なぜぼくらはおいていかれたの  -2ページ目

なぜぼくらはおいていかれたの 

地球はみんなの星 猫も犬も大きな動物も小さな生き物も人間も 心に感じる思いをまげず ゆうゆうとのうのうと生きる星 

大分前に避妊手術のために苦労してつかまえた三匹の森の野良ちゃん。私の体調がひどいダウン状態の上にぎっくり腰に襲われて大げさではなく疼痛に参ってしまって上尾までとてもとて行けず医院への予約も先に延ばし、もう何もかも嫌になりかかっていた時、8キロ体重のクロちゃんが隙をついて不明になり、マジしんどさにどうしようもなくなっていた。

 

それでも森の猫のごはんあげの時に倒れたりするほどになりながら頑張り抜いていた。

実は息子二人に、身体の状態が悪いのも経済が悪化をだどっているのも全て母親が悪い、世間の奴らがどれほど我らを苦しめ猫たちを置き捨てているとしても、奴らは誰一人母親や我らの苦しみも命もどうでもいいんだ、なぜそれを、平然と、ま、いいかと受け入れ全て自分の責任だと思うのだ!!!!!!!と言い立てられ、睨まれ、その後私はひどく精神が弱ってきてしまっているのだ。おまけに友人に愚痴をこぼすと、息子さんの言うことは正しい、あなたはなぜ、猫を可哀想に思うのに、息子さんの気持ちをわかろうとしない!? だって。

 

 

弱っても弱っても私は頑張るゾ!

なんと今日は! 不明になっていたクロが、泥だらけ状態で見つけるっことができたのだ!!! こんな嬉しいことはない!

ただ、見つけたあとが大変だった。見つけた森はちょっと遠くて、そこから家まで連れ帰るのに自分が死にそうなほど辛かった。何しろクロは8キロもあり、私はまだぎっくり腰が治らず、脚も折れるかと思うほど不自由で痛い。(大げさでないのだ!!!)

 

ま、いいか。クロちゃは泥だらけですやすや眠っているし、昨日はやはり探していた大デカちゃんが別の森から現れてくれたし。(笑)

 

ただ私、疲れてしまったおで、今日はバテ寝する。お休み。

 

寒さ厳しいですが、皆様お変わりなくお暮しのことと思います。私のことですが、フェイスブックを退会するつもりでいましたのに、退会の方法に時間をとられ面倒くさくなってしまいました。(汗)また記事や内容を放棄してしまうのが残念に思うようにもなりました。そこで、いい加減な私で何ですがやはり続けることにしました。ひとつお願いと言いますか提案があります。私は実は友達リクエストを、ご了承も得ず勝手に申し込みさせていただいた無作法をしているところがあります。それをずうっと申し訳なく思っております。本当に申し訳ありません。そこで、もしそのことをご負担に感じていらっしゃる方がいらっしゃいましたら、リクエストを消滅して下さいませ。そしてこれまでの失礼をどうかお許しください。・・・皆様、世は厳しい自然やコロナでヤレヤレでありますが、元気で自分のペースでゆうゆうと生きていきましょう。ではでは。(佐々木和恵杯)

 

 

 

◇ 説教  (石田 学牧師)         2021年1月10

 

