そもそも日韓の間にある歴史認識の違いとは何か。
それを把握するために簡単に韓国の近代史をまとめると、次のようになる。
李氏朝鮮(清朝に従属) → 大韓帝国(日清戦争の結果清から独立) → 日韓併合(日本の一部) → 米軍統治期間(日本敗戦) → 大韓民国として独立
このため現在の韓国の建国は本来であれば「米国から独立した1948年の8月15日」となる。
ところが韓国ではその起源をさらにそれ以前に遡り、日本統治時代の独立運動にはじまるという主張が強い。
韓国人ブロガーのシンシアリー氏もかつて詳しくこの問題をとりあげていたが、それによれば1948年7月12日に制定された大韓民国憲法の前文には。
「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は己未三一運動で大韓民国を建立し、世界に宣布した偉大な独立精神を継承し、今や民主独立国家を再建するに当たり・・・・・・」
とあり、韓国の建国は「己未三一運動」。
つまり、1919年3月1日に起きた「3・1独立運動」によってはじまるとされているのである。
参照:大韓民国憲法・前文 http://ameblo.jp/sincerelee/entry-11350561128.html シンシアリー氏の記事より
これは戦後アメリカによって独立「させてもらった」のではなく、あくまでも「日本との独立戦争を戦い、その末に独立を勝ち取った」という史観を彼らが持っていたためであろう。
そのため韓国ではこの「独立運動家の功績」というがたびたび強調されるが、これは現在の韓国の「ルーツ」となっているのが、独立運動の中核にいた「とされる」上海(大韓民国)臨時政府のためである。
だがこの上海臨時政府は「政府」といっても、そもそも国際的に亡命政府として認められていたというほどのものではなかった。
現在でも韓国では上海臨時政府が当時日本に「宣戦布告」していたという言説がしばしばみられるが、実際には日本どころか資金援助を受けていた連合国側にも対外政府としての承認さえ受けられてはおらず、韓国は「戦勝国」側にいたいという、半ば願望の強いものと思っていいだろう。
そもそも当時の独立運動は各地で複数の集団によって行われており、統一的な運動ではなく、臨時政府の内部でも路線の方針をめぐる対立もあれば、たびたび資金繰りにも困るような有様であったことがコリアンウォッチャーたちが見つけた資料によって判明している。
しかもその資料というのが。
「神戸又新日報 1924/7/27 怪鮮人の行動/大阪の同志等と結んで上海仮政府の密偵及主義宣伝/旅費調達に裸体写真を」
というものであったために「臨時政府とかいうエロ本売り」として、ハングル板などではしばしばネタにされる有様であった。
このように上海臨時政府はあくまでも当時は連合国に近い一集団でしかなかったが、戦後アメリカ統治の中で、連合国とのパイプがあり、またそれなりに知られた人物も多かったことから、大韓民国の建国に様々な形で関与することになっていった。
言い換えれば、まったく「棚からぼた餅」の諺そのままに韓国のルーツとなったわけである。
しかし、さすがにこれではあまりにも格好がつかず、さらに北朝鮮との「正統性」をめぐる議論もあったため(臨時政府のメンバーの中にはその後北朝鮮に渡ったものも多かった)、日本統治時代の抗日運動の成果を強調する必要が出てきたのであった。
以来、韓国ではこうした独立運動家たちによる抵抗運動こそが韓国を独立に導いたとされる史観が流布し、独立運動家たちは「義士」と呼ばれ、韓国の英雄とされていったという。
こうした韓国の歴史観を、おそらくほとんどの日本人は知ることもないだろう。
しかし、さすがに日本政府はこうした背景を知りながらも、外交上韓国の歴史観にも一定の理解を示してきた。
そのため2001年に小泉総理が韓国を訪問した際にはソウルの西大門独立公園にある独立運動で犠牲になった闘士たちを追悼する碑に総理自らが献花するなど、韓国側にも相当の配慮を見せている。
いうなればこれは良好な外交関係を保つための日本なりの気遣いだったわけである。
しかし、ネット壮士たちはもちろんそんなことはお構いなしに、韓国のこうした抗日史観の矛盾を次々と暴いていくことを愉しんでいた。
