インターネット政治運動の歴史3(北朝鮮と在日韓国、朝鮮人社会と)インターネット上の壮士たち―― | 十姉妹日和

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つれづれに書いた日記のようなものです。

2000年前当時のネットは、すでに2ちゃんねるが最大の掲示板として注目を集めていた頃だった。


「2ちゃんねる形式」の掲示板はそれ以前からもネットに存在していたが、とくにこの時期はネットユーザー全体が増加していたことに加えて、いくつかの事件でマスコミに2ちゃんねるが取り上げられたこともあって利用者の数も増加していた。

 

このため2ちゃんは「危険でアングラな場所で、ほとんどクソみたいな書き込みばかりだけど、ときどき役に立つもんや面白いものもある」という理解が次第に広まっていくようになる。


しかし、こうしてユーザーが増えたといってもまだ政治問題に関心のある層というのはほとんどいなかった。
まして、韓国の話題はときたま話題に上るくらいのものでしかなかった。

 

当時、朝鮮半島や国内の在日韓国、朝鮮人に関する話題が語られていたのは「ハングル板」という比較的に地味な場所だったが、内容としては北朝鮮や、朝鮮総連関係の話題の方がはるかに多かった。

 

この当時は彼らの成果として特筆すべきは今も残るサイト「ぢぢ様玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻」だろう。

 

 大日本史番外編朝鮮の巻
 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2463/

 

「ぢぢ様」とは2000年当時のハングル板にひょっこりと現れた固定ハンドルユーザーで、その豊富な知識と独特の語り口でハングル板住民の尊敬を集めた人物だった。


そんな彼が話したのは日本の戦後史。

戦前から敗戦、そして戦後にかけての在日朝鮮人の行動とそして彼らの母体となった朝鮮総連や、共産党との関係、さらには時代ごとの日本と韓国、北朝鮮との関係の変遷だった。

 

 ぢぢ様はいう。

 

 「すべては戦前のこと。遠い昔のことじゃよ」


 「忘れてはならないのは、日本は戦争に負けたのじゃ。だからそれを今更いったところで昔の話にしか過ぎん」


 「戦後の朝鮮人(鮮人)どもは色々と悪さもしおったから、ずいぶん恐れられ、嫌がられたもんじゃった」


 「じゃが、当時の朝鮮人がみな貧乏だったわけでもない。中には立派な職業についてそのまま日本人になった人もおった」


 「その一方で共産党にのめりこむ朝鮮人も大勢おってのう」

 

 こうした語り口で紡がれる当時の記録は、日本の戦後史の知られざる断面を照らすようであり、中身のある「濃い」書き込みを求めていたハングル板の住民たちからは熱烈に歓迎された。

 

 ぢぢ様の話は続く。
 戦後の韓国で大統領になった李承晩が朝鮮近くで漁をする日本の漁船を拿捕して返さなかったこと。
 こうしたことから、次第に日本に残っていた南北の朝鮮人が嫌われるようになってしまったこと。
 そのうちに朝鮮人社会の中からは北朝鮮に帰国させろ、という声が出てくる。それを日本人も歓迎し、帰国できるならいいじゃないかと、色々と奔走する人物もあらわれた。
 しかし、いざ帰ってみれば事前の評判とはあまりにも違っていたことがわかってしまい、最初に帰った人たちの他は結局ほとんどが日本に残ったこと……などなど。

 

 今でもときどきこうした話はネットで話題となることはあるが、当時の時代背景をきちんと把握している人はけして多くはない。

 それは当時も同じだった。
 それらをまるで見てきたように話しぢぢ様の話は、ハングル板のユーザーたちに大きな刺激を与えることになる。
 そうしてまとめたられたのがぢぢ様の話を「補足」した資料集であった。

