あまり理解されにくいが、
私は元々、自己肯定感が高い。

小さい頃からずっと、
自分で自分を否定した事は
ただ一度もなくて、
多くの人が自己否定をしながら
生きていることを知った時は
本当に驚いた。

私は生粋の負けず嫌いだから、
出来ない事も沢山あるし、
悔しい思いも沢山してきたけど、
それは努力すればいい事。

その分野は苦手分野なのだ、
と認識できた事も発見だし、
その発見できた事は、
それだけでも「価値」だと思ってた。

その苦手な分野は
私の中のほんの一部でしかなく、
そこだけ見て、
「私は出来ない子」だと
すべてを否定する必要が
あるのだろうか。

私は、
生きている命、全部が、
高貴な魂だと思っている。

小さい頃は
そう言葉では表現できなくても
感覚でそれを知っていた。


だから友達が
何かが苦手でも
ちょっと意地悪なところがあっても
それはその子の
「ほんの一部でしかない」
という認識で、いつもいた。
それで相手を貶めたり
嫌いになったり、
そんなことは全くなかった。

それが私の普通だったから、
普通じゃない感覚に出会うと
好奇心を掻き立てられた。

おお!
こんな風に思うんだ!
ていう新たな発見になった。


発見の連続の人生は
裏を返せば私が少数派ということ。
だから人から理解されない事も
昔からよくある。


「本当に人の裏を知らない。
人に裏があることすら知らない。
そんなに純粋だと騙されるよ。」
と忠告してくれる人が時々いる。

そんなのどうでもいいよね。
私は私のいる世界の方が
ずっと好きだ。


「人の裏の気持ちを考えないから
人を知らずに傷つけてるよ」
「人の気持ちが分からない」
「そのポジティブに苛々する」

同じ言葉を発しても
受け取る人次第で
180度違う感情を与えてしまう。

「元気が出る」「温かくなる」
と受け取ってくれる人もいれば、
不快感を露わにする人もいる。

人は
自分の持っている価値観が
脅かされそうな時に
負の反応をするのだと思う。


分かち合えない時もあるし、
理解してもらえない時もあるけれど
それも一過性のもの。

生きていく過程の中で
たくさんの経験をし、
また新しい価値観に出会って
砕けてくっついて
砕けてくっついて
広がっていく。

いつかお互いを
理解できる時がきっと来る。

来なくても。

来なくても
それでいい。


みんなそれぞれの
自分の与えられた課題を紐解く旅に
果敢に挑戦するだけだから。