インターネット政治運動の歴史9 元祖世界史コンテンツ ――または「学問のすすめのすすめ」―― | 十姉妹日和

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つれづれに書いた日記のようなものです。

 「元祖世界史コンテンツ」は、ネット壮士たちばかりではなく2000年代前半のネットから出たサイトの中でも非常に斬新なものだったといえる。
 しかし、その内容は主にアニメや漫画の好きなネットユーザー層に向けて作成されていたために、読み手を選ぶサイトだったこともまた確かだろう。

 

 ※以下出典等はすべて元祖世界史コンテンツ 一時間目 世界史を学ぶ意味
   http://iroiro.alualu.jp/sekaisi/tessa/Sekaisi01.html より

 

 当時のネットにはある独特の雰囲気があった。

 「元祖世界史コンテンツ」の作者であるテッタ総統が、なぜかナチスドイツのパロディを好んでやっているのには「冗談の通じない人は来ないでください」という意味合いがあったというが、同時にこのくらい毒がある方がネットでは返って好まれるのも確かであり、2ちゃんねるの軍事板や、ミリタリー関係の話題では、よくドイツやイタリアの軍隊にまつわるネタがよく語られていた。

 

 その中でもイタリア軍に関する数々の面白ネタはもちろん多少の誇張もあるが、広く愛されるようになり、後に人気漫画『ヘタリア』にも多くが取り入れられている。


 一方、ナチスドイツ関連の話題については、撃墜王として知られるルーデルの逸話などが多かったが、そうした軍の話はともかくとしてテッタ総統自身はヒトラーを

 

 「総統になるまではともかく後半はダメダメ」、「ヒトラーを熱狂的に迎えたドイツ国民もバカ」

 

 と、かなり批判的に述べているように、ナチスを賛美する立場ではなく、あくまでもヒトラーの台頭を歴史上の「失敗」の一例としてしか評価していなかった。
 そのためヒトラーの指導者としての能力についても。

 

 「ドイツ戦車を、ニュータイプ搭乗の白いモビルスーツか何かと勘違いしていたヒトラー総統とは大違いです。あの無能のチョビ髭は、ラーメン屋なのにカレー屋と言い張る頑固親父並に頑固で、柔軟な発想は皆無ですから。」

 

 と言い切っている。
 つまり、この「元祖世界史コンテンツ」が主張していたのは、そもそもナチスがどうということではなかったのである。


 むしろ大切なのは以下の点であった。

 

 ・歴史は基本的に勝者の視点で語られるもの。
 ・そのため過去の歴史を検証するようなことを禁じているのは勝者側の都合に過ぎない。

 

 これはかなり一面的な断定といえるが、ネットの議論や個人ユーザーの主張など、何も学術研究をしているわけではないのだし、むしろ誰にでも開かれた空間だからこそ、誰もが自由に論評し、批評し合えるところにこそ面白味がある、という作者の主張がよく表れているともいえる。

 

 確かにネット上では変にタブーを作るようなことはせずに好き勝手に論じた方が面白いわけであり、どこの誰が書いたかもわからないものにいちいち目くじらを立てるのなら、作者のいうように、そんなものは見に来なければいいだけの話であった。


 そうした意味でも、これはまだほとんど匿名が中心だった時代のネットの利点を最大限に活かした作品といえる。

 「不特定多数の良識ある読者」にではなく、「同じようなテーマに関心を持つ仲間」を相手にしていたところにこのサイトの強みがあったのである。

 

 これはネットユーザーたちの「何であれ面白ければそれでいい」という本質的な考えとも概ね一致したものであった。

 

 こうしてテッタ総統がネットの読者に向けて何を訴えたかったのかを見ていくと、そこにはネット壮士たちがこのサイトに共感した理由も次第にはっきりとしてくる。
 まず「元祖世界史コンテンツ」で述べられている趣旨をまとめると、それは概ね次のようになる。

 

 ・人類は有史以来戦争を繰り返しているバカな生き物である
 ・それぞれに正義を主張し合っている姿は「本家と元祖で争うラーメン屋」のようなもので結論など出るはずもない
 ・世界史を学ぶのは現代の世界情勢を知るためが本来の目的
 ・「あらゆる歴史は現代史である」(イタリアの思想家クローチェの言葉と思われる)
 ・けれど、日本ではなぜか現代史をまるでやろうとはしていない
 ・大体どこの国も歴史なんて他国の悪口ばっかり書いてあるようなものだ

 

 このように並べると非常に主張そのものは単純であることに驚かされる。
 おそらくこれだけわかりやすく自分の言いたいことをいったサイトは当時でもほとんどなかったろう。
 けれども、これらの主張は単純であるからといって、けしていい加減なものでないことは、現在の世界情勢を見ても考えさせられるものがあるのではないだろうか。

 

 ロシアとウクライナは依然としてクリミア半島でにらみ合っており、中国は日本の尖閣諸島を自国の領土だと主張して憚らない。
 さらに中東ではいまだにサウジアラビアやイラン、イスラエルなどの国々は緊張状態にあり、シリアでは激しい内戦が続いている。
 

