岡山から金沢経由で東京へ~のぞみ,サンダーバード,はくたか,ときを乗り継いだ初夏の旅~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

岡山に来る時は高速バスの乗り継ぎで3本の本四連絡橋を渡り、のんびりと来ることができたけれども、所用を終えた後はめまぐるしい行程を組んでいた。

これから4本の高速列車を乗り継ぎ、金沢に寄って東京へ戻ろうと思っている。
岡山から東京までまっすぐに行けば730km、それを北陸経由で850km、100km以上も余計に大回りしようというのだから、気宇壮大な汽車旅と言えなくもない。
改めて計算したら100km程度しか回り道にならないのかと、ちょっぴり拍子抜けしたのも事実であるが、それが日本列島の構造と線路の敷き方の面白いところである。

岡山駅のみどりの窓口で、時刻表をめくりながら指定席を取得したい列車を紙片に書き出し、窓口へ持って行くと、「Dr.スランプ」のアラレちゃんを思わせる若い女性が、大きな目をぱちくりさせながらコンピューターを何度も叩き、長い時間をかけての発券となった。
週末の昼下がりで、窓口には長い列ができていたから、若干罪悪感に駆られたけれど、

「丁寧にメモを書いて下さってありがとうございます」

と礼を言われながら渡された切符は、乗車券と特急指定席券合わせて5枚の大作だった。
山陽・東海道・湖西・北陸・信越・北越急行・上越・高崎・東北と経由する線名の数も多くて、乗車券に印刷しきれなかったらしく、手書きで追加されていた。

第1走者は、13時49分発山陽新幹線「のぞみ」28号東京行きである。
新幹線ホームに駆け上がると、鋭利な刃物を思わせる風貌の500系が下りホームで発車を待っているのが目に入った。



かつて、日本最速の新幹線として君臨していた頃は、「のぞみ」に乗ると言えば500系を選んでいたものだった。
今では編成も短くなって各駅停車の「こだま」で運用されている姿には、栄枯盛衰を感じずにいられないが、僕は今でもこの車両が大好きである。
決して実力が劣っているわけではない。
けれども、曲線がきつい東海道区間で速度が出せないことと、空力を考慮した先鋭的な先頭車両のフォルムが仇となって定員が少ないことなど、主として経済的な理由でN700系に座を譲った経緯は、いかにも効率一辺倒の現代らしい。

500系「こだま」が侘びしく発車していった直後に、薄いブルーの塗装をまとった九州新幹線用N700系「さくら」鹿児島中央行きが、後を追うように入線してきた。
どこかで、あっけなく、500系を抜いてしまうのだろう。




定時に岡山を発車した最新鋭のN700系A編成の上り「のぞみ」28号は、緑に染め上げられた丘陵地帯を走り抜けていく。
新幹線には旅情がないなどと言われる。
思うに、それは気の持ちようであって、日常の慌ただしさから脱却して、滑らかな乗り心地に身を任せながら、移り行く車窓を眺められる時間が至福でないわけがない。
新幹線は盛り土や高架部分が多く、見晴らしがいいから、なおさら爽快な気分になる。
数分おきに出でてはくぐるトンネルが視界を遮るのが、少しばかり煩わしいけれど。




山手のトンネルの狭間にある新神戸駅に停車し、大阪平野に出て新大阪に滑り込むまで、退屈する暇もないほどあっという間である。
14時34分着、180.3kmを僅か45分という韋駄天の走りっぷりだった。



第2走者は、新大阪駅の高架ホームから地平ホームに降りて乗り換える14時46分発「サンダーバード」25号金沢行きだが、そこには、思いがけない列車が停車していた。
381系──昭和47年の中央西線電化に合わせて、長野と名古屋を結ぶ特急「しなの」に投入された電車である。



曲線で遠心力を相殺するため、内側に車両を傾ける構造になっている振り子式台車を日本で初めて採用したのが、この形式の最大の特徴である。
カーブに差し掛かると身体がのけぞるくらいにぐいっと傾く乗り心地や、カーテンをつけずに二重ガラスの内部にブラインドを入れた窓、通路を歩く人が捕まる取っ手がついた背もたれなどは、今でもよく覚えている。

長野で育った鉄ちゃんの僕としては、381系をはじめ、ディーゼル特急時代の「しなの」用に開発された大出力エンジンのキハ181系、特急「あさま」「白山」に使われた碓氷峠での協調運転用189系・489系、現在の「しなの」用の383系、長野新幹線用に開発された周波数変換が可能なE2系と合わせて、