 ② MP3形式、5.5MB


「これに聞け」という言葉の重さ
 

先週の水曜日、1月6日は公現祭でした。

その日から公現節に入りました。

クリスマスの季節が終わり、

しばらく祝祭のない通常の期間になります。

わたしたちはきょうから、

マルコによる福音書からの説教に戻ります。

昨年の待降節に入るまで、

マルコ福音書から説教してきました。

久しぶりに戻るので、

どんな場面でマルコ福音書を中断したか、

覚えておられる方は少ないでしょう。

わたしも改めて見直しました。

そう、イエス様が弟子たちを伴って、

とても不思議な旅をなさった箇所でした。

まもなくイエス様たちはエルサレムを目指します。

エルサレムはガリラヤ地方のずっと南です。

もし、近々エルサレムへと向かうのなら、

南か、せめて西の方に行くべきでしょう。

ところがイエス様は弟子を連れて、

ずっと北の地方、

ユダヤ人の住む地域の北の外れ、

フィリポ・カイサリア地方に行きました。

目的のエルサレムとは正反対です。

どうしてそんな余計な道行きをしたのか、

その理由がわかりません。

何か必要と意味があったのでしょう。

マルコはその時イエス様が三人の弟子と、

「高い山に登られた」と告げます。

なるほど、高い山に登るのが、

この北の地方に来た目的なのでしょう。

ユダヤには他に丘陵地帯はあっても、

高い山はこの地方にしかなかったからです。

おそらくヘルモン山という、

三千メートル近い山が連なる山岳地帯です。

その山裾にある高い山のどれかが、

イエス様と三人の登った山に違いありません。

そこで、きょうの福音書の出来事、

イエス様の姿が変貌するという、

神秘の出来事が起きました。

いったいなぜ、なんのためでしょうか。

何を体験したくて、

あるいは何を弟子たちに体験させたくて、

わざわざこんな遠くの地方に来て、

高い山を目指すようなことになったのか。

何のためにイエス様の姿が一時的に変貌したのか。

そこには意味と目的があったはずです。

でも、福音書はそのことを伝えていません。

だが、考える手がかりがあります。

きょう旧約聖書は出エジプト記から読みました。

この箇所とマルコ福音書の出来事は、

とてもよく似ています。

皆さんも出エジプト記とマルコ福音書を読んで、

そこには関係がありそうだと感じたはずです。

エジプトを脱出したヘブライ人一行は、

エジプトの軍隊の追跡から逃れると、

シナイ山のふもとに来ます。

そこでしばらく滞在するよう神から命じられ、

荒れ野で神から十戒を受けることになります。

その時、モーセがシナイ山に登り、

神と語り合い、十戒を授けられました。

その後いろいろややこしい出来事がありますが、

今回はそれが目的ではありませんので、

省略しましょう。

結論から言うと、

最初の十戒の板をモーセは砕いてしまい、

再度、シナイ山で十戒を授けられます。

その時、モーセが山から下りると、

モーセの顔は神の威光を受けて、

光を放っていたというのです(34:29-35)。

ヘルモン山でイエス様の変貌を見た弟子は、

かつてシナイ山でモーセの身に起きた、

顔が光を放って白く輝いていたという、

その出来事を思い出したはずです。

その時三人の弟子が見たのは、

イエス様の姿がまっ白に光輝き、

エリヤとモーセが現れて、

イエス様と語り合っている光景です。

シナイ山のモーセと同じだ、

彼らはそう感じたに違いありません。

この出来事に驚き、

畏怖を抱いたペトロは、

見当外れなことを口走ります。

 

  先生、わたしたちがここにいるのは、

  すばらしいことです。

  仮小屋を三つ建てましょう。

  一つはあなたのため、

  一つはモーセのため、

  一つはエリヤのためです。

 

ペトロは何を言いたかったのでしょう。

仮小屋とは何でしょうか。

まったく意味不明の言葉を、

ペトロは自分でも分からず口走りました。

マルコは的確に説明しています。

 

  ペトロは、どう言えばよいのか、

  わからなかった。

 

意味不明な言葉ですが、

たしかなことが一つあります。

ペトロは、目の前で、

シナイ山でモーセに起きたことと同じことが、

今まさに起きていると思い込んだのです。

モーセの身に起きたことが、

いまイエス様の身にも起きていると。

モーセの体験の再現です。

本当にそうだったのでしょうか。

シナイ山でモーセが体験したこと、

それは神がモーセに現れたことでした。

神の威光を受けて、

モーセの顔は光を放ちました。

イエス様はその時、

神の威光を受けて、

白く光り輝いたのでしょうか。

いいえ、違います。

かつてシナイ山でモーセが体験したことと、

いまイエス様の身に起きていることは、

似て異なるものです。

なぜなら、イエス様の姿が白く輝いたのは、

神の威光を受けたからではなく、

神の光が一時的に宿ったからでもないからです。

イエス様ご自身が神の威光の光を放ち、

弟子たちはイエス様がその威光に輝くのを、

目の当たりにしたのでした。

天の御座におられた神の御子の、

神としての輝きを弟子たちは見たのでした。

本当なら弟子たちはその時、

この方、イエス様こそが、

神の御子、神そのものであると悟るべきでした。

しかし、彼らはそうは考えませんでした。

目の前にいるこの方は、

モーセやエリヤと並び称されるべき、

偉大な人間の一人だと思い込んだのでした。

多くの人はイエス様のことを、

偉大な聖者の一人と思い込んでいます。

世界四大聖人の一人として崇めたりします。

それは多くの人にとって、

最大の尊敬と評価の証なのでしょう。

でも、どれほど偉大だと信じても、

一人の人間として崇めているだけです。

神の威光を自ら放ち、

白く光り輝くこの方こそ、

信じ従うべき神に他ならない。

そう考えるべきでした。

こんな考え違いをしている弟子たちに、

天の神は呼びかけます。

イエスというこの方こそ神であることを、

天の父なる神の声が宣言します。

 

  これはわたしの愛する子、

  これに聞け。

 

