横浜の三渓園と「聴秋閣」 | 十姉妹日和

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つれづれに書いた日記のようなものです。

先日、古書店で買った美術の雑誌を読んでいると、ひとつのページで手が止まった。

それはどこかの茶室を写したものだったが、まずは一面を鮮やかな白い障子が覆っているのが目にとまる。

それが小川を前にした新緑の風景の中で際立ってに見えるのだ。

そして、その屋根から小さな二階の部屋が、ちょこんと飛び出したように造れているのも面白い。

二階建てなら、普通は下のバランスをある程度考えて造ろうとするはずだが、ここにそうした発想は見られない。むしろ、その不調和を楽しんでいるようだった。


三渓園 聴秋閣


茶室は「三渓園聴秋閣」。
作者は佐久間将監という。

将監は本名を実勝。豊臣秀吉に仕えた小姓で、後に徳川家康のもとで普請奉行、作事奉行を務めるて活躍する一方、古田織部から茶道を学んだ茶人でもあった。


当時、織部は利休の後を継いで秀吉の茶頭を務め、関ヶ原の合戦の後は徳川二代将軍秀忠の指南役となっている。

その織部の弟子となると、当時のまず茶人としては第一級の人物だったのだろう。

しかし、彼と同じ頃、織部の弟子にはあの小堀遠州がいた。


稀代の茶人として利休、織部に並び称され、茶室や庭園の造形にも精通していた遠州もまた普請、作事で活躍しており、徳川将軍家のお気に入りとなっていた。

こうした華々しい遠州の活躍に比べれば、将監はどうしても日陰の存在だったのかも知れない。


「両者とも茶の湯に深く似た境遇であったため、遠州はライバル的存在であったのかもしれません。この建物から将監の挑戦・意欲が伺えます」


とは、聴秋閣を紹介した三渓園のホームページにある文章だが、それが意欲となりこうした茶室を生み出したとすればそれは面白い。



この茶室を知ってから一月ほどして、鎌倉の明月院と東慶寺の紅葉を見に出かけた帰りのこと。

駅へ戻ってくると、日も高くまだだいぶ時間が残っていた。

時計は昼の二時。

これくらいならまだどこかへ寄れそうだと思った。

「そうだ。鎌倉なら案外三渓園も近いんじゃないかな」

そう思い駅員に聞いてみると、横浜といっても、三渓園までは横浜駅からはかなりの距離があるそうで、横浜から根岸線に乗り換え、根岸駅で降りて市営バスを使うのが一番便利なのだそうだ。

北鎌倉からなら一度大船まで戻り、根岸線に乗り換えればいい。

これなら横浜へも戻れて都合がいいだろうという。


喜んで言われた通りに大船で乗り換えた。

湘南新宿ラインから見える鎌倉あたりの景色と、根岸線の港南台あたりではだいぶ様子が違っている。

このあたりになると住宅が一気に増えてくるのだ。

鎌倉のような古都ではなくて、こちらは工業都市横浜と直結している住宅街のためだろう。

そして電車の先には、いよいよ首都高と交差して大きな工場の並ぶ地帯があらわれてきた。

磯子駅のあたりの橋梁から見えるのが掘割川で、このときはただなかなか大きい川だなと思っていたが、実は明治時代に造られた人口の河川で、以前は横浜港と根岸湾を結び重要な水路だったという。