 こうした国際関係の複雑さはそこから一歩進めてみれば、みな「歴史」へと結びついていく。
 

 そもそもなぜ中東には独裁政権が多いのか。また、現在のユダヤ人とはどのような人々で、どうして彼らが現在の土地イスラエルに自分たちの国を建国するようになったのか。
 クリミア半島へのロシアの介入の意図と、それを指導するプーチン大統領の強大な権力を支持するロシアの国民性はどのように形成されたのか。
 
 普段、こうした世界情勢の背景にまで関心を向けようとする人は必ずしも多くないだろう。
 だが、近代史を把握できないことは、国際情勢をまったく把握できないことと同じであり、このために我々は歴史を学ぶ必要がある。


 しかしそれは趣味のような学問とは違う「実学」でなくてはならない。
 この実学とはつまり実際に外交や国防を考える上で役立つ知識、という意味になる。
 
 しかし、そうはいってもこうした「硬い話題」はどうしても難しくなり、つまらないと思われてしまうことが多い。


 こうしたつまらない話をなかなか人は聞こうとしないが、それでも歴史を学ぶ面白さや、大切さをなんとか知ってほしい。そうした動機から生まれたのがこの「元祖世界史コンテンツ」だというわけである。

 

 では、世界史コンテンツの主張が現実と照らし合わせたときにどれだけの妥当性を持ち、具体的にどのような意識を持つべきだと説いているのかを、ここからは順番に見ていこう。
 まず。

 

 ・人類は有史以来戦争を繰り返しているバカな生き物である

 

 という言葉は「戦争とは必ずしも過去のものではなく、現在も各地で起こっているものであり、また今後も起こり得るもの」という認識に立つ必要がある、ということをいっているのに他ならないだろう。
 そしてこうした認識を持つ以上「戦争とは過去のものである」という価値観は常にあらためていく必要がある。

 

 この主張こそが世界史コンテンツの核心であり、また当時の多くのネット壮士たちがそれに共感した理由だった。
 ネット壮士たちの国防意識の高まりには間違いなく「北朝鮮による拉致の発覚」や「不審船事件」といった外的な要素が大きかった。
 彼らはこうした出来事を「日本に差し迫った脅威」と見ていた。

 だが世間では、これを国家の主権に対する「攻撃」ととらえた人はまだ少なかったわけである。
 それは拉致問題発覚後の左派系文化人たちの言動にも表れていたように、あくまでも「拉致」は過去のことであるし、不審船も今更それを取り上げて騒ぐことはいたずらに東アジアの緊張を煽ると主張する人々が多いのは事実だった。

 

 しかし、ここにこそ「どんな事件が起きても日本が戦争に巻き込まれることはないだろう」という油断が潜んでいるのではないだろうか。
 だとすれば、それは単なる思い込みでしかなく、今の平和も世界情勢が変わればたちどころに崩れてしまう儚いものでしかないのだ。


 「我々はこの国に生きている限り、まず自分たちの国を守るというところからはじめなければならない」ということは、おそらく国というものが続く限り考え続けていかなければならない宿命だろう。
 
 ならばどのようにして日本はこれからも「独立」を守るか。
 また、いかにしてこれらの国際情勢の中を生き抜いていくのか。


 世界史コンテンツの「現代史を知る必要」とはそれを考える上でのヒントを歴史の中に求めようということにあった。


 そのためにはまず日本の置かれている状況を冷静に分析する必要がある。
 ここから軍事の問題へと話が進んでいく。

 

 「日本には余所を攻めるような軍事力はありませんよ。1980年代初頭の自衛隊の戦力は15万人。弾も燃料も三日で切れる。核兵器すらも持ってない。
 核を作る技術は確かにありますが、それを飛ばすミサイル技術、とりわけミサイル弾頭コントロールのPCソフトがないんですよ。
 ペンタゴンあたりがそのソフトを貸してくれれば話は別ですが、残念ながら核実験のデータは国家機密となっています。
 当然ですね。
 つまり、核ミサイルを撃つことは可能ですが、それが命中するかどうかは別問題ということです。
 あとでも言いますが、自衛隊の予算の7割以上の使い道は人件費ですから、徴兵制を復活させないと余所を攻めるどころか、自力での祖国防衛は100%無理です。
 米軍がいなければ3日も持ちませんよ、日本は。
 たとえ予算が10倍になろうと徴兵制を復活させない限り、まったく無意味です。
 というわけで日本がそれなりに頑張ってくれるくらいの戦力を持ってくれないとアメリカだって困ってしまうんです。
 在日米軍の戦力だけで日本全土を守るのは苦しいですから。
 もっとも、戦争になって一番困るのは日本ですけどね」

 

 「アメリカと手を組むことが大切といっているのは簡単な理由です。
 世界の大国を見回してもアメリカが一番マシだからです。
 ロシアや中国に世界のリードを渡したら虐殺が始まることはさきほど言ったとおりですし、イギリスやフランスがトップになってもアメリカとあんまり変わらない。
 イラクがトップになったら植民地にされてしまうでしょう、クウェートみたいに。
 と言ってもイラクはあんまり関係ないですね。遠いから」