 これは当時のハングル板の住民たちが議論のための資料として集めたものや、ぢぢ様の話をベースにデータなどを引用してきたものである。


 これによりハングル板ではこの時期、在日韓国、朝鮮人社会や北朝鮮、韓国への知識が豊富なユーザーが増えていくようになる。

 そうしてみると日本人は戦前、朝鮮半島に対して加害者だったということを強く教えられることはあっても、戦後史を見ればむしろ韓国が行っていた竹島周辺での拿捕や、日本国内の在日韓国、朝鮮人による暴動などで、ターゲットにされていたのはむしろ日本人の方だった、ということを教えられることがほとんどない。


 それに気づいてしまうと、彼らはぢぢ様のように「すべては遠い昔のことじゃよ」と思うことはできなかった。
 まして、それが今あらためて「戦後補償問題」として騒がれている時期ならばなお更にそうだろう。
 彼らは在日朝鮮人、韓国人社会へも批判の目を向けるようになり、当時とくに拉致問題を否定していた総連とそれを擁護する、左派系の人々(とくに社民党関係社に多かった)とあちこちの掲示板などに出向いては連日のように議論を盛んに行っていた。

 

 これが今にいたる「ネット右翼」、正確にいえばネット壮士たちのルーツにあたる集団といえるだろう。


 もっとも、こうした「若い」彼らの反応がぢぢ様の望みだったかといえば、おそらくそうではなかった。
 実はぢぢ様がハングル板に書き込みをしていたのは実はほんのわずかな期間であり、本人は何かの思想を主張するわけでもなく、ただひょっこりとあらわれて「当時はこういう背景があって、こういうやり取りがあった」ということを語っていくだけだった。
 さらにぢぢ様自身もハングル板で。

 

 「いまだに朝鮮、韓国人を見てチョンとか言っているのを聞くと、なんだか差別って消えていないのねと思います」

 

 と書き込んだ人に。

 

 「まったくもって、けしからんことぢゃの。 ぢぢが謝って気の済むことであれば、幾重にも謝ろう」

 

 と、返信するなど、少なくとも現在の朝鮮半島、あるいは在日韓国、朝鮮人の人々への差別意識などはあまりなかった人に思われる。

 

 これはぢぢ様に限ったことではないが、当時はまだ在特会のような極端な「在日出ていけ」のような主張はあまりなかったのだ。

 むしろ、彼らは数が少なかったがために、資料を自分たちで集めながら、それを検証、整理するという地道な作業をする人々が重宝された。


 とはいえ、こうしてネットで北朝鮮や在日韓国北朝鮮人社会に対する批判の動きが起きはじめたとは、当時の状況は彼らからすればほとんど最悪というほどひどかった。


 彼らが外部の掲示板で頻繁に議論をしていたのは主に拉致問題(当時は疑惑)に関するものが多かったが、在日北朝鮮人社会の中心的な存在である朝鮮総連は、拉致はまったくのでたらめであると主張しており、それに友好的な左派系の文化人や、政治家にもこれを擁護する意見が強かった。

 

 とくに北朝鮮と友好関係にあった社民党は拉致は「でっちあげだ」として、北朝鮮に対する悪いイメージが多いのはアメリカや韓国の策略であり、日本人にいまだに朝鮮人への蔑視が強いことが原因にあると主張するなど、拉致を「差別」の問題にすり替えようとするような意図なども見られるほど強烈だった。

 

 参考:http://nyt.trycomp.com/hokan/3denhideo9801.html

 

 この当時の社民党や左派系の文化人は徹底してこうした北朝鮮との友好姿勢を崩さず、2001年に起きた不審船事件(「九州南西海域工作船事件」)でも、当時の小泉内閣と海上保安庁の対応を強く批判している。

 

 ようするにいくらネットで批判をしたところで、現実社会では朝鮮総連やそれを擁護する文化人たちの勢力が強く、どうすることもできないような有様だったのだ。


 しかもこれは野党に限らず、自民党の中にも北朝鮮に友好的な議員は相当に多かった。
 このため、当時日本では北朝鮮や総連をめぐる大きな事件がいくつか発生していたものの、いずれも後味の悪い結果に終わっている。