唯一の神の内に、

父と子の区別があり、

父と同様に子も神であること。

だから子なる神に聞き従うことは、

神に聞き従うことに他ならない。

そのことが弟子たちに明らかにされた瞬間です。

弟子たちはその声の主を探します。

でも、もはや誰も見えず、

彼らが見たのはイエス様だけ。

「これに聞け」というと物扱いのようです。

「この人に聞け」の方がよいでしょうか。

その声に促されて、

その時弟子たちが見たのは、

もはや神の威光を放ち、

まっ白に輝くイエス様ではありません。

それまでと変わらない、

もとどおりのイエス様。

人々を教え、病の人に触れて癒し、

憐れみを抱き、ファリサイ派と議論し、

貧しく、時に疲れて眠り、

弟子たちといっしょに旅して来た、

その人を彼らは見たのでした。

「この人に聞け」という声が示した方は、

光輝く神の子ではなく、

現実の中で弟子を集め、

人々を愛し憐れみ、

教え、慰め、癒し、導く方。

その方に聞き従えと宣言されたのでした。

イエス様のすべてが彼らを教え導く道標。

そして彼らが望みを託すべきは、

神の威光をかざす支配や権力ではなく、

苦難を受け、十字架につけられて死に、

復活する神の御子です。

しかし、どうやら人間というものは、

神の威光をまとって光輝く、

栄光のキリストに従いたいようです。

神の光で人々を輝かせ、

成功と繁栄を保証する、

権威と権力と勝利を掲げる、

栄光のキリストに従いたいようです。

キリスト教の歴史の中で、

どれほど繰り返し、

そのような光輝くキリストが描かれ、

信じられてきたことでしょう。

多くの場合、

国家の繁栄、戦争の勝利、

王や権力者の栄光が、

光り輝くキリストと結び付けられてきました。

アメリカの悲劇は、

国家の権威とキリストを結び付け、

繁栄と成功の神学を信じてきたことに、

根本の原因があるように思われます。

キリストを国家の繁栄や権威と結び付けたり、

自分の成功や幸運と結び付けることは、

キリストを信じているという口実のもとで、

実はまったく異なるものに耳を傾け、

キリストではない別のものに聞き従うことです。

人々は光輝くキリストの幻想を掲げ、

キリストの威光を自分の身にまとわせて、

願望が創り出す光輝く幻想のキリストに、

自らを聞き従わせる誘惑にさらされます。

だから、わたしたちは、

いつも思い起こさねばなりません。

「この人に聞け」という声で、

弟子たちが見たのはイエス様であったことを。

「これに聞け」と告げる声は、

あの時、あの場所にいた三人の弟子だけでなく、

時代を越え、文化を超え、民族を越えて、

すべてのキリストを信じる人に対して、

今も呼びかけられています。

常にイエス様を見て、

その姿に倣い、

聞き従うようにと。

「これに聞け」という父なる神の言葉は、

わたしたちにとって、

とても重い意味を持つ言葉だということを、

常に心に留めておきたいと思います。

 

 



(以上)

ぎっくり腰体験されたことありますか。

 

あれって厄介なんっですね。動物の世話のある私にはここの所マジ悪夢です。

この寒さの中ごはんぐらいは朝夕食べさせたいので、森にも通って頑張っているのですが、ついに無様な事態を晒してしまいました。

今朝早く、森の二か所にフードをかかえて行ったところ、枯れ葉に足をとられて這いつくばってしまい、痛みですぐ起き上がれなくなっていたら顔見知りの方に倒れていると勘違いされてしまいました。トホホホです。

 

「野良猫なんかほっときゃいいだろ」とすっかり奇異に思われてしまいました。トホホホです。

数日の後Facebookを退会することにしました。猫たちを置いて行かれる暮らしはこれなりに私には自然な流れではあろうと思いますが、高齢になるに従い体調や社会性の衰えは如何ともし難く、独自の思うこと深くなるばかりで、やはり現実への拒否感、孤独感のままに生きるがいいと。これまで皆様、私には過ぎたる交流と愉しい日々を下さりありがとうございました。心から感謝申し上げます。

今思う。{自分は何者であったのか}・・・・・悲しく辛い問いである。

 

<↓数年前に書いた日記(傲慢で浅はかで不誠実な自分の文である>

 

やっぱり事態が突破できないのは、あれとそれとこれだ。

 

いずれも自分の成した流れなのだ、耐えるしかない。

努力はそれなりにした。

その上での困難事態だ。もお、いい。こんな時こそ天の示しのままに、だ。

 