 

 当時は2001年のアメリカ同時多発テロ以降、小泉政権は「テロとの戦い」を掲げ、積極的にイラクでもアメリカと共同歩調をとっていた時期である。

 このため国内では小泉政権の姿勢を「米国追従」として批判する論調が多かった。


 しかしこうした政府の姿勢を多くのネット壮士たちが支持「せざるを得なかった」のも、結局のところは日本単独での国防力の圧倒的に不足しているところに最大の理由がある。


 つまり一方では日米同盟に依存する国防体制が問題にしながら、肝心の国防というテーマは国民の関心事にまったくなっていないのである。

 アメリカとの同盟関係がなければ、日本のように中国とロシアという二つの大国に隣接する国が生き残ることは難しいだろう。


 仮に彼らに服従するにせよ、それは現在のような民主主義制度や、国家の安定を望むことはできないだろう。

 それならば現状ではアメリカとの同盟関係を強化していくことは、まず第一の課題としなければならない日本にとっての宿命となる。


 こうした考えに基づいた「日米同盟の強化と、一方でそれに依存せず、日本もまた独自の軍備を増強する」というこの方針はネット壮士たちの主張にほとんど共通のものとなったのは偶然ではない。

 それが現状一番現実的だったからである。

 

 このように国防議論を盛んに行っていたことが、彼らを「右翼」と批判せしめた最大の理由だろう。


 確かにそれは基本的にどんな相手とでも「対話」と「交渉」によって争い事を回避できると主張する人々とは根本的に相いれないものだったに違いない。

 

 だがまた、それは同時に日米同盟に比重を置き、単独での国防が到底不可能だというこの思考は「右翼」や「保守派」の一部にみられるような、アメリカに頼らない「自主防衛」を主張する人々ともいずれ相容れなくなっていく。

 

 当時比較的にネット壮士と考え方の近いと見られていた「ゴーマニズム宣言」で知られる小林よしのり氏がネットで支持を失っていったのも、やはりこうした意見の相違が大きかったようだ。

 

 ネット壮士たちにすれば「アメリカに頼らずに日本は日本人の手で守るべき」という氏の考えは今の日本の現状を見れば単なる精神論に過ぎないものであり、小林氏もまた彼らの思想を「親米ポチ」(アメリカの犬)などと批判したことから、次第に両社の溝は深まるようになっていった。

 

 このためネット壮士たちは左派からは「ナショナリズムの権化」のように見られ、民族主義者からは「アメリカに追従するエセ保守主義」と罵られなければならない運命にあった。
 けれども、彼らの多くはあくまでも自分たちの考えを曲げることはなく、この路線を変えようとはしなかった。

 

 左派にせよ、右派にせよ、いくら日本が特別な国であるといったところで(この点で両者の主張は実はまったく共通しているのだが)、結局今の日本は自国だけの力で国防さえ満足にできないのが現実であり、考えるべきはこうした状況の中で日本がどのようにして生き残っていく(独立を維持していく)かということにのみある。


 この点では左派の平和主義がネット上で「お花畑」と揶揄されたのと同様に、過度に自国の国力を見積もることも危険だとよく知っていた。


 これは「元祖世界史コンテンツ」の。

 

 ・それぞれに正義を主張し合っている姿は「本家と元祖で争うラーメン屋」のようなもの

 

 という考えがすでに「どこまでいっても異なる認識、価値観を持つ国同士の正義が相容れることはない」という相対主義に立ったものであることからもその親和性が明らかであろう。

 

 この意味で、元祖世界史コンテンツはけして「保守」的なものではなかった。
 むしろ、日本の価値観、歴史観というものもけして過去から受け継がれてきた伝統的なものなどではなく、それぞれの時代の変化をたえず受け入れてきたものであって、国というものの中に、永遠に変わらない普遍性というものがあるという姿勢には懐疑的でさえあった。

 

 しかし、実はこの「伝統」を普遍と見ないところにこそ、元祖世界史コンテンツのもうひとつの大きなテーマが含まれている。

 それはこの中で一貫して「日本の歴史上で最も偉大な人物」として紹介されているのが福沢諭吉だということである。

 テッタ総統はまた明治天皇も近代史の有能な指導者の一人に数えているが、ここで時代の象徴、指導者としての明治天皇と、時代の論理的指導者であった福沢の名を並べているのはけして偶然ではないだろう。
 確かに明治という時代は「富国強兵」などの言葉のイメージから、今となっては保守的なイメージが強いが、実際には明治ほど日本史の中でも古い価値観が破壊された時代はなかった。


 ネット壮士たちが「自分たちの頼るべき先達」として明治の論理的指導者としての福澤を見出した意味は、単に彼が朝鮮や中国を批判していたという以上に大きいものがある。

 

 それは「日本の誇り」などという感傷的なものではけしてなく、むしろこれまでの伝統をかなぐり捨ててでも西洋文明を受容し、近代化を成し遂げた意味。

 「そうしなければ日本が生き残る道はない」という福沢の思想が現代においてもなお大きな意味があると感じたためだからであった。

 

 ――続く