 

 試しにひとつを挙げれば、朝銀信用組合の破綻と、その処理のための公的資金投入をめぐる問題がそうだろう。


 「朝銀」こと「在日本朝鮮信用組合協会」はもともと日本に居住する在日韓国、朝鮮人を顧客として運営されている信用機関であったが、その運営をめぐっては以前から不透明なところが多く、北朝鮮への送金や、一部が朝鮮総連の工作資金源に流用されているのではないかなどの疑惑があり、これを救済するために多額の公的資金の投入が行われると公表されてからは、ネットでも強い反発が起きていた。

 

 さらに当時はまた韓国系の民族金融機関である京都商銀、関西興銀の破綻処理でも、公的資金の投入があっただけに不満が高まっていた。


 こうなればネット壮士でなくとも。

 

 「日本人の金でなんで在日の金融機関の尻拭いまでしなきゃならないんだよ」

 

 という批判が出ないわけはない。
 ところが、最終的に1兆4000億円という巨額の公的資金が必要とされたこの債務処理は、その金額の大きさに反して案外すんなりと決まってしまう。


 これは政界の中によほど強い後押しでもなければありえないのは明白だった。
 そこで思い出されたのが1995年に行われた北朝鮮への米支援をめぐる出来事だ。


 当時、北朝鮮長引くは天候不順のため食糧難に陥っており、国交のなかった日本にも食料を支援して欲しいという要請を行ってきた。
 これを受けて当時の村山内閣は韓国の了解をとりつけた上で、食糧援助を行うことを決定する。

 当時の談話は以下のようなものだった。

 

 北朝鮮へのコメ支援に関する外務大臣談話

 

 平成7年6月30日

 

 1. 異常気象等により相当深刻な食糧難に陥っている北朝鮮の側からの要請を受けて、我が国としては、現時点における緊急輸入米の在庫状況に鑑み同輸入米を活用できる事情にあることに基づき、韓国の理解を得て人道的観点から本件支援を進めていくとの方針により対処してきた。今般、本件支援の内容につき、北朝鮮側との間で基本的に意見の一致をみたことは喜ばしい。

 

 2. 我が国が上述の方針により検討を進める間、北朝鮮は韓国に対してもコメの支援を要請するに至り、南北間で協議を行った結果、韓国から北朝鮮へのコメの供与が開始された。
 現在、船に掲げる旗に関連した問題のためコメの輸送に問題が生じているようであるが、速やかに南北間で右問題が解決され、円滑に韓国からのコメ支援が進められ、ひいては、
南北対話の促進に継がることを期待する。

 

 3. 北朝鮮が初めて食糧不足を率直に認めた上で国際社会の支援を求めたことは、北朝鮮の開放と国際社会への参加の第1歩となることが期待されるところ、右要請に応えないことは、北東アジアの平和と安定に逆行することになりかねない。

 

 4. 我が国は北朝鮮を国家として承認しておらず、また、北朝鮮に対する経済協力は、国交正常化交渉の妥結が前提となるとの政府の方針には変わりはないが、以上の事情を総合的に勘案し、我が国として、大局的見地から北朝鮮側の要請を受け入れ、あくまで特殊・例外的な措置として本件措置を執るものである。

 

 5. なお、本件支援は、人道上の観点から行うものであり、北朝鮮との国交正常化交渉の問題と直接関連するものではないと考えるが、本件コメ支援が同交渉をめぐる日朝間の雰囲気に好影響を与えることを期待する。

 

 http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dko_0630.html より

 

 この中で「北朝鮮との国交正常化交渉の問題と直接関連するものではないと考えるが、本件コメ支援が同交渉をめぐる日朝間の雰囲気に好影響を与えることを期待する。」との文言が含まれていることは、当時の日本政府の内部にも北朝鮮との国交回復を急ぐ動きがあったことをうかがわせる。