根岸駅へ降りると、ホームの向うには停車している無数の貨物列車が見えた。近くの製油工場から製品を輸送するためのものらしい。

駅から出ると、乗り場を確認して、ロータリーでバスを待つことにした。

根岸は人の乗り降りが多いのか、駅前も案外広い。

冬の風はすでに昼を過ぎると激しく身を打つように吹き付けてくる。

きょろきょろとあたりを見回すが、私の他にはバスを待っている人もいなかった。

知らない駅で、こうなると何か心細い感じがする。

目の前のパチンコ屋に掲げられた電子看板をニュースが流れていく。


『ウクライナ東部での衝突続く』

『イスラム国へ空爆』


こんなニュースが日常になってくると、なんだか現実にいるのか、フィクションの世界の出来事なのかわからなくなる。

今年は本当にあわただしい一年だった。

来年はどうだろうか。

少しは世界もよくはなって欲しいが、最近の情勢を見ているとそうはならないかも知れない。


ぼんやりといき過ぎていく同じ文字列を、何度となく見送っていると、やがてバスの時刻が近づいてきたのか人も増えてきた。

安心した。

みんな地元の人たちなのか、観光客らしいのは私と後は三人連れの婦人の一団くらいしかいないようだ。

それからようやく十分ほどしてからバスはやってくる。

「このバスは三渓園へいきますか?」

乗り込みながら、運転手にたずねると「本牧のバス停で降りてください」というからまずはバス停を間違えていなかったと安心した。


根岸を駅を出たバスは、首都高速湾岸線に沿った広い道をずっと進んでいく。

地図を見ると、このあたりはちょうど三浦半島の付け根にあたる場所のようだ。


広々とした道路に面した本牧のバス停を降りて、右手の道を斜めに抜けていくと三渓園への案内の看板があった。

意外とバスに乗ったかも知れない。

入り口へやってくると、バスでやってきた観光客の一団らしいのがいて、これから帰るところらしかった。

園内に入りまず見えるのは大池を前にして、小高い山の上にそびえる三重塔。

これは庭園のシンボルのようだ。

この塔のみならず園内の建物のほとんどは各地からこの庭園のかつての主人が資財を投じて集たもので、この庭園自体が今風にいえば一種の建物園でもある。


茶室の集められているのは庭園の右手の一画のようで、あたりはなだらかな丘陵を山に見立て、池にせせらぎの注ぎ込む様は、天然の渓谷のような趣に作られている。

おそらく、この庭園の主人はここに山里の風景でも再現したかったのだろう。


右手に「臨春閣」を眺めながら「亭しゃ」という橋を渡る。

この亭しゃもまた備えられた屋根が美しく、全体の景色によく調和している。

『近代日本画を育てた豪商 原三渓』という本の表紙に写っている庭の主人の写真はおそらくこの橋の前で撮られたのだろう。


三渓園 臨春閣をのぞむ


「臨春閣」はもと紀州徳川家の別邸だったもので、紅葉の色に芝生の緑が美しく映える。


三渓園 臨春閣


先ほどから「庭の主人」というもって回ったような言い方をしてきたが、ここでそろそろこの庭園の主人のことを触れておこう。

「三渓園」という名の通り、主人は名を三渓という。とはいえこれは茶人としての「号」だった。

原三渓こと、幼名青木富太郎は明治元年現在の岐阜県に生まれた。

家は代々土地の名主格だったという。

富太郎が青年になる頃、世は自由民権運動の最も盛んな頃で、変革の風が吹き荒れている、まさにその最中だった。

そうした中、京都で学んでいた富太郎は上京し、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学し政治と法律を学ぶことを決意する。

これは時代の影響もあったのだろうと、『近代日本画を育てた豪商 原三渓』の著者竹田道太郎氏は書いている。

明治の時代、政治と法律は当時の先端ともいえる学問だったのだ。


上京した富太郎は、こうして学問をする傍らで、千代田区西神田に校舎のあった跡見女学校に勤務し、漢学と歴史の教師を務めて給金を得たという。

今でいえば非常勤講師のようなものだろうが、この教員生活が富太郎にとって思わぬ大きな転機となる。


当時、跡見女学校に通っていた学生の中に原屋寿という女性がいた。

屋寿の祖父は横浜一の生糸業者といわれた豪商原善三郎で、第二国立銀行(現在の横浜銀行の前進のひとつ)の設立にも関わり、衆議院議員にも当選するなど、当時の横浜財界でも有数の実力者だった。

