前回までに扱ったネット壮士たちの動向は、概ね2000年のはじまりから2003年の終わりまでのものとなる。
ネット壮士たちの活動を順に振り返ってみれば、もともとの彼らはインターネット上でもあまり話題にもならないような2ちゃんねるの一部を中心にして「雑談」していた少数の集まりからはじまったものに過ぎなかった。
しかし、それはやがて2002年に日韓ワールドカップと、北朝鮮による拉致問題の発覚と共にネットに広く普及するようになっていく。
実はここで2ちゃんねるの中では、すでに政治運動の担い手の変化が起きていた。
それはコリアンウォッチャーと、嫌韓厨との分裂である。
初期のネット壮士たち(コリアンウォッチャー)が「議論を好む傍観者」であったのに比べ、直接韓国への「嫌悪」から活動を比べた彼ら「嫌韓厨」は、やがて2ちゃんねるのあちこちで韓国への批判や、罵倒、ときには中傷を繰り返すようになる。
これはネットに限ったことではないが、政治運動は真面目で物好きな少数者たちの手によってはじまり、彼らのうちで論理が完成され、次にやってくるより行動的な活動家たちによって広まっていくという手順を踏むことが多い。
この場合、北朝鮮や在日韓国、朝鮮人社会の問題に早くから着目していた初期のハングル板の住民や、元祖世界史コンテンツの作者テッタ総統、そしてNAVERで連日韓国との議論をしていたような人々がその最初の世代に当たり、拡大した嫌韓厨がその次の世代と見ていいだろう。
そのためインターネット上の嫌韓、嫌在日韓国、朝鮮人社会の動きは2000年前後にはじまり、2002年以降拡大したという見方が正しかろうと思う。
しかしこれはあくまでもネット上に限った話であり、朝鮮総連や北朝鮮、さらには韓国との対立や軋轢はこれ以前から現実社会には存在していた。
これは「ぢぢ様」でも述べられているように、戦後一貫して日本との間に存在してきたものだからである。
この意味でいえば、ネットの嫌韓はまったく最近になって突然何らかの要因ではじまったわけではなく、インターネットという新しい交流の場が生まれたことにより、これまで世間が着目していなかった(あるいはタブー視されていた)問題に焦点が当たるようになったことが実はその最大の動機だったといえるだろう。
それは元祖世界史コンテンツにしても同様で、福沢思想の系譜は戦前から戦後まで福沢の弟子らによって継承されてきたものであり、その手段が斬新であったことはともかく、思想そのものにはほとんどオリジナル性はなかった。
このようにネット時代に生まれた主張の多くは、全般的に過去の「再評価」、「再検証」といった傾向が強く、そこに目新しい論理というものはほとんどないといってもいい。
しかし、それは彼らの創造力がどちらかといえば「内輪で楽しむ」ことに向いているためであり、何らかの理念よりも、基本的には勢いとノリだけで行動できるネットの強みの裏返しでもあった。
日韓ワールドカップ以降の嫌韓の原因などもそう見れば。
「ホスト国としてのマナーもなく、ルールもないような韓国のやり方に頭にきた」というだけに過ぎない、極めて単純な理由から起きたものであった。
そのためネット壮士(とくに嫌韓厨)たちは「韓国の悪行を世間に広めよう」としはじめたのだ。
しかし、ここで彼らの最大の障害となったのは世間との韓国という国に対する認識の差だった。
とくに2004年以降、マスメディアを中心に展開された「韓流ブーム」の中で、韓国の「反日」の危険性を指摘し、それを嫌悪するネット壮士たちの行動などはまったく表向きには評価されなかった。
これは返ってネットでは強い不満となり、日韓ワールドカップの際に韓国を批判的に扱う番組がほとんどなかったという、あのマスコミへの批判をさらに増幅させることになる。
このため2003年までは概ね「前期ネット壮士」の活動の方針が主に「観察」と「議論」であったのに対し、2004年以降の動きは「行動」と「論争」がその大きな位置を占めるようになり、返って福沢諭吉のような思想よりも、旧来の保守論壇との繋がりを強めていくことになる。
それは当時韓国を正面から批判していたのが、もっぽら櫻井よしこ氏などの保守派の論客だったためであった。