韓国ユーザーにすれば、こうした韓国の英雄たちの「功績」をめぐる議論で日本側に負けることは抗日史観を否定されることであり、どうしても負けを認めることができない。
しかし、相手が本気であればそれだけ議論も面白くなっていいという、非常に厄介な性質を持っていたのが当時のエンリコの論客たちであった。
当然、連日のように議論が行われたが、資料を次々と探してくる日本側論客陣の前に、韓国は常に劣勢に立たされることとなる。
こうした中で韓国人ユーザーたちはこれを覆すべく、起死回生のための議論のテーマを用意した。
これこそが挑戦独立運動における韓国最大の戦果とされる「青山里大捷」であった。
「青山里大捷」とは、日本では「青山里戦闘」や「間島出兵」などと呼ばれ、あまり聞きなれない事件だが、韓国の独立運動では朝鮮の独立軍が日本軍を相手に多大な戦果をあげた
極めて重要な戦いと位置づけられており、このとき独立軍を指揮していた金佐鎮は韓国の教科書にも載っており、敬意を込めて「金佐鎮将軍」などと呼ばれ、近年では韓国軍の潜水艦にもその名がつけられている。
つまりこれだけ有名な事件ならば議論をしても負けるわけがない。
しかも、この青山里大捷にはその根拠となる韓国の大学教授の論文や、独立運動家による記録も存在しているため、十分に日本側を資料でやり込めることができると思われたのである。
このときの議論と検証作業の流れは、当時エンリコで議論に参戦していたkimura_nobuo氏のサイトに詳しいが、ここではその経緯を簡単に見ておこう。
参考:http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/index.html
韓国側はまず抗日運動に詳しいシン・ヨンハ教授が執筆した論文を提示した上で、青山里大捷に日本軍は大敗し、それが後々の抗日運動にまで影響を与えることとなったという主張を展開。
これに対して日本側ユーザーは防衛大学の佐々木春隆教授による「韓国独立運動史上の『青山里大戦』考」を見つけ出し、反論を行う形で論戦が進められた。
このときNAVER論客陣によって使用された佐々木春隆教授の「韓国独立運動史上の『青山里大戦』考」によれば、議論の対象となった「青山里大戦」は次のようなものだったという。
「しかして群書の抗日武装闘争史を見て目につく一つに、空前絶後の壮挙と特筆されている『青山里大戦』がある。韓国系の書が詳述しているが、それは初代国務総理兼国防部長官に就任した李範ソク(リ・ハンセキ)将軍が主役の一人であったこともその理由であろう。
(中略)
その経緯を概説すれば、日本のシベリア出兵(1918年夏~22年秋)の間に、万歳騒擾事件(1919年の3・1独立運動)が起こった。
これを契機として武力解放を企図した独立運動の志士たちは、東満州を根拠にして活動を開始した。その団体数は二十六個に及び、兵員総数は三千人に達した、といわれる。
(中略)
間島とは、豆満江北岸の中国領・東寧・琿春・汪清・延吉・和龍五県の総称で、当時は韓国人二十二万三千人がその人口の八割を占めていた」
3・1独立運動は先ほども触れたように韓国憲法では建国の根拠ともされるもので、第一次世界大戦の終結とともに高まった「民族自決」の波が朝鮮に押し寄せたために発生した大規模な独立運動であった。
これは一名を「万歳騒擾」や「万歳事件」ともいわれ、これは運動の参加者たちが「独立万歳」を叫んで全国に拡大していったためという。
しかし、当初平和的だった運動も広まりと共に次第に暴徒化していくようになり、やがて村役場や小学校等が襲われ、参加者たちによる略奪なども発生したことから、日本軍によって鎮圧されることとなる。
この混乱に乗じて発生した独立運動家たちによる武力蜂起によって、満州の間島では、琿春にあった日本領事分館が焼かれ、警部二人を含む日本人数十人が殺傷されるなどの事件が発生する。
このため日本軍は「暴徒」鎮圧のため間島への出兵を決定する。
当時の日本、独立軍の兵力に関しては「勝利した」とする韓国側の記録でも非常にばらけており、佐々木論文によれば主な資料を見ても。
「朴殷植『韓国独立運動の血史』」1920年
日本軍の兵力:茂山(満州の地域)を中心とした三個大隊(約2500人))
