選挙の結果について ~お客さんと料理人のような政治の構図~ | 十姉妹日和

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つれづれに書いた日記のようなものです。

衆議院の選挙日がやってきた。

おそらく、これを公開する頃には自民と公明の与党大勝のニュースが、開票直後に伝えられているだろうと思う。


今度の選挙で何が変わるのか。

結局、与党の大勝では何も変わらないのではないか、と思う人も多いだろうが、そうでもない。

与党の大勝と、野党の敗北自体はすでに選挙の序盤から見えていたが、それ以上に今回注目すべきなのが「投票率」と「得票数」になる。

これは後日また集計された結果が各紙面で伝えられるだろうが、おそらく今回の選挙では投票率そのものはあまり上がらないだろう。

そのため、各政党の得票数もほとんどが前回の衆議院選挙よりも減るか、増えたとしても微増程度のところが多いだろうと思う。


こうした数字で見ると、また違ったことが見えてくる。

例えば2012年の衆議院選挙で自民党は大勝したとはいえ、得票数自体は減少していた。


今回はさらにそれ以下の投票率になる可能性が高いというのは、おそらく野党の中で議席を増やす可能性の高い民主や共産にしても、得票数がそれほど増えないのなら、与党の議席を削ることはできないだろうし、議席は増えてもそれはかつてのみんなの党や、次世代、維新の持っていた議席を奪うだけ、という形になるのが目に見えている。

こうした情勢の選挙では政権交代劇などはとても起きるはずがない。


なぜなら、有権者の半数にも近い「選挙にいかない層」が動かない限り、政党支持率から見ても全体のバランスというのはそれほど極端に崩れることはないのだから。


民主党が政権交代をした2009年の選挙の際、投票率はおよそ69%にも達していた。

それが2012年の選挙では59%と、ほぼ10%も落としている。

この10%の中に概算で1000万程度の票があった。

もちろん、これがそのまま民主党の政権交代を後押しした、というわけではないが(自民党の得票数も2012年の選挙と比べて300万程度多かった)、ここで考えるべきは「政治に国民が関心を持つイベント」としての「政権交代」が、あのときには現実味があったから投票率も上がった、という事実だろう。


今回の選挙の投票率は最終で55%もいけばいいものと思うが、これは国民に政治不信が広まった、というよりも「政治という話題そのものがあまり関心事にならなくなった」ということでもあると思う。

それだけ国民が関心を持つような争点がないのだ。


テレビ番組では集団的自衛権や、普天間の移転、原発の再稼動などを「争点」として取り上げてはいても、こうした問題は国民かあすればけして関心が高い問題というわけではない。

こうしたテーマは賛成か、反対か、よりも「よくわからない」というのが多くの国民にとっては正直なところで、それは消費税の増税などにもいえる。

それを大声で「正しい、こうすべき」というのは政治が好きな人たちこそ話題にはしても、多くの国民が選挙で選ぼうとしているのは、個々の政策や意見が正しいかどうかよりも、「一応ここならどんな判断をするにしても、そこそこやってくれるだろう」という「代表者」であって、自分の意見の「代弁者」ではない、ということは重要だろう。


あれほどマスコミが原発や集団的自衛権のことを報道しているのに、それが国民の間で争点にはなっておらず、選挙の結果もまた現在の政権を支持しているということは、この点で国民が全面的に現在の政権を支持しているというわけではないが、それでも「判断を預けてもいい」と思う程度には信任しているというだけの話なのだ。


しかし、これがどうしてもわからない人々は「国民は無責任だからこんなことになった」という批判の矛先を国民の方へと向けるようになるが、考えてみればこんなに馬鹿げたことはない。


そもそも政治に関してのスタンスは、大きく分けて二つのタイプがある。

一つはtwitterなどで多いように「いちいち自分が政治にああだこうだといって注文をつけ、それに賛成しない人間に文句をいわずにはいられないというタイプ」だ。

彼らは自分たちこそが理性的で、近代的な政治をよく理解した人間であると自負している。

とくにインテリというのにはこうしたタイプが多い。

どうしてあれほどまでに徹底した罵倒を自分の嫌いな政党や有権者、あるいは日本人に対してつぶやけるのかといえば、彼らを支えているのはそのプライドのためであるからに他ならない。

だから彼らは料理店でいえば注文の多い客になる。


「なんでそこでその食材を使うんだ!」、「この材料でこんな料金をとるなんてどうかしてる」、「調味料はもっと早くいれた方がいいのに!」と、「料理人のそばにいていちいち指示を出したがる素人」のようなものだ。

だから「あんな腕の悪い料理人に料理を作らせていたらどうしょうもない!」、という言葉の裏には「俺ならもっといい料理ができるのに、なんてバカなことをしてるんだろう」という思いが透けて見えているときがある。