 

 1995年5月28日の毎日新聞朝刊はこの支援に対して「北朝鮮 人道的支援は当然だが…」という社説を掲載し、政治的な配慮の強いこのコメ支援に懐疑的な見方を示している。

 

 「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、日本の輸入余剰米の貸与を要請してきた。北朝鮮はまた、韓国からのコメ貸与も「検討したい」との意向も初めて明らかにした。
  
 (中略)

 

 しかし、今回の北朝鮮のコメ貸与要請については、気になる点がないわけではない。李会長は、コメの貸与要請が訪日の最大の目的であるにもかかわらず、大阪から入国し京都を経て東京に入った。


 この背後に日朝貿易に携わる業者や政治家の影が、ちらついてもいる。
 『人道的』という美名に隠れて、コメ支援が利権やいかがわしい政治目的に利用されてはならない。また、南北関係を緊張させる結果を招いても困る。
 さらに、李会長らの入国ビザは異例の速さで発給されている。このビザ発給には、自民党政治家の強い要請があったといわれる。日韓、日朝関係には通常の手続きを無視する行為や、政治関係者の利権疑惑がつきまとった。今回は大丈夫だろうか。」

 

 このように日本と北朝鮮との間に立って、その橋渡しをしている政治家や業者がいることは、当時すでにかなり確証を持って見られていた。
 それが朝銀問題で再び噴出したわけである。

 しかもこれを裏付けるように、朝鮮総連や朝銀のこのときの態度は、ネットからの批判などまるで意に介さないような強気な振舞いが目立つものだった。


 朝銀の破綻処理をめぐる朝銀東京信用組合への捜査では、組合の幹部四人が逮捕される事件にまで発展したが、これに関連して行われた家宅捜査の際には、数十人の在日韓国、朝鮮人が組合の建物の入り口付近に集まり、捜査員に罵声を浴びせかける姿が見られ、さらに北朝鮮と友好関係にある団体などからは次々と警察の捜査と日本政府への批判が相次いだ。

 

 とく社民党は、金子哲夫衆議院議員と渕上貞雄参議院議員の2人が朝鮮総連の人間6人と共に警察庁を訪問し「総連に対する強制捜査は不当な政治弾圧」という決議文を手渡すなどの激しい抗議を行っている。
 これらは北朝鮮と在日北朝鮮人社会とが日本の政治家と強く結びついているのを見せつけるものであり、ネット壮士たちは「圧力団体化した弱者の暴力」と「それを庇護する政治家」の癒着とに激しい憤りを感じるとともに日本国内で勢力を振るう在日韓国、朝鮮人社会へ強い嫌悪感を広める原因となったのは間違いないだろう。

 

 初期ネット壮士たちがこの点で、韓国や北朝鮮よりも、むしろ国内の左派系文化人や、在日、韓国朝鮮人社会をより強く敵視したのは不思議ではなかった。


 付け加えておけば、もうひとつの在日韓国、北朝鮮人社会を代表する組織である「民団」に対しても、彼らはまったくいい感情を持ってはいなかった。
 なぜなら彼らは「在日韓国、朝鮮人社会」というものを北朝鮮や韓国それぞれの本国と同一のものとしてではなく、この間にいる第三勢力に近いものと考えていたためである。


 これは「ぢぢ様」においてもすでに言及されているが、日本の在日韓国、朝鮮人社会の歴史は韓国、北朝鮮のいずれとも関わっていただけに、それを明確に分けることが不可能だろうというのがその理由だった。
 
 レコードチャイナが報じた「衰退する朝鮮総連、50万人から7万人に=北朝鮮関与の日本人拉致、世代交代重なり組織離れ進む」によれば。

 

 「総連は構成員数を明らかにしていないが、公安調査庁は今年2月、自民党の会合で総連の人数について「約7万人」と説明した。1960年代には韓国系の在日本大韓民国民団
(民団、旧在日本大韓民国居留民団)を大幅に上回る50万人を誇ったのに比べ、その減少ぶりは顕著だ。

