kawanobu日記/「アルジェリア独立戦争」の悲恋を歌った「カスバの女」を大ブレークさせた時代背景:ベトナム反戦運動、フランツ・ファノン、OAS 画像1

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 どういう筋からなのか、子どもの頃から好奇心だけは人一倍に旺盛だった。小学生低学年で図鑑か何かで縄文土器の話を読み、見よう見まねで手づくねで粘土をこね、土器を野焼きして作ったこともある。もっとも縄文土器が粘土紐を巻き上げて製作されたなどということは、後年、考古学を学んで初めて知ったことだが。

飲み屋で歌う歌「カスバの女」
 そんな好奇心少年だった私も、ゴルフと麻雀だけは手を出さなかった。前者はカネと時間の無駄遣いだし(自然破壊の元凶でもある)、後者はもうもうたる紫煙の中で徹夜でうつということになじまなかった。おかげで社会人になっても、勉強する時間だけはたっぷりとれた。
 行かなかった所と言えば、カラオケボックスもそうだったかもしれない。だから演歌もほとんど知らない。ただ、時折行った飲み会で歌を歌わされる時は、「ローレライ」と「カスバの女」だけは歌う。「ローレライ」は中学校の音楽授業で学んでいたく感動し、ドイツに行った折は、わざわざローレライの岩を訪ねたほど思い入れがある。
 「カスバの女」は、仕事に就いてから、飲み屋に先輩に連れられて行った時、この先輩がいつもいの一番に歌った歌で、哀調を帯びた曲が気に入って、覚えてしまった

作詞:大高ひさお 作曲:久我山明 歌手:エト邦枝
 ♪涙じゃないのよ 浮気な雨に
 ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
 ここは地の果て アルジェリア
 どうせカスバの 夜に咲く
 酒場の女の うす情け

 ♪歌ってあげましょ 私でよけりゃ
 セーヌのたそがれ 瞼の都
 花はマロニエ シャンゼリゼ
 赤い風車の 踊り子の
 いまさら帰らぬ 身の上を

 ♪あなたも私も 買われた命
 恋してみたとて 一夜の火花
 明日はチェニスか モロッコか
 泣いて手をふる うしろ影
 外人部隊の 白い服
(注 三番の歌詞が「チェニス」となっているが、原文のまま。本当は「チュニス」が正しい)

フランスから独立を希求したFNL討伐の外人傭兵との悲恋
 今の世代が知らない、半世紀以上前の1950年~60年代初頭、フランスからの独立を求めて、アルジェリアの民族解放戦線(FNL)が、首都アルジェのカスバなどを拠点にゲリラ闘争を闘っていた(写真上)。
 前掲の歌詞で分かるが、「カスバの女」は、パリからの流亡の果てにアルジェのカスバの酒場に売られた女性が華やかだった若い時代のパリを望郷しつつ、やはりフランス軍に雇われて派遣されてきた対FNL討伐部隊の外国人雇い兵(当時は「外人部隊」と呼んだ)との結ばれぬ恋のやるせなさを歌ったものである。
 アルジェリア独立戦争は、遠い日本にも多少の波紋をもたらした。当時の学生、知識人はFNLに共感を寄せ、FNLの指導者だった精神科医フランツ・ファノン(真中)の『地に呪われたる者』は、静かなベストセラーとなったものだ(後年、遅ればせながら私も読んだ)。

アルジェリア植民者「コロン」も武装部隊編成
 アルジェリア独立戦争が、ただの独立戦争でなく複雑な高次方程式のような難題となっていたのは、アルジェリアの地政学的事情がある。
 地図をご覧いただくと分かるが、アルジェリアは地中海を挟んで、フランスにごく近い北アフリカにある。そのため、たくさんのフランス人が入植していたのだ。彼らは、「コロン」と呼ばれ、FNLによる独立が成った場合、苦労して開拓した農園や家・屋敷をすべて失う立場にあった。コロンは、自ら武装部隊「OAS」を編成し、FNLと闘った。
 そのため、フランス本国政府は、討伐対象のFNLと同様に、いやそれ以上にコロン対策に手を焼いたのである(写真下)。
 そのため第4共和制下のフランスは、コロコロと内閣が替わり、当時、「ヨーロッパの病人」と呼ばれていた。今も、日本の内閣ようなものだったと言えば、分かりやすい。