屋寿はその唯一の肉親で、跡取り娘だったという。

ところがその善三郎の孫娘と、富太郎はやがて相思相愛の仲になってしまった。

そして二人は結婚。

実家との協議の末に富太郎は原家の養子となり、ここで原富太郎とあらためることになる。

当時としてはめずらしい恋愛結婚だったようだ。

普通、こうした豪商の娘なら、家柄も悪くないとはいえまだ学業をしている青年を孫娘の婿にすることに少しはためらいを持ちそうだが、善三郎も古美術の蒐集などを好んでいたためか、富太郎とすっかり意気投合して結婚を快諾したというから、かなり進歩的な人だったのかも知れない。


この善三郎の見立てはまったくの正解だった。

やがて家業を継いだ富太郎は、それまでの個人商店から合資会社に改組し、若い社員を集め海外への生糸の売り込みをさらに強化していく。

この時期に、昨年世界遺産に登録された「富岡製糸場」を明治35年に三井家から購入したのもやはり富太郎の「原合資会社」だった。

こうした積極的な試みは生糸貿易の好調とも相まって、アメリカ、フランス、イギリスなどへの販路拡大にも成功し、着実に収益を増やしていく。


もともと、富太郎の実家の父という人も行商で稼ぎ、傾きかけていた家を再建し、地元の町長になったという人だったそうだから、親譲りの商才もあったのかも知れない。


こうして企業家としての成功はまずまず収めた富太郎は、続いて昔から好きだった美術蒐集の道にも本格的に入っていくことになる。

それはただ古い美術品を集めるだけではなく、若い画家たちの支援もするという大掛かりなものだった。

当時、富太郎のお気に入りの画家には横山大観、菱田春草とともに明治の日本画家の大御所となる下村観山がおり、また援助を受けた画家には今村紫紅などがいる。

とくに若い画家には資金の援助だけでなく、三渓園の自宅にある部屋を提供するなど手厚かったようだ。

こうして富太郎、三渓は明治、大正期の財界を代表する芸術の支援者として世に知られていくようになる。


当時の原家の財力のすさまじさは三渓園に現存する建物を見てもわかる通りで、重要文化財級の建物をそのまま買い付けて庭園まで移築することも可能だった。

金持ちといっても、今と昔では発想が違うのだろうし、こんなことのできる人もおそらくはいないだろう。

この建物の移築も、現在なら「文化財の保存」という見方をされるだろうが、富太郎はそうではなくあくまでも美術愛好によるものだったらしい。

そのため、庭の設計から木々の配置までもすべて自分が携わり、移築する建築物もまた彼自身が選んでいた。

なんとも壮大な趣味の世界だ。

しかし、富太郎はそうして集めた文化財をただ独占するような器量の狭い人物でもなく、明治三十九年には庭園を一般に開放している。

富太郎には「文化財は民族全体の共有財産であるべき」という考え方があったらしい。


そうした性格のためか、地元の経済界でも抜群の信頼を持っており、第一次大戦の終結の反動からやってきた大正九年の「戦後恐慌」や、関東大震災からの復興では、地元経済界の先頭に立って政府との交渉にも当たっている。

富太郎にとって、この庭園は多忙な日々の中で、自らの好みを活かそうとした手作りの夢のようなものだったのかも知れない。


さて、ここでまた三渓園の散策に戻ろう。

「亭しゃ」を渡り、なだらかな道を左手に紅葉の美しいせせらぎを見ながら進んでいくとと「月華殿」に出る。

徳川家康が、京都伏見城に建立したものだという。


三渓園 月華殿

ここから左へ抜けて、大池への道を戻っていくところに「聴秋閣」はある。


三渓園 聴秋閣2


一目見て、やはり美しい茶室だなと思った。

伝えによると、この建物はもともと「奈良にあったとか京都にあったとか江戸城の中に建てられたとか伝えは色々であった」という(「日本の美術 No.84 茶室」 堀口捨己)。