「長野への特急には特別な車両が開発されているんだ」

と誇らしく思っていた子供時代が懐かしい。
逆に考えれば、特別な車両を配しなければ列車が満足に走れない山国ということである。

その後、381系は紀勢本線や伯備線などにも投入されて、それぞれの線区のスピードアップに貢献したが、その後の新型車両の登場によって、最近は数が減っていると聞く。
500系新幹線ですらスピードを上げられなかった東海道区間で、N700系が時間短縮を可能にしたのは、コンピューター制御の車体傾斜装置が採用されてカーブでの速度が向上したからである。
言わば、381系の振り子式台車の進化とも言えるのだ。

一見、ひと昔前の特急列車と変わらない外観であるが、よく見ると、重心を下げるために若干背が低い。
屋根の上には空調装置などのでっぱりがいっさい見られず、車両の裾が丸く絞られている独特の容貌であり、それがベージュと赤の懐かしい国鉄型塗装で僕の目の前に現れるとは思ってもいなかった。
「しなの」に乗って木曽や名古屋へ家族旅行をした子供の頃の思い出が、目の前の懐かしい車両に重なってありありと脳裏に蘇ってくる。
「回送」のヘッドマークに切り替わっているのは、紀勢本線の特急「くろしお」として、はるばる南紀から上ってきたのだろうか。



381系の向かいのホームに入線してきた、大阪駅仕立ての683系「サンダーバード」25号は、定刻に発車した。
土曜日の昼下がりで、なかなか混み合っている。
僕が指定された座席の隣りでは、若い女性が俯いて文庫本を読んでいた。

「失礼します」

と挨拶して通路側に座ったのだが、その女性は軽くうなずいただけだった。

列車は淀川に沿って東海道本線を北東に向かうが、しばらくは大阪都市圏の延長で建て込んだ車窓が続き、東京周辺とあまり変わりがない。
街並みが黒っぽく古びて、右側に東寺の五重塔が垣間見えると、京都に停車である。
新幹線の車窓から何度も見慣れた風景であるが、高架ではなく地平の在来線から眺めれば違った街のようにも思える。



「サンダーバード」は、湖西線に入って俄然速度を上げた。
殆どが高架区間で眺望が良く、小気味いいほどの高速走行である。

大津の街並みの遙か彼方に琵琶湖が顔を覗かせ、北上するに従って湖面がぐいぐいと近づき、風景が鄙びてくる。
湖西線を通るのは2度目だったが、前回は485系特急「雷鳥」の上り最終列車だったから、全くの暗闇の中だった。
伝統の愛称「雷鳥」もいつの間にか消えてしまい、若干の寂しさを禁じ得ないが、路線名にたがわず、これだけ琵琶湖を見せてくれるとは知らなかった。





僕は大いに堪能したのだけれど、窓際の女性はほとんど身動きもせず、窓枠に置いたペットボトルに口をつける気配もない。
時折、顔を上げて窓外を見つめる風情はどこか儚げであるが、長い黒髪に隠れて、最後まで顔を拝することはできなかった。
岡山で昼食を食べ損ねていたので、新大阪駅で駅弁を買ったのだが、あまりに物静かな隣席の雰囲気に、ガサガサと弁当を広げるのがはばかられた。

湖西線を無停車で駆け抜け、敦賀に停車して北陸トンネルをくぐれば、そこはもう北陸の風土である。
5月の中旬ともなれば、裏日本と言えども、真っ青に晴れ渡った空は太平洋岸と何ら変わりはなく、水を張って田植えを待つ水田に傾きかけた西日が映って、眩しいくらいに明るい車窓だった。



武生、福井、芦原温泉、加賀温泉、小松と停車駅を重ねるに従い、車内にぽつりぽつりと空席が目立ち始める。
通路の向かいが2席ともあいたので、席を移ると、件の女性は顔をこちらに向けないまま靴を脱ぎ、足をくの字に折り曲げて座面に乗せたので、思わず苦笑した。
くつろぎたかったのであろう、窮屈な思いをさせて悪かったと思う。