独立軍の兵力:470人余り
戦闘の行われた時期:1919年 10月20日~22日
戦闘の主役:金佐鎮(李範ソク)
日本軍の損害:加納連隊長以下900余~1600人余
独立軍の損害:軽傷5人
「韓国中央選管委『政党史』」1964年
日本軍の兵力:およそ数万人
独立軍の兵力:2500人
戦闘の行われた時期:1919年 9月10日
戦闘の主役:李範ソク
日本軍の損害:1000余人
「国防戦史編纂委『韓国戦争史』1967年
日本軍の兵力:第十九、二十一師団(およそ数万人規模)
戦闘の行われた時期:1919年 10月
戦闘の主役:李範ソク
日本軍の損害:死傷3300人
独立軍の損害:110人
「趙芝薫『韓国民族運動史』」 1975
日本軍の兵力:およそ五万人
独立軍の兵力:2500人
戦闘の行われた時期:1919年 9月10~13日
戦闘の主役:金佐鎮、李範ソク
日本軍の損害:加納連隊長以下3300人
独立軍の損害:110人
(以上、佐々木春隆「韓国独立運動史上の『青山里大戦』考」より)
となっている。
素人目にもあまりにも数字が統一されていないのがわかるが、その理由について佐々木氏は。
「『青山里大捷』が独立武装闘争のシンボルになっているためと、経年による美化作用及び金日成パルチザンに対抗する意味合いもあって、かつは韓国民の士気高揚のために、このように変化したのであろう」
と、分析している。
また戦闘の主役が金佐鎮から、李範ソクに変わって記録されたのも、本人が帰国した後の影響もあったのではないかという(金佐鎮は1930年に共産勢力に所属していた元部下に銃撃され死亡している)。
このように韓国側の記録が誇張されていると考えられる以上、今度は日本側に残された記録と照合する必要が出てくるのだが、日本ではすでに青山里大戦に関する資料の多くは散逸しており、わずかに手がかりとなりそうなものとして佐々木氏は。
「日本軍の損害は人の戦死8、負傷20、馬の死傷は10となる」
という数字を資料の検証から導き出している。
さらに韓国側の記録にある日本軍の指揮官について。
「この加納連隊長とは、騎兵隊第二七連隊の第二連隊隊長・加納信暉(てる)大佐であろう。 萠黄会刊『日本騎兵史・下巻』668頁に同連隊の戦歴が記録されているが、本稿関係では『大正九年間島事件が起こるや、連隊主力をもって龍井村に出動し約三ヶ月にわたり附近の掃討に従事した。連隊長は加納信暉大佐であった』とある。だが、これだけで特別な記事はない。
また同書附表六の『戦没騎兵将校芳名』には、間島事件で戦死した将校は見当たらない」
と、述べている。
ここから日本側の論客たちは「戦闘の規模から算出しても日本側にこんなに多数の死者が出るわけがない」と佐々木論文をもとに主張。
韓国側も数による分析では日本側の主張に理があることを認めた。
これで議論も決着かと思われたが、今度は韓国側のユーザーから韓国にある「金佐鎮記念事業会」のホームページから「青山里大捷で撤退する日本軍」とキャプションが付けられた写真が提示され、日本軍の被害規模について再度反論が開始された。
しかしこの写真は日本側の検証により、装備などから見ても当時の日本軍のものではなく、少なくとも1938年以降のものであると指摘され、さらに1904年~1938年までに戦没した騎兵将校(士官学校出身者)の名簿を調べても、加納大佐の名前は1920年の戦死者に該当するものが見つからなかったことが判明する。
ここにいたって韓国側の主張する「加納連隊長以下の死傷者」という記述はあまり信用できないものであることが証明されることとなった。
この時点で韓国側の主張がほぼ崩れたため、日本側が一気に攻勢に出る。
まずアジア歴史資料センターから。
応急準備用兵器使用の件(密大日記 大正08年 4冊の内 3)
応急準備計画延期の件(密大日記 大正09年 5冊の内 1)
応急準備用兵器貯蔵区分の件(大正10年 「軍事機密大日記 4/5」)
間島及琿春方面警察力増加に関する件(密大日記 大正09年 5冊の内 1)
間島方面不逞鮮人検挙に関する件(密大日記 大正09年 5冊の内 2)
などの記録を発見し、武器の使用規模や、当時の警備規模を算出した上で、間島に出兵した日本軍の規模はやはり韓国側の主張よりもはるかに小さかったはずだと反論。