独立認めたドゴールにOASが反旗
 そのヨーロッパの持て余し者のフランスの救世主となったのが、ナチ・ドイツからフランスを解放した国民的英雄のドゴール将軍である。ドゴールは、病んだフランスの救世主として強大な権力を持った大統領に就くと、コロンの反対を押し切り、アルジェリア撤退、FNLによるアルジェリア独立を認めたのである。したがって、対FNLのコロンのテロ組織OASから、命を狙われるはめになる。
 ちなみにOASのドゴール暗殺計画は、フレデリック・フォーサイスの小説『ジャッカルの日』(角川文庫)に詳しい。『ジャッカルの日』は数あるフォーサイスのスパイ小説の中でも白眉であり、読み始めたら徹夜してでも読み進めたいほどに引きつけられるサスペンスであるので、良質のエンターテインメントを求める方には一読を勧める。

全く売れなかった「カスバの女」
 閑話休題。そのアルジェリア独立戦争の陰のある同士の男女の悲恋を歌った「カスバの女」は、最近、飲む機会があるとよくリクエストするのだが、必ず最初にディスプレーにタイトル名とともに「エト邦枝」という歌手名が表示される。エト邦枝とは、聞いたこともなく、はて誰?、どんな歌手なのだろう?、と疑問に思っていた。
 それが朝日新聞4月10日付「be on Saturday」の2面通しコラム「うたの旅人」で初めてこの歌の成り立ちとエト邦枝を知った。そして「邦枝」とは、「くにえ」ではなく、「くにえだ」と読むのだということも知った。
 1955年、「カスバの女」は、独立プロの映画主題歌として、低いアルトが売り物の歌手、エト邦枝の歌として制作されたという。ところが発売直後に、肝心の映画が中止となった。1766枚プレスされたSP盤レコードは、話題にもならずに売れ残ったという。
 記事によると、エト邦枝は、優れた歌唱力にもかかわらず、それまで60曲ほどレコードを吹き込んだが、ほとんど売れなかったという。そこに「カスバの女」の映画の中止と廃盤という悲運が襲い、3カ月後に失意のうちに芸能界を引退した。

時代が求めた忘れられた歌のブレーク
 55年はアルジェリア独立戦争の闘われていた時だが、遠い北アフリカの独立戦争に関心を抱くのは、左翼知識人だけだった。彼らは、フランツ・ファノンは読んでも、歌謡曲の「カスバの女」には関心を持たない。エト邦枝の歌唱力と優れた楽曲にもかかわらず、売れなかったのは、やむをえない。
 その歌が、そのまま埋もれてしまえば、私の先輩も知らなかっただろうし、したがって私が歌うこともなかっただろう。
 歌に思いを遺したエト邦枝は、引退後も東京・下北沢で歌謡教室を開き、そこで受講生に教え、また観光バスガイドの講習会に押しかけてはバスガイドの卵に「カスバの女」を教えたのだという。
 その歌は、バスの中でガイドに歌われ、それを聞いた客が飲み屋で歌い、それを聞いた知人・友人がまた歌いと歌い継がれ、そうやって伏流水のように静かに広がった歌は12年後の突然の大ブレークにいたったのだ。
 67年、突如としてバースとした「カスバの女」はテレビやラジオの歌番組を席巻した。歌い手のエト邦枝は引退しているから、当時の有名歌手が競うように番組で歌った。そしてどこの酒場でも、一晩に必ず何回かは歌われた。
 時代は、ベトナム反戦運動が、日本はじめ先進国で燃え盛っていた時期だ。まさに時代が、この歌を求めたのである。先輩も、そこでこの歌を覚えたに違いない。そして歌い継がれたこの歌を、若者たちが誰も知らない中で、今、私が歌い継ぐ。貧窮した将来の日本が、悲惨な内戦などに陥らぬことを願いつつ。
 歌謡曲もまた、時勢と世界情勢を映す鏡なのである。

昨年の今日の日記:「アメリカ紀行最終回:ラスベガス市街散歩・下;砂漠で大西洋産の巨大ロブスターを食べる」http://ameblo.jp/kawai-n1/entry-10243371500.html