広々とした福井平野と加賀平野を遮二無二猛進し、267.6kmを2時間40分で走破して、「サンダーバード」25号は17時22分に夕闇迫る金沢駅へ到着した。



所用を済ませ、新大阪で買い求めた近江牛弁当と、ホテルの夜鳴き蕎麦を食べた翌朝も、暑くなりそうな快晴だった。





早朝の金沢駅前には新宿からの夜行バス「金沢エクスプレス」号が到着したばかりだった。
金沢駅構内の店も、7時前ともなれば何処も開いておらず、白山蕎麦の立ち食いにした。
コシのある麺でとっても腹ごたえが良く、美味だった。




金沢駅のホームに早くから待機していたのは、第3走者の7時10分発「はくたか」3号越後湯沢行き、681系特急電車である。
離れたホームには大阪行きの「サンダーバード」が入線していたが、どちらも、ホームの人影は少なく、閑散としていた。




金沢から「はくたか」で越後湯沢に出て上越新幹線に乗り換えるコースは、今や東京との往来の最速ルートであるが、昨年10月から10回ほどの金沢往復で1回も利用したことはなかった。
長岡経由で東京に帰ろうとして、悪天候のために北越急行の快速列車に乗せられたことはあったけれど。
色々な乗り物に乗ってみたかったとは言え、奇をてらいすぎたかとも思う。

僕が指定された座席は、3号車15Aである。
北陸本線の金沢以東を走る列車に乗る時は、海側に座りたいと思う。
しかし、A席が海側なのか山側なのか、僕はいつもわからなくなるのだ。

東京発着の列車は、一般的に、西向きの先頭車が1号車になることが多い。
東海道新幹線ならば博多方向、東北・上越新幹線ならば東京方向である。
A席は1号車に向かって左側である。

しかし、北陸本線の場合は、下りが大阪・名古屋・米原から北陸方面とされて列車番号も奇数になるのは知っているが、1号車がどちらを向いていて、A席が進行方向のどちら側になるのか、券売機に向かい合っている短時間で咄嗟に思い浮かべることは実に難しい。
前日に乗った大阪発の下り「サンダーバード」の1号車は最後部であり、僕の座席は3号車8B席で、進行方向右側だった。
A席が1号車に向かって左側というのは共通であるが、下り列車で1号車が最後尾になるというのは、大阪でも西向きを先頭にしているということなのか。

ならば、東京発の上越新幹線を受けることが使命の特急「はくたか」はどうなのかと言えば、上越新幹線では東京寄りが1号車なのだから、「はくたか」も越後湯沢寄りが1号車で、海側がA席ではないか、と推測した。
ところが、実際は、大阪を発着する列車と同じく、金沢から越後湯沢方面を下りとして奇数の列車番号となっていて、1号車が金沢寄りの最後尾になる「サンダーバード」などと共通であった。
つまり、A席は越後湯沢に向かって右の山側であるから、がっかりである。

金沢から越後湯沢方面が下りとされたのは、北陸本線が東海道本線米原駅から順次建設され、古くは東京と北陸地方の行き来は米原経由がメインだったから、という歴史を反映してのことらしい。
上越新幹線と絡めて考えてしまったから、勘違いしてしまったのである。
今回の座席指定は岡山駅の係員さんに任せっきりにしてしまったけれども、自動券売機で自分で座席を指定する時、北陸本線の海側がA席だったかD席だったかわからなくなって、僕はいつも「はくたか」の海側の席に座り損ねる羽目になるのだ。



「はくたか」3号が定時に金沢駅を発車して間もなく、A席側は、朝の日差しに容赦なく照りつけられた。
一斉にカーテンを閉める乾いた音が、車内に響く。
存分に車窓を楽しみたかったのだけれど、とても5月とは思えない強烈な光に、僕も渋々カーテンを閉めた。

朝早い列車だから、東京方面へ行く用度客をこまめに拾う使命を帯びているのだろう、「はくたか」3号の停車駅は多い。
石動、高岡、富山、滑川、魚津、入善、糸魚川、直江津、十日町──
しかし、日曜の朝だったから、乗ってくる客はそれほど多くなかった。









倶利伽羅峠の車窓は、左右どちらの席でも、奥深い峠の雰囲気を味わえる。
間口が赤茶けた煉瓦積みになっている、古い隧道をくぐる風情は、いつ来ても良いものである。

滑川駅では、「はくたか」の到着と同時に、向かいの古びたホームから富山地方鉄道の電車が発車していった。
JRの特急と接続しないのか、と驚いたが、滑川からしばらくは富山地鉄と北陸本線は平行するライバル関係だから、当然なのかもしれない。
程なくして、「はくたか」は富山地鉄の電車を事もなげに追い抜いてしまう。


