺は代々の住職が名門の女性であったために格式が高く権威もあったため、それを頼って駆け込んでくる女性が多かったという。


今、その寺に「花の寺」という名がついているのも、あるいはそうして駆け込んできた女性たちが浮世の辛さを慰めるためにこうした花々を愛でたのかも知れないなどと考えると、本堂の脇に小さく咲いている他愛もない撫子の花などもどこかはかなげに見えてくる。


東慶寺本堂

鎌倉の紅葉。とくに寺の紅葉はけして多くの木々が一斉に色づくというわけではないらしい。

いずれの寺も境内に数本だけ見事な巨木があって、それが山門や本堂の屋根にかかっている姿が趣があるといって喜ばれる。


東慶寺の紅葉


東慶寺はまた著名人の墓の多いことで知られており、小林秀雄、西田幾多郎などの墓があるそうだが、丘陵に沿って作られた墓所はやはり現代の公園墓地とは違い、みな控え目な印象があった。

この墓地を見下ろす高台に東慶寺中興の祖とされる皇女用堂尼の墓がある。

後醍醐天皇の皇女として産まれた用堂尼は、現在の鎌倉宮にあったとされる土牢に幽閉され、そこで非業の死を遂げた弟の大塔宮護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入ったと伝わる。


東慶寺 皇女用堂尼の墓

建武の中興の時代、多くの皇族たちもまた「武将」として各地を転戦したが、護良親王は父の後醍醐天皇に似て気性が激しく、武芸を好む猛々しい性格だったといい、そのために征夷大将軍の位を欲した足利尊氏と対立したといわれる。

後に「建武の中興」が評価され、南朝の忠臣として戦った武将たちや皇子たちが顕彰されるのは、尊王攘夷の機運が高まる幕末から明治の時代を待たなければならない。

枯れ葉に埋もれた墓地の景色を見下ろすと、有象無象の石塔があちらこちらに見え、なんともいいようのない荒涼とした景色に寂しげな思いがする。


東慶寺 墓地

北鎌倉の駅へ戻ると、まだようやく正午になったばかりだったので大船駅で降りて、ここにある常楽寺という寺をたずねてみることにした。

常楽寺は北条泰時が夫人の母の供養のために建立したことにはじまる鎌倉でも創建の古い名刹で、後に建長寺を開山する蘭渓道隆もこの寺の住職を務めていた時期があったそうだ。

紅葉の季節とはいえ、ここまでわざわざやってくる人もいないためか、境内は他に人もおらず静かだった。


常楽寺 仏殿

泰時の墓は現在、山門を抜けた正面にある仏殿の裏にひっそりと佇んでいる。



泰時といえば武士政権の基礎となる「御成敗式目」を定めた人物として歴史の教科書などでも名前を見かけるはずだが、それがこうして鎌倉の中心から離れた場所でひっそりと眠っているのも、奥ゆかしく思慮深い性格だった人柄が偲ばれるようで面白い。

仏殿の前にある大銀杏の木も、寺を開山した泰時、あるいは蘭渓道隆の手植えによるものと伝わっている。


常楽寺の銀杏


寺の方の話では、すでに中央の大木は年老いて腐ってしまっているが、今は周囲の若い木がそれを支えているらしい。

年老いた銀杏の枝からは木肌が垂れ下がってくることがあるが、これを「乳」といって、古来から乳房に見立てられたため、子供を産んだ女性がお参りすると「お乳の出がよくなる」と信じられていた。

これもまたそうしたありがたい木だったのだろう。

「樹齢千年」といわれた鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏は数年前に倒れてしまい、現在はそこから芽吹いた新芽が成長しているそうだが、この常楽寺の木にも長生きしてもらいたいものだと思う。


鎌倉の秋も終れば、いよいよ師走も末。

今年も残りわずかとなる。

折りしも暮れの選挙で騒がしい街中を他所に、数百年の歳月を見守ってきた古刹の昼は何事もないように穏やかに過ぎていた。



今回も読んでいただき、ありがとうございました。