これにより独立軍の「大規模な勝利」を主張することは無理だと韓国側も諦めることとなる。
そこで、せめてこの戦闘が後の独立運動に影響を与えたという主張だけは堅持しようとし、さらに追加資料を出すと約束したが、結局日本側の根拠を覆すほどのものを提示することはできなかった。
ここにいたって韓国側も議論の全面的な敗北を認めざるを得なくなったのである。
これが「青山里大捷をめぐる議論」の大よそのあらましであった。
なお、後にさらに追い打ちをかけるように韓国側の主張を覆す証拠が次々とエンリコの論客陣によって発見されている。
まず、佐々木論文にある加納連隊長こと、加納信暉大佐と思われる人物に関するその後の行動の記録が発見された。
本文:秘間情第69号 大正9年11月31日
在間島日本総領事館
二 不逞鮮人 金剛逮捕
11月13日延吉県大平溝竜浦洞付近に於いて加納騎兵連隊の手に捕らえたる金剛(本名宋在吉号武山)は、従来国民会警護部長として横暴を逞ふしたる有力な不逞鮮人なり
<みすず書房 現代史資料28 P412> より
参考: http://www.geocities.jp/nobuo_shoudoshima/jpn1_rok0-6.html
大正9年11月31日。これはいずれの韓国、日本側の資料と照らし合わせても、青山里戦闘からさらに後の出来事であるのは明白だった。
これにより韓国側の根拠としていた資料では戦死、または重傷を負っていたとされた加納連隊長が生きて職務を遂行していたことが判明し、独立運動に関する記述の一部には相当の「創作」が含まれていると確定したのである。
さらに韓国側には不幸な発見は続く。
この戦いで独立軍を指揮していた金佐鎮(将軍)が、独立運動をあきらめ「部下たちとともに農民になりたいので援助をしてもらえないか」と、満州のハルピン総領事に願い出たことに対する返信と思しき文書がアジア歴史資料センターで発見されたのだ。
「4.独立国首領金佐鎮等救済方ノ件 自大正十二年三月
四 大正十二年三月 独立国首領金佐鎮等救済方ノ件 綴込名施役 主・亜 哈爾賓@@省着
大正十二年三月十八日前十時
内田外務大臣 山田総領事
第八八号 鮮人独立国首領金佐鎮キンサチン(大韓独立国総司令官)金奎植キンケイショク(大韓革命(脱))六百名ヲ共ニ昨年末来管内東寧寧安密山地方ニ遁入鮮人農家ニ
分散寄食シ善後策ヲ講ジ居ルコトハ屡次報告ノ通ナル処 其後彼等ハ武器、資金ニ欠乏セルト海林鮮人会長ニシテ@@彼等間ニ重キヲナシ居タルキンセイエンノ勧告ヲ容レ此際
部下ト共ニ急激ナル行動ヲ中止シ寧安密山地方ニテ農業ヲ営ミ自活ノ途ヲ講ズルノ他ナキヲ知覚スルニ至リタルモ資金ナキヲ以テ救済方キンユイセンヲ介シ本官ニ申出デタリ、就イテハ彼等ヲ」
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet より
こうして韓国軍の潜水艦にもその名を残す偉大な独立運動家が、実は食い詰めた挙句に日本に援助を求めていたことまでもが発覚し、またもエンリコでネタにされることとなる。
かくしてすっかり意気消沈してしまった韓国側では「日本人の有名なIDのやつとは議論するな」という呼びかけが行われ、以降は「青山里大捷」のように双方が資料を出し合い、検証する形での議論はあまり行われなくなっていったという(NAVER総督府の記述より)
韓国としてみれば日本側の論客陣と論戦をすればするだけ自分たちの信じている歴史観がボロボロになっていくのに耐えられなかったのかも知れない。
ともあれ、こうして日本人ユーザーと、韓国人ユーザーが翻訳掲示板で直接議論する時代は終焉を迎えることとなった。
この当時のエンリコについて、韓国にあるネットユーザーが編纂しているオタク向け百科事典の「エンハウィキ」では、次のように伝えているという。
「エンジョイコリア(韓国ではエンジョイジャパン)でキーボード戦争を繰り広げる韓国人が知っていることは遠い国隣の国(韓国で有名な外国を紹介する教育漫画)や教科書レベルの者が多く論争力もない高校生たちがほとんどだったので、日本人からの捏造資料に賢く対処できず感情的になる場合が多かった。
