第一章「それは90年代からはじまった」
「ネット右翼とは何か?」
こうした問いかけに対する、今日の世間のイメージはおそらくけしていいものではないだろう。
――日本と韓国との関係を悪化させているネットの集団。
――安倍政権、自民党の強固な支持者たち。
――ヘイトスピーチの問題にみられるような差別主義者の群。
そうしたイメージは様々でも、ネットを中心に活動している愛国者を自認する集団がいる、ということだけはようやくここ数年で世間にも認知されはじめたのは確かだ。
その中には例えば在特会(在日特権を許さない市民の会)に見られる在日韓国、朝鮮の人々を敵視して激しい罵倒を繰り返す集団などを思い浮かべる人々も多い。
しかし、では彼らがどのようにして発生し、拡大していったかとなると、これを知る人は意外に少ないように思う。
一時期、ネットではこうしたネット右翼が急速に増えたのは、日本の弱体化と、中国や韓国といったアジア諸国の発展を妬んだ若者が増えたことが原因という分析も見られたが、これは世間からすれば確かに「わかりやすい回答」ではあっても、必ずしも正しいものではなかった。
これは時間の経過によっては仕方のないことだろうが、どんな運動もはじまりから10年もすれば内容も変質し、そもそもそれがどんなものだったのかも忘れられていく。そうした中でかつて自分が見てきた「彼ら」がなぜネットに集まり、そしてどのような主張を展開し、活動していたのかを記録することにはもはや嫌韓などが過去のものとなりつつある(少なくともネットの議論では)古典的な意味合いしかないだろう。
だが、それでもいつか2000年代のネット世論というものが注目されたとき、それに関する記録を少しでも残しておくことにもそれなりの意味があるのではないかと思っている。
ただ、その本題にいく前にひとつ片付けてしまわないといけない問題がある。
それをネットでいわれている「ネット右翼」。あるいは「ネトウヨ」というものが、果たして厳密に定義できるのか、ということだ。
もともと「ネトウヨというもの自体が単なるレッテルではないのか?」という批判はネットでも多い。
実際に今までこの「ネット右翼」というものについてはまとまった定義というものもなく、それを取り巻く議論もほとんどが稚拙だった。
そこで彼らを、つまりかつての自分を含めた「ネット右翼」とされた人々をどのように呼ぶべきかをまず考えなくてはならない。
彼らの傾向にある、政治的な熱心さ。発言の過激さ。
そして、いい加減ともいえるほどの陽気さ。すぐ雑談にそれていく多趣味。
私の見てきた多くの人々は、韓国やマスコミの持つ問題をデモなどの行為によって訴えようとすることは少なく、なるべくなら世間が自発的にそれに気づき、選挙などを通した民主主義的な方法で世の中が変わることを望んでいた。
そして、主張そのものを見ても、常に彼らが保守的、右翼的であったとは一概にはいえなかったし、私自身もこれは様々な出来事を振り返ってみると、ますますその確信を深めるようになった。
彼らを「右翼」というのは確かに的確ではない。
そこで、私はあえて彼らの全体を「ネット壮士」と呼んでみることにした。
壮士とは壮年の男性という意味合いがある以上に、かつて自由民権運動のときに政治運動を志し、社会運動に飛び込んでいった血気盛んな人々を指す言葉でもある。
彼らは使命感に燃える一方で、興業などの多くの副事物を生み出した。
そうした壮士たちのような「インターネット上の壮士」たち。私を彼らをあえてそう定義することにしたいと思う。
まずネット壮士たちの誕生を考える上で、彼らのバックボーンがどのように形成されたかを見ていこう。
そのためにはまず90年代という時代の空気を――あの終末的な雰囲気と、それを望んでいた人々がいたことを――思いださなくてはならない。
この90年代という時代はおそらく多くの日本人にとって、ある種の「痛み」をともなうものとして記憶されているのではないだろうか。