当時スカパーで放送されていた「チャンネル桜」などにネット壮士たちの一部が接近していったのもこうした既存の大手メディアへのある種の対抗意識があったのは確かであり、さらに後の「在日特権を許さない会」(在特会)の初代会長となる桜井誠らを中心にした、より具体的な社会運動を求める動きがあらわれたのもこの時期のことだった。
さらに2ちゃんねるでも、ニュース速報+板などを中心にイラク邦人人質事件、人権擁護法案反対運動などから次第に政治熱が高まっていくようになると、デモや抗議活動などへの参加者も少しずつではあるが増えていくようになる。
これは若い世代が自分たちの主張を展開し、とくに政治団体などとの結びつきもなく、社会運動に参加していったという意味で見れば、最近ではネットとリアルを問わずに比較的にめずらしい事例だろう。
このように、前期の活動によって撒かれた芽がまったく形を変えた社会運動へと変貌していくのが中期以降(2004年以降)の彼らの活動といえる。
ここで、2003年以前のネット壮士たちの運動とその後を追えば、まず2000年の初期に見られた朝鮮総連や在日、韓国朝鮮人社会への批判や、彼らのかつての歴史を問題視する傾向はほぼこの時代に完成したといってよかった。
参照:インターネット政治運動の歴史3(北朝鮮と在日韓国、朝鮮人社会と)インターネット上の壮士たち――
http://ameblo.jp/jyusimatu105/entry-12246168885.html
現在多くの「右派系」とみられるサイトに見られる「在日韓国、朝鮮人の悪行」といった情報にしても、実はこの時期にまとめられたものが引用されていることが多い。
在日韓国、朝鮮人社会は、北朝鮮による拉致事件の発覚以降、返って朝鮮総連と民団の和解などを通じて結束を強めるようになり、北でも南でもない「在日コリアン」という名称を使うことが増えていくが、これはもともと双方を区別していないネット壮士たちには「別にどちらでもいい」ことだったと思われる。
これ以降、「嫌在日韓国、朝鮮人社会」への感情は、ほぼ一貫してとくに嫌韓厨を中心とする保守界隈の主要軸となっている。
一方、この前期のネット議論では最重要案件であった北朝鮮に対するネットの関心は、一部の面白情報と拉致問題などを除けば、次第に扱いそのものが下火となっていった(もちろんミサイル発射などの例外はあるが)。
これはすでに世間的な関心事となってしまった北朝鮮を、それまで擁護していた左派の人々にせよ、もはや擁護することが難しくなってしまったからであり、それと同時に論点とならなくなったことが大きい。
代わって歴史問題の中心となったのが韓国であった。
韓国では2003年の盧武鉉政権誕生以降、金大中政権以上に親北傾向を強め、同時に日本に対しては執拗に過去の歴史問題を持ち出すようになる。
これはちょうどネット壮士たちが小泉政権、さらにその後継となる安倍政権、麻生政権(なお、福田政権は彼らにはまったく支持されていなかった)に託した、「戦後からの転換」という路線とは正反対のものであり、北朝鮮、次いで中国へと接近していく韓国は「特定アジア」などとも呼ばれ、日本の明確な「敵」と見なされるようになっていく。
このためネット壮士たちと左派の対立がそのまま日韓の歴史論争へと直結したのはあまり不思議でもなかったろう。
ただ例外だったのは、福沢諭吉の思想の直接的な継承者となった、全体とすればわずかなネット壮士たちであり、彼らは政治運動に関与することではなく、行政や学術から将来の政治や経済の全体を議論するようになっていった。
現在、twitterなどで左派系の人々からは「ネット右翼」に認定されてはいても、在特会などとは主張を異にし、もっぱら社会問題や経済問題を議論している「冷笑系」などと称されるタイプは概してこうした傾向が強いように思われる。
――以上、ここまでに書いたことが私のこの時期のネットについて知っているほぼすべてとなる。
これよりもなお詳しく彼らの思想(とくに時代的なものの)の背景を探るのなら、当時の社会事情というもの、あるいは政界の変化などをもっと詳しくまとめる必要があるが、ここでは彼らの運動はそもそも。
・まったく思想的なものからはじまったわけではなかった
・まとまった集まりが存在したわけではなかった
そして何よりも。
・勝手気ままに集まる人々によってどこまでも多様に変化していった
ものであることが少しでも伝われば、それで十分だろうと思われる。