これに比べると多くの国民、とくに政治にそこそこしか関心のない国民はよくも悪くも「料理を待っているお客さん」というタイプが多い。

だからどんな料理が出てきても「あんまりおいしくない」とは思いながら「でもまあこんなものかなあ」と処理している。

なぜなら、彼らには専門の食材や、調理法の知識などがあるわけではないし、またそれをとくに学びたいという強く意欲があるわけではなく、日常の生活も忙しいから、自分たちが料理人の代わりに料理を作ろうなどとはけして思わない。

そのため「他にいい料理人がいないかな」とは思っていても、率先して調理場までいこうとはしないし、要求をどんどん出すということもない。

ときどき、マスコミから「どうですか? この料理(政策や方針)はおいしいですか!」という質問を受けて、「そうねえ、あんまり……」とか「私はおいしくないと思います」といったりするくらいのものになる。


こうなると民主党が政権交代ができた理由も、その後急激に支持率を落としたことも簡単に説明がつくのだが「私は自民党より美味しい料理ができます!」といって、メニュー(マニフェスト)を見せて期待をもたせたところで、「じゃあ、一度やってもらおうか」と信任をもらい、自民党という料理人を追い出して厨房をまかされ、さて料理を作りはじめたまではよかったのだが、そこから出てきた料理ときたら、まるで期待はずれで、メニューとはぜんぜん違っていたため、国民(お客)から「これなら前の料理人のがまだ食えた」と、そっぽを向かれてしまうことになった。


だから国民はまた与党を自民党に戻したわけだが、それでも料理人に満足しているというわけではないので「他にいい料理人がいないなら、わざわざ選挙にいって選ぶこともない」と料理人探しにうんざりしている、というのが投票率の低さの背景にはあるのだろう。


今のインテリ層や、マスコミが総じて勘違いしてるのはその部分で「今の料理人はこんなにもひどい! メシがまずい!」といくら連呼したところで、美味い料理を作れそうな料理人が出てくるまでは、国民が「一度やらせてみよう」と思うことはもうないし、あまりアクの強い料理や、うるさいだけの素人にそれを担当させる気もすでに失せている、というのが見えていないことにある。
むしろ、こうした口うるさいほどの批評が続くとそれはそえで段々と鼻についてくる。

料理人の批評をしているだけならまだしも「こんなまずいメシを食っている客は馬鹿だ」といいだす人間が出れば、そこに居合わせた他の人間はけしていい気はしない。

こうした態度は返って「そんなめんどくさいこというならもう知らない」と、政治に関心のないどころか、政治的なものを面倒くさいものと認識する人間を増やすことにもなり、やがてうるさい客となってしまった人々は、政治家(料理人)と同様に大多数の方からは胡散臭いものと見られていくのもまたそうだろう。


このように今度の選挙の結果を見ると。

自民党にしようといえば、まあ三割くらいはそうしようという。

二割程度は自民党だけは嫌だから他のならどこでもいいからという。

残りの五割は「よくわからないからまあまかせるよ」という。


そんな感じだった。


だが、そうしたものであったにせよ、日本はもともと揉め事を起こすよりは、どこかしらで妥協点を見出していこうという解決手段を探すのには長けている国だから、今度の結果に一部が反発したとしても、これでしばらくはまた落ちつけるとは思う。


自民党、とくに安倍政権にとって消費税の増税を控え、経済の落ち込みが予想されていた2014年というのが課題の年になるというのはわかっていた。

これを乗り切った現状では、もう一年、あるいは一年半から二年程度はこのまま支持率の下落があったとして政権運営は十分に可能だろう。


野党はこうなれば「再編成」をせざるを得なくなるだが、仮にここで生活の党が民主党に合流したところで、問題は維新になる。

維新はおそらく今回の選挙で議席をあまり伸ばすことはできず、むしろ減らしている可能性が高い。

その幅はまだわからないが、ここえ敗北となれば、来年の統一地方選挙でも維新が基盤をおく関西を中心に影響力の低下は免れない。まして江田共同代表はともかく、橋下大阪市長の性格からいって、民主党の下につく、というのはけしてプライドが許さないだろうし、また地方での政策をめぐっては、とても民主と維新の連携はできないと思われることから、党内で新しい亀裂を生むことにもなる。


こうした野党の結束を挫いたという点からいっても、この選挙の結果で自民党の一人勝ち状態はほぼ磐石なものになった。

これでひとまず、小泉政権以降の政界の変化にも区切りがついた、というべきかも知れない。


今、こうしてそれを書きながら思い出すのは2006年に発足し、わずか一年ほどで退任することになった第一次安倍内閣のときのことだ。


当時、2ちゃんねるでは「保守派」の政権として、やはり応援していた人が多かったのが、これは思えば「過剰な期待」だったように思う。

もともと、「ネットの保守」といっても、その主張は様々だ。

そのため、安倍政権になったからには即座に河野談話の見直しや、中国や韓国への強硬な態度での外交を望むという人がかなりいた。

ところが、そうした問題をめぐって、安倍首相がはっきりとした明言を避けたことから、「安倍は保守じゃない」、「あんなのはダメだ」という主張をする人が、右派の中からも相当数出てきてしまった。

