映画「リリーのすべて(原題:The Danish Girl) | 彼方、英語勉強中

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最近、イギリスとアメリカで活躍している俳優のJohn Barrowmanさんのファンになりました。
映画、好きな本(村山早紀さん、有川浩さんなど)、音楽(斉藤和義さん、岡幸二郎さん)などについてとりとめもなく書こうと思っています。

もちろんネタバレ注意ですm(__)m

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観てきました。
リリーの日記のおかげで、道が開けた人もきっとたくさんいたんじゃないかな。
そして、そのリリーの生涯を、面白おかしくするのではなく、綺麗に描いてくれて、本当に良かったと思います。

ゲルダ役のアリシア・ヴィキャンデルさん、今すごく大好きな俳優さんです。「コードネームU.N.C.L.E」のギャビーちゃん役を演じているのを見てから、もうメロメロラブ
小さいのにパワフルで、リリーをあるときは友人、姉、もしくは母のように引っ張っていってくれます。

でも彼女だって、傷つかないわけじゃない。
愛している人が急に女性になりたいと言いだしたら?自分とは違う道を歩みたいと言ったら?
すぐに全てを受け入れるなんてこと、できっこないよ。

リリーが、「アイナーは死んだ」と言うシーン、今までずっとリリーを殺そうとしてきたアイナーの気持ちも考えちゃって、辛かった。

私自身は、人間って、白とか黒という風に、キッチリ分けられるものじゃないと思っているのです。ここでは、男と女、妻と夫とか。名付けることによって安心するけど、本当はそんなに単純じゃない。私自身も、その型にハマりたくない。
でも、社会という枠の中で生きていくのに、どうしても枠にハマったフリをしないと生きづらい。そういう葛藤のことを、「リリー」を観ながら考えてました。

枠の外の人間に対して、攻撃したりする人もいますが、外の人間も、もちろん同じ人間なんです。
怖がったり、異物のように接するのは間違ってる。
それに、100パーセントの理解はできなくても、寄り添うことはできるはず。
だから、そういう意味で、リリーとゲルダは寄り添っていたんじゃないかな。男女の枠を超え、夫婦の枠も超えて。

アイナーからリリーに変化した最初のダンスパーティーで、リリーはとても視線を気にしています。もちろん、女装がバレないか不安というのもあるのだろうけれど、女性がいかに視線に晒されているか、ということでもあると思うのです。
以前、何かの記事で読みました。
男性だったら心配しなくていいことを、いかに女性が心配しなければならないか、という内容の記事でした。
例えば、薄着したらジロジロ見られるんじゃないかとか、そういうことを気にしなければならない。そして薄着したことが、女性の落ち度のように言われることがある。
もちろん、男性だって「男らしくあるべき」みたいなプレッシャーはあると思いますけどね。


ストーリーを通して、リリーが首元を気にしているのが不思議でした。
後から考えると、あれは喉仏を気にしていたのかな?もしくは、首元でリリーの心境を表していたのかも。
自信のあるとき、前向きなときは首をあらわにしていて、自信のないときはストールで隠したり、襟元を閉じたり。
それだけでリリーの閉塞感を感じられました。
最後はストールとともに、自由に大空へ舞い上がる…。悲劇なのに、ハッピーエンドのような、不思議な感じでした。

「リリー」という人の困難に満ちた、でも決して後ろを向かない生き方を表した映画。
もう一度見たら、また違う発見があると思います。辛いけど、でも何度も見たい、そんな映画でした。