砺波平野では、眩しさを我慢しさえすれば、未だ雪を被っている立山連峰の荘厳な峰々を、A席側から望むことができる。
視線を手前に転じれば、水が張られた水田の一部には苗が植えられて、もうそのような季節になったのかと、時の移ろいの早さに粛然とする。

残念なのは、神通川、常願寺川、黒部川を渡る鉄橋からの山々の眺望が、建設中の北陸新幹線の白亜の橋梁で遮られてしまっていることだった。
来年の開業まで、見通しの良い川面から見る北アルプスは、お預けである。






入善から先の車窓は、俄然、D席側が抜きん出ていて、親不知をはじめとする日本海の眺望を満喫できる。
空いているのをいいことに、僕は席を移して紺碧の海原を存分に堪能した。





直江津を出れば、2駅目の犀潟から、列車は北越急行ほくほく線に入る。
その年の2月に通った時には深い雪の底に沈んでいた町や野山が、今では一面の色鮮やかな新緑に覆われている。



その時の快速列車も一生懸命走ったけれども、「はくたか」のスピード感は桁違いだった。
断続するトンネルの中で、これまで聞いたことがないような甲高い風の音が悲鳴のように響き、風圧の変化で耳がツン、と痛くなる。
このような現象を体験するのは初めてだったが、「はくたか」が北越急行線で在来線最高の時速160km運転をしていることと、全てのトンネルが単線用で口径が狭いことが理由であろうか。

北越急行線は東頸城山地と魚沼山地を貫くため、路線総延長59.5kmの68%に当たる40kmがトンネル区間である。
特に、トンネル掘削史に名を残す空前の難工事となった、長さ9117mの鍋立山トンネルは有名である。
大島駅と松代駅の間にある鍋立山トンネルは、19年の歳月と、予算の10億円を大幅に上回る146億円の巨費を投じてようやく完成したのだが、一時は、視察した地質学者が、

「これは、掘ってはならないトンネルです」

とコメントしたと言う。
日本の最先端の技術を惜しみなく投じ、技術者や施行者の不屈の闘志で掘り抜かれたトンネルが、こうして、北陸と首都圏を結ぶ大動脈として役立っていることを考えると、胸が熱くなる。

十日町を過ぎてすぐの6199mの薬師峠トンネル内で、列車はいきなり減速し、やがて闇の中で停止してしまう。
何事かと思うけれど、トンネル内に列車行き違いのための信号場があるのである。
やがて、平常とは逆の、左側の暗闇に光が流れ、金沢行き「はくたか」4号と離合する。



JR以外の私鉄線で最も長い1万471mの赤倉トンネルを、物悲しい風切り音を奏でながら走り抜けると、列車は高原の趣が漂う魚沼盆地に飛び出した。
正面に谷川岳と朝日岳の勇壮な容姿を抱き、魚野川の清らかな流れのほとりにどっしりとした高架の越後湯沢駅が現れれば、「はくたか」3号の201.9km、2時間44分の旅も終わりである。







ここから東京までの199.2kmを、わずか1時間20分で走る俊足のアンカーは、10時04分発の上越新幹線「とき」316号、2階建て車両を連ねたE4系だった。



岡山で、アラレちゃん似の係員さんから、

「『とき』の2階席は混雑してまして、1階なら窓際が取れるんですけど」

と聞かれて、いいですよ、と何気なく答えてしまったのだが、上越新幹線の線路の大部分は防音壁に囲まれている。
いくら窓際でも、1階席から見えるのは、車両と防音壁の隙間から仰ぐ、抜けるような青空に浮かぶ筋雲だけだった。
岡山も大阪も金沢も越後湯沢も、そして2万2221mの大清水トンネルを抜けてからの関東平野でも、5月の空の爽やかさに変わりはなかった。



空を見なよ♪

と思わず口ずさみかけて、続く歌詞が、星が流れてる♪であったことに気づき、

見上げてごらん♪

と歌を変えてみたけれども、こちらも、夜の星を♪と続くことに気づいた。

日中の空を見上げる歌を、どうしても思い出すことができないままに、高崎、大宮が過ぎた。
ようやく視界が開けたのは、埼京線の線路が平走する終点東京の手前であった。





↑よろしければclickをお願いします m(__)m