クリスチャンの私は、加須教会で浅木仰二師に教えを乞うた短い時間がある。

本当に短い時間だったし、顛末は残酷なものであった。

それもまた自分の成した流れであった。

その残酷さは辛いものであったが、でも、私は、浅木牧師のいくつかの言葉に救われそれをよすがにして生きてきた。

 

ひとつはこんな言葉だ。

人間関係に自分では誠意を尽くしているつもりでありながらいつも排他の孤独に苦しむ私にこう言われた。

 

「必ず真実はわかるもんなんだよ。必ず」

ああ、あの言葉を言って下さった時の浅木牧師のまるで干し草のような笑顔だったことよ。

 

私はその日を夢見続けてきた。

真実がわかる日。私のしたこともしなかったことも。言ったことも言わなかったことも。もう、決して私の何をもわかろうとはしない人に、必死で胸も心も魂も開こうとすることはないその日を。

開くことに疲れ切ったそれらに柔らかな毛布をかけて、あとは静かに待とう。

 

私はこうして神に救われ続けてきた。

 

生きることは なかなか なかなか このように俗なことよ。(笑)  家族のことも現在の現実のことも自分の内なる全ても。(笑) 求めるものも捨てたいものも なかなか なかなか。

 

 

※2021年の現在、私は小山市のある教会で、日曜日ごとにインターネットで礼拝を受けている。そのことを大変ありがたく嬉しく思っている。

ここのところ、

私はぎっくり腰で苦しんでいた。

それだけではなく、

腹部が腫れている感じがあって、両手で抑えると結構な痛みである。

それを耐えながらの、朝夕の家や森の猫たちの食事等の世話は普通でないものがあった。

 

そんな時の数日前の真夜中3時(起きて時計を見た時刻)、庭の納屋の方から寒さ除けの寝床を作っている猫たちの居場所が騒がしい。

寒気の強い夜で在ったがパジャマに寒さよけを羽織り 納屋に行って恐怖でぞおっとした。

納屋の隅に積んであった段ボールが崩れ、見たことのない大きな捕獲機があるのだ。

そしてそのあたりにビニール袋があり中を開けて見ると、猫シーツとともに糞がある。

頭がぼんやりしていた私は事態がよくわからなかったが、見たことのない大きな捕獲機を誰かがしかけ、猫がかかっていた経緯があったらしいのを感じ取った。

猫の姿はなかった。

 

すぐに警察に通報しようと思ったが、時刻はもう4時近くだ。お隣りの方は身体の状態がお悪いと知っている。パトカーを呼んでけたたましい状態にするのはできない。それで7時まで待ち、S妻の警察に電話をした。

警察は私が説明した事態が事実ならそれは犯罪がそこに起きた、という認識はされたようで、ほどなく二台のパトカーが来た。

 

納屋の状態はあたりが崩れて大きな捕獲機があるだけで、猫や生き物が異常な事態になってるわけではないので、動きようはない感じだったが、私の家の環境が、しばらく前からある国の研修生や車の修理工場になり、他の同じような修理工場も含め、食べ物の文化の違いで猫や犬が食べられているという噂が立っており、私が聴き調べたところでも役場もそれを認識していることを話しした。

 

最終的に私は、

「他国から大勢の移住が在った場合、日常の暮らしの中で、食文化の違いはおこると思うが、そうした違いの指導や教育は大事で、それが行きわたり理解し合って生きることは、子供の教育の上でも大事ではないでしょうか。そうした指導、教育は、役場や警察は真剣になっていただきたい。

私の家に猫が多くいるのは、

福島の地震と放射能が漏れたことによる猫たちの保護活動、及び住民の意識の欠如で捨て猫や犬が多いために、やむなく保護や啓発を心掛けているからです。(置き捨てられる動物たちの哀しさ辛さなどへの思いを子供や人々が理解することの大切さ、必要さは大事です)

ということなどをお話もしました。

 

その後私は身体が悪化し、いったいこういう問題はどこの部署が担当し、お互いの人間教育、生活教育をして、人間としての理解などを高めていくのか、と大変悩みに思っている。単なる、うちの猫が食べられるという不条理や悲しみの問題だけではないのである。

この文化の違いを放置していて、地域そのものが猫や犬の問題はそれでいいという思考が続いて行く町にどんな未来があるのだろう。

芸能界の人材、特にお笑い系の人に、私は有能意識を持っていて、トークも芸も面白いと思うことが多々あるのだが、以前からオリラジには関心があった。

中田さんは頭脳明晰で場所を得ればなかなかの特別な力の発揮力があるだろうと感じていた。

 

このたび海外に移住をされ新たな活動をされるというニュースが今流れた。陰ながら応援したい。