 法務省の統計によると、昨年12月末現在の在日外国人中、「朝鮮籍」は33939人。朝鮮籍の全員が総連の構成員とは限らず、公安調査庁の見方をベースにすれば、構成員の半数以上が韓国籍あるいは日本国籍と推測され、「逃げ道」を用意しているようにも見える。」

 

 とある。

 

 http://www.recordchina.co.jp/a138402.html より

 

 こうしたことからも見えるように、総連の構成員は必ずしも朝鮮籍に限らず、その中には日本国籍や、韓国国籍を取得している在日韓国、朝鮮人も多数いると見られている。
 このため必然的に疑われるのは、国籍だけは変えていても、相変わらず北朝鮮のために活動している人や、裏では頻繁に交流しているのではないかという点だ。

 事実、在日朝鮮、韓国人社会はその複雑さから、過去には韓国と北朝鮮をめぐるいくつかの事件に大きく関与してきた。
 

 とくに韓国の朴正煕大統領の暗殺を狙った「文世光事件」では、主犯となった文世光が在日韓国人として在日本大韓民国民団に所属しながら、朝鮮総連幹部の金浩龍らと接触して
「北朝鮮の指定のもとで事件を起こした」とされたため、「共産主義にはまった在日韓国人の単独犯行」として事件の捜査に非協力的だった日本への批判が強まるとともに(これには金大中事件による両国関係の悪化が影響していたされる)、韓国での在日朝鮮人、韓国人社会への批判が一挙に強まる契機になったとされる。
 
 参考: http://japanese.joins.com/article/818/59818.html?sectcode=200&servcode=200


 「ぢぢ様」もまた当時の在日社会をめぐる事情について次のように述べている。

 

 「何度もお話したように、北鮮の実態がはじめの話の楽園とはだいぶんに違うようぢゃと仲間内での評判となってからは、実際に北鮮に渡ろう、帰国しようとするものはほとんどいなくなってしまったのぢゃが、まだまだ、社会主義建設中の祖国という夢は捨てきれんでの、南北が社会主義のもとに統一すれば、いずれは日本よりも豊かな社会ができるだろう、などと夢を先延ばしする鮮人も少なくはなかったのぢゃ。

 

 ぢゃがの、現実は厳しいものでの、永住権申請の期限が過ぎたころから、先に北鮮に渡った親族から、やれセイコーの時計を100個送れのペニシリンを1000個送れなどという
手紙が舞い込むようになったのぢゃよ。

 

 またの、大きな声ではいえんが、北鮮の対南工作員などもこれらの鮮人を頼ってというか、利用して浸透してきおったがの、ひとつには日ごろの主義主張から、もうひとつには人質同様の親族が北鮮におることから、なかなか断れんことであったのぢゃろう。

 なに、今でもそうぢゃが、日本にはスパイ防止法などないでの、本物の工作員が捕まっても大した罪にはならず、ちょいと服役した後に北鮮に送還されるだけのことぢゃて、スパイ天国と言われておったくらいでの。協力したとて大したこともなかったのぢゃよ

 

 (中略)

 

 さて、一方の韓国政府といえばな、朴正煕という大統領が開発独裁というやつで、経済的には高度成長を促進しながら、政治的には反政府活動をゆるさぬということで左翼はもちろんのこと、日本の普通の人々からも、ちとやりすぎでは、と見られておったのぢゃ。

 そこへ、当時は野党の頭目で、韓国におられんで、日本や米国で活動していた金大中氏、なんと今では大統領ぢゃよ、が東京で韓国の工作員に拉致されるという事件が起きての、日本国中、右翼から左派まで韓国非難で轟々という大騒ぎとなった。ちょうど、石油ショックの年のことぢゃったかの。