後に春日局に将軍徳川家光から下賜されたといわれるが、どうやら彼女の実子である老中稲葉正則の屋敷にあったことまでは確かのようだ。


家光から乳母である春日局に贈られた。

これだけでも、家光がこの茶室を気に入っていたことがうかがえる。

そうすると、将監の挑戦もまた成功したといえるかも知れない。


もっとも、茶人三渓がこの建物をわざわざ選んでここに移築してきたのは、何もそうした由来によるものばかりではないだろう。

やはり何かこの茶室に魅せられるものがあったのだと思う。

茶室の右手は沢になっており、そばの石段を登り、この沢のせせらぎを楽しみながら、ふと茶室を振り返れば、まるで山の中にぽつんと聴秋閣だけが建っているように見える。


茶室では「路地」という隣接した庭もその一部として重要な役割をなすというが、聴秋閣の場合には移築ということもあり「建物」としては重要文化財に加えられているものの、路地は現存のものでないため「茶室と路地」などの、それを一体として扱う本には加えられないこともある。


だが三渓が意図したものはこうしたもともとの価値に拘った「再現」ではなかった。

それよりはむしろ形を変えて庭園の中に活かす工夫だったように思える。


園内には織田有楽斎の作とされる、重要文化財の茶室「春草蘆」(九窓亭)が移築されており、こちらには豊臣秀吉も訪れたという話も伝わっているという由緒正しいものだ。


三渓園 春草廬

聴秋閣とこの春草蘆とを比べたときに、はっきりとわかるのは周囲に植えられた木の違いだろう。


聴秋閣が小川の渓流を活かした紅葉や常緑樹を中心にした赤と緑の配置であるのに対して、春草蘆は銀杏など黄色の樹木を主体とした配置がされている。

そのため聴秋閣が川辺の清々しい印象を受けるのに比べて、春草蘆には落ち着いた暖かな色合いがある。

三渓はこうした木の配置を分けることで、庭だけなく景色そのものを作ろうとしていたのかも知れない。


こうしたところにどうやら佐久間将監と原三渓という、時代を隔てた二人の茶人を繋いだものがあるらしい。

それは一種の謎かけのようでもある。

三渓は日々、この庭を歩きながら、ひとつひとつの木や石の配置から、草のひとつにまで心を配っていたという。

そうした中で、この聴秋閣にもまた三渓はどのような形が好ましいかを考え抜いたに違いない。

いうなれば現在の聴秋閣は将監と三渓という二人の卓越した美術家による合作なのだ。


こうしてひととおり園内を見て歩いて大池は戻ってくると、いつしか日は暮れはじめ、三重の塔は背後で静かに暗闇の中に包まれはじめていた。


三渓園 夕暮れ


富太郎の死に前後するように、貿易の主要産業であった生糸は化学繊維の登場から次第に衰退していくことになる。

晩年の富太郎もまた長男の夭逝や、衰退していく事業経営を見つめながら、静かな落ち着いたものであったという。

彼がここに造ろうとしたものが、日本美術を集めた壮大な夢ならば、今もここに残るものはその夢の跡だろう。


三渓を出て、バスで横浜へと向かう。

途中中華街で降りて少し歩いていくことにした。


中華街のシンボルといえば、やはり関羽廟だ。

三渓の落ち着いた雰囲気からすれば、こちらはまさに豪華という他ない。


中華街 関羽廟

中国の文化と、日本の文化のそれとはやはりどこかが違う。

それが日本の地、風土に馴染むには時間のかかるものもある。

しかし、こうして異国のものをそのままに受け入れているところに、横浜の面白さがあるのかも知れない。

そう中華街の賑わいを見ていると思う。


中華街 春節灯篭

クリスマスツリーのような「春節灯」を見てから、帰途についた。


今回も読んでいただき、ありがとうございました。


参考文献

竹田道太郎著『近代日本画を育てた豪商 原三渓』 有隣新書

堀口捨己編 「日本の美術 No.84 茶室」 至文堂