その上で、慰安婦問題をめぐってブッシュ大統領に「謝罪」をしたことから、「もう安倍を下ろせ」という声がかなり出てきたのは今もよく覚えている。


私は「もともと日本政府は慰安婦の存在自体を否定してはいないし、慰安婦に対しては歴代の総理が書簡などでも謝罪を述べているのを繰り返しただけだから、強制連行の有無は関係ない。ここで安倍首相を応援するのはやめるべきではない」と、その頃よくいっていた。

ついでに「もしもここで総理が代わればたぶん福田が総理になるだろうけど、そうなったら対中外交なんかはもっとひどいことになる」といっていたのだが、これはほとんど同じ保守派の中でも聞き入れてもらえなかった。まだ福田総理になるとはみんな思っていなかったのだ。


最近、こうした過去のことを思い出すと、概ね自分の認識の方が正しかったと思うことが多い。


民主党が政権交代をするといわれていたときも、その前の参議院選挙で民主党が勝利した時点で、「おそらくこれは民主になるな」と思っていた。もちとん300議席もとるとまでは予測してはいなかったが、「なんとか自民党が勝つだろう」という予測には「それはないな」と思っていた。

一方で、民主が四年後にもう一度政権をとれるか、といえばこれもないだろうというのもわかっていた、


自民党にはある程度の固定票があるが、比べて民主は自民ほどそうしたものは強くはない。

まして、マニフェストの内容を見る限り「財源がない」というのはいずれ政権の運営で問題になるだろうという指摘している人も多かったから、そうなったときに四年後にまた民主に投票する人がどれだけいるかと考えれば、どこまで負けるかはともかく、まあ自民党に戻るのは間違いないだろうなというのはあった。

だが、そこでまさかもう一度安倍首相が自民党総裁に返り咲いたのはさすがに予想外なことで、しかもそれが長期政権になるというのは、もともとの私の立場からいえば、これは嬉しい誤算だ。


だが、誤算ついでにいえばこのまま安倍政権でいて、日本がよくなるか、といえばそれはまたよくわからない。

もともと政権発足時の支持率はあまりにも高過ぎた。

これもまた「過剰な期待」だった。

これは民主党でもそうだったのだけれど。

だから下がっていくのは仕方がない。

それに自分には悪くないメシでも、他の人がそう思うかは別だろうから、いずれはまた別の人が総裁になることもあるだろう。

しかし、それはまだ当分の先のことになりそうだ。


また思い返してみればこの八年ほどの間に、ネットの知り合いの中にはずい分有名になった人もいた。

もう自分の研究に没頭している人もいれば、そのままネットの中で活動を続けている人もいるようだ。

おそらく、しばらくはこうした人たち。

「極端ではなくて、やや右よりのリベラルという人々」が世相には合うだろうから、まだもう少しは有名になる人も出るかも知れない。


また、そうした一方で、これから過激な方向にいく人たちは左右を問わず、マスコミがどう取り上げるかはともかくとして、世間からはそれほど相手にされなくなっていくだろうと思う。

それが世相の中である程度居場所を持ったときに、嫌韓とか、ネット上の保守というのは概ねその役割を終えるだろうとは、以前から思っていたが、今はちょうどそうした時期だ。

そこからわざわざ過激なことをやろうとするのはもう徒党の汚さしか目立たない。

ヘイトスピーチや過激なデモがどうのといっても、あれはもうああいう団体で、それに世の中の人が付き合う理由なども別にないのだからおかしいものはおかしいと思っていたら、それでいいとおもう。


あくまで大切なものは日常の方にあるべきで、政治が日常である必要はないのだから。


私自身、このところはもう政治的なものよりもこの国の自然や、建造物の美しさが何か身近なものに感じられて、愛しくて仕方がなくなってきた。

こんな国に住んでいて、愛国心、などという言葉をわざわざ使わなくても、何も愛着を持てないというのはおかしい。

そう思ってみれば、民族というものはどこまでもありがたいものだ。

自然を慈しむ、などというのはまったく近代人の考えで、自然や世界はこんな私でも生かしてくれる、と思えば森羅万象のすべてがことごとくこちらを包み込んでくれるように感じられる。

こうしたものは歴史とか、民族、というものを離れるともう何も面白くはない。

だからどこか「国家」(国ではなくて)という概念を基準にする愛国心というのは、どこか空々しく思える。

そうした愛国心を教育するなどといっても、それを教えられる側の人間が果たしてどれだけいるかは疑問だし、やはり教える側の人間性というのは大事なものだから、カリキュラムで定めればどうなるというわけでもない。

そうした政治にはできないこと。

自分なりに見たいものをみていきたいと思う。

来年はできれば芭蕉の「奥の細道」か、西行法師の足跡をたどってみたいと思っているが、どうなるだろうか。



それでは今回も読んでいただき、ありがとうございました。