独島問題の場合、日本も所有にたいして根拠がある資料を持もっているが、韓国人たちが勝たなければならない慰安婦問題や任那日本府説ネタの場合も韓国人は主導権を奪われがちだった
このように韓国人が後手に回る場合が多く『日本人が全体的に韓国人よりも論理的である』と考える人が多い。
韓国人が日本人にキーボードバトルで多少押される面があった。が、日本人は韓国人に比べて比較的根拠になる資料をあげていたのだが、よく見ると、日本が掲げる論理が説得力があるように見えても、矛盾したものもあった。ただ韓国人がこれを指摘していなかっただけ(;_;)。」
日韓ネット戦場 エンジョイコリアが残したもの
http://blog.livedoor.jp/nunisaha23h/archives/25767730.html より
あくまでも「負けたわけじゃない」。「日本の資料は捏造」といいたげだが、どことなく韓国側も論戦で負け続けであったことを認めているようでもある。
日本側にとってみれば、この論戦の成果は「ネットにはどこから探してくるのかわからないが、すぐに歴史資料を探してくるような物好きが多い」と、わかった程度のものでしかなかったが、韓国側にとってはかなり大きな衝撃であったのは確かなようで、一部の韓国人ユーザーにも「もしかするとおかしいのは韓国の方なのではないか?」という印象を与えることとなる。
このため、日本側の集まりに参加する韓国人ユーザーも、後に多少ではあるがあらわれるようになる。
しかし、それはあくまでも一部の動きであり、エンリコのやり取り全般を見れば「韓国人は話が通じない」という印象を広めてしまう結果となったようだ。
世界史コンテンツでは、「元祖」の作者と同じテッタ総統がNAVERでのやり取りなどを踏まえた「K(か)の国と愉快な仲間たち」というシリーズを開始し、韓国人のことを。
「とにかく理屈が通用しない」
「韓国の新聞見ても韓国人自身が韓国をどうしょうもないと思っているという調査結果がごろごろ出てくる」
「一応自由主義陣営なのに共産主義の北よかひどいんじゃねーかと思う」
「こういう連中と話し合うのはとにかくめんどくさい」
「相手が何か主張したらソース(資料)を出せというべし。大体こっちがソースを出せば黙るが、中には無視したり、捏造だと騒ぐのもいる」
「こんな状況で日韓関係が上手くいくわきゃない」
「韓国人のことを知らない人間はカモにされるからこういう知識は持っておいた方がいい」
「ワールドカップの応援を見てもわかるようにそもそも韓国人には『モラル』というものがない」
と、痛烈にこき下ろしている。
あくまでも、韓国のだらだらとした主張に付き合うのは無駄なので、さっさと黙らせるべし、というのがその結論というわけだ。
一方、NAVERのやり取りをもとにした「コリアンジェノサイダー・nayuki」の最終回は。
「基本的に日本人が韓国側の主張に合わせない限り、いくら議論したところで韓国人は納得しないから、そういうことを知った上で『友好』というのはやりたい人だけがやればいい」
と、いう結論でまとめている。
これ以後、ネット壮士たちの中でも韓国の話題に慣れたユーザー層の間では。
「韓国には怒るだけ無駄。関わらない限りは見てるだけなら面白いし、ああいう人たちだと思うしかない」
という姿勢でいることが推奨されるようになり、これは韓国を毛嫌いする「嫌韓」に対して「達韓」といわれるようになった。
もっともここまで激しい論戦が行われていたのは「最前線」とされた歴史や政治のカテゴリーに限ったことで、エンリコ全体がこのような険悪なムードであったわけではなく、とくにわだかまりのない旅行や食べ物などを話す場所は「緩衝地帯」として、両国ユーザーによる和気藹々とした交流も行われていたという。
つまり「特定の話題でなら日韓の交流は可能だが、政治や歴史の問題が出て来るとまず無理」ということになるだろうか。
それでも古参のネット壮士たちの間には、エンコリは両国のユーザーによって激しい論戦が行われる一方で、ある程度の相互理解も生まれた「古き良き」時代の産物という評価も多い。
エンリコは以後も、嫌韓熱や政治熱がネット全体で高まっていく中で、初期のネット壮士(コリアンウォッチャー)たちの貴重な遊び場となるのであった。
――続く