 なにより怒ったのは日本の警察ぢゃったな。ひとの国で断りもなく勝手なまねをしおったとな。

 ここで、あれこれと紆余曲折があったのぢゃが、1年後の8月15日、韓国では光復節と呼ぶようじゃが、終戦記念日に韓国大統領の狙撃事件が起きての、大統領夫人が亡くなる大事になったのぢゃ。

 

 この犯人が、韓国籍ながら在日の鮮人での、今度は韓国が日本の責任ぢゃと声をそろえて非難をはじめおった。

  真実がどうであったのかは、藪の中ぢゃろが、韓国政府はこの犯人の裏に総連と北鮮がおると断固主張しての、日本は総連や北鮮の工作員を取り締まることを約束させられたのぢゃ。

 そんなわけでの、この後しばらく、北鮮支持の鮮人どもで、日本の警察から北鮮の工作やら諜報活動に関与しておるのではないかと疑われたものは、韓国籍の者も含めて、外国人登録証の不携帯などの微罪でも、交番に呼び込まれたり、さらに疑わしいとなると警察につかまるようになったのぢゃ。

  実際に、この50年の間に表ざたになった北鮮工作員の事件は50件少々ほどなのぢゃが、このあとの5~6年、昭和56年までの事件が十数件と平均の倍以上の割合になっておるの。」

 

 北 鮮 の 工 作 員 と 大 統 領 狙 撃 事 件
 http://nikujiru.tripod.com/tuduki2.htm#kousakuin/index.html より

 

 在日韓国、朝鮮人社会の人々にとって不幸といえる部分もあるが、ネット壮士たちの間で「在日」が、南北どちらでもなく、ひとつの集団として批判されるようになったのはこうした過去の経緯を踏まえてのものだった。


 これは韓国においても現在にいたるまでいまだに根強い「在日」差別が残るとされていることとも繋がっていると見られる。


 2016年に発生したロッテ事件について、こうした在日への差別感情が見られたと産経新聞の黒田勝弘氏は「在日韓国人を差別する韓国」という記事で次のように述べている。

 

 「ところが韓国マスコミの激しいロッテたたきには、他の財閥批判と違ってロッテの背景にある在日韓国人つまり「日本」という要素に対するイジメに似た異様な雰囲気がうかがわれる。

 創業者の夫人は日本人だから後継者の母は日本人となり、長男は日本語しかしゃべらず、次男の妻は日本人。業績は韓国側が圧倒的だが資本所有では日本側に比重がある…。そこでマスコミは長男には「なぜ韓国語ができないのか?」と非難し、次男には「ロッテは日本企業か韓国企業か?」などと詰問する。

 

 国際化をかけ声に世界に羽ばたく世界十何位かの経済強国などと自慢しながら、『日本』がからむととたんに国際感覚などどこへやら。“田舎民族主義”丸出しになる。

 

 韓国で企業経営をしている在日韓国人が電話してきて『困ったときに世話になりながらあの異様なロッテ非難は恩知らずもいいところ。在日同胞の母国への経済的貢献ということでは、韓国より北朝鮮の方が礼を尽くしてくれているのではないか』と皮肉っていた。」

 

 http://www.sankei.com/world/news/150808/wor1508080016-n3.html より

 

 この最後に述べられている在日韓国人の企業経営者の「在日同胞の母国への経済的貢献ということでは、韓国より北朝鮮の方が礼を尽くしてくれているのではないか」という言葉は必ずしも単なる皮肉とはいえない。
 韓国の在日社会への態度にはかなり冷淡なところがあったのに比べ、北朝鮮は長年在日社会に向けて「在日同胞」として、好意的に接してきた側面があった。
 つまり二つの祖国を持つことの複雑さと同時に、日本の政治家と結びついて影響力を獲得している狡猾な集団。
 こうした理解が後の韓国批判、左派批判、マスコミ批判と並ぶ、もうひとつの在日韓国、朝鮮人社会批判、というネット壮士の柱を形成していったのは間違いないだろう。

 

 

 (続く)