この「痛み」のはじまりは1991年のバブル崩壊のはじまりにまで遡らせることもできるだろうが、それがインターネットと結びついたのはやはり90年代の後半になってからである。
とくにインターネットが日本で広く普及するきっかけとなった1995年。
この年に発売されて大ヒットし大きな話題となった「windouw95」の登場は、はじめてOSソフトの名前がテレビで大々的に報じられたことでも大きな意味を持っている。
まだパソコン自体がそれほど家庭に普及していなかった当時、そもそもOSがどういうものかも知らない人々がほとんどだったため「パソコンは持ってないけどテレビで話題になってるからとりあえず買ってきてみた」という嘘のような本当の話もあったそうだ。
それだけパソコンの歴史としては記録的な出来事ではあったともいえるが、今になってみると記憶に残っている人は案外少ない。
それというのも、95年という年はあまりにも多くの事件があり過ぎたからだ。
一月。兵庫県を中心とした、関西の広い地域に大きな爪あとを残す阪神・淡路大震災が発生する。
死者6434名。負傷者は43000名にも及んだこの震災は、連日テレビでも報道され災害の被害が生々しく家庭に伝えられた。
さらに三月。
東京都でオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。
死者8人。負傷者660人以上。
世界ではじめて化学兵器が使用されたテロ事件となった。
この事件への関与から、同月には一連の「オウム真理教事件」が発覚し、世間の関心は一躍この奇妙な集団へと向けられることになる。
四月。横浜駅で異臭事件が発生。多数の負傷者が出る。地下鉄サリン事件との類似性からオウム真理教の関与が疑われるも犯人が逮捕され、無関係だったことが判明している。
九月。フランス、南太平洋での核実験を敢行。また、沖縄で米兵少女暴行事件が発生した。これらはいずれも戦後日本の反核、日米同盟の在り方という、大きなテーマを揺るがすものとだった。
当時を知る人たちは、おそらくはテレビの画面を通してであの燃える兵庫の街並みや、地下鉄の出口前の路上に倒れている無数の人々の姿を今も覚えているだろう。
そのためあの時代を振り返るときに我々は懐かしさと同時に、どこか冷たい後ろめたさのようなものを覚える。
こうした当時の社会をとり巻いていたひとつの空気は「失望感」だった。
この二年前の1993年の衆議院選挙ではじめて与党自民党は野党に転落し、自社さ連立政権が発足する。
バブルが崩壊し経済が衰退する中で、国民は自民党に代わる新たな政権に改革を託していた。
だが、そうした期待は長く続かず、阪神大震災とオウム事件の混乱の中で自社さ連立政権はわずか二年足らずで崩壊する。
こうなったとき、誰もが政治に、そして社会にも行き詰まりを感じたのは確かだろう。
新聞の紙面には政界の汚職、企業の倒産、さらに国際情勢の不安を伝える記事が連日のように並んだ。
さらに外交を取り巻く状況も少しずつ動乱の予兆を見せはじめる。
1998年8月には北朝鮮が日本海に向けて新型ミサイルテポドンを発射。
1999年3月。能登半島沖で北朝鮮によるものと思われる不審船の領海侵犯が起き、海上保安庁が追跡し、海上自衛隊がスクランブルする事態となる。
こうした時代の危機感ともいうべきものは、当時発達していたネットにも政治問題への関心を高まらせることとなる。
このため彼らネット壮士たちが警戒していたのは実は韓国ではなくて北朝鮮と、日本国内の朝鮮総連などの団体だった。
そして、ここからはじまる在日、韓国朝鮮人社会と朝鮮総連、北朝鮮への「疑惑の視線」がさらにそうした団体と連携している市民運動への批判へと拡大していく。
なぜなら、当時「左派系」とされる人々が熱心に取り組んでいた「戦後賠償運動」の本命こそ、実は北朝鮮との関